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何故目を閉じていたのかは分からなかった。黒い空間の中へ飛び込んだ瞬間に何故か目を瞑っていた。だからこそ薄暗い瞼の裏が橙色の光に包まれて、勢いよく目を開けた。 開けた景色は昼間のように明るい。いや、本当に昼間だった。抜けるような青空は雲ひとつないブルー、その下に生い茂るようなビルが建ち並んでいる。目の前には大きな交差点が広がっている。さらに100人を超えるであろう人々が行き交っている。 渋谷のようだった。 咄嗟に振り返る。あれだけ冷えていた改札も、薄暗い駅のホームもない。ワープしたような感覚だった。 少しして違和感を覚えた。それは周りを歩く人々が話している”言葉”だった。 「つんげん?どうておれのせるの?」 「つのけえよ おえもってここの」 くすんだ金髪の女子大生も、どこかに電話をかけているサラリーマンも、皆が適当に平仮名を縫い合わせているように聞こえる。決して方言などではない。同じ日本語なのに南米の言葉のようだ。 渋谷、新宿、池袋、六本木、思いつく限りの都会の街をひとつにまとめてしまったような街並みは、休日のように騒がしい。 しかし不思議と恐怖心はなくなっていた。 「異世界だ…。」 そう言葉を漏らしても、周りの人々は一切の反応を見せない。俺はつい浮かれてしまった。 ノートとペンを再び手に取って辺りの光景を書き記していく。見たことあるようで見たことのない建物、街並み、服装。あちこちから拾って繋ぎ合わせたような平仮名を話す人々。そしてその人々すらもじっくりと眺める。 確かに人間ではある。しかしどこか変だ。まるで粘土で精巧に作り上げた”人間にそっくりな人形”という印象を受ける。職人がリアルを追求して作ったような唇は依然として平仮名を繋ぎ合わせていた。 よく見ると街並みも不自然だった。幼い子供がレゴブロックで作ったようなビル群はあちこちから生えており、さらに建物と建物の隙間が一切ないのだ。まるで溶接されたかのようにぴったりとくっついている。自分だけの街を作るソーシャルゲームのようだった。 交差点を渡り、何の店が入っているかも分からないビルの前を通る。よく見ると高架もかかっており、見たことのない色の電車が空の下を滑っている。 その時に俺はある仮説を立てた。ここは異世界というよりも、パラレルワールドなのかもしれない。 つまりこの世界にいる人々は現実世界の人間とリンクしている可能性がある。自分はそこに迷い込んでしまったというわけだ。だからこそ見たことあるようで見たことのない景色が広がっているのだ。 そんな詰め込まれた壁のような街並みの中で、一箇所窪んでいる箇所が見えた。やたらと明るい空間で妙に暗い部分。数百メートル先の左手にあるその黒い場所は、何故か目に付いた。小綺麗な透明のガラスの中に漆を塗った小石が置かれている、そんな印象だった。 平仮名ばかりの言葉が顔の周りを駆け巡る中、窪んでいる箇所の前に立つ。 細い路地だった。 空を突き刺すようなビルの間に、細長い道が伸びている。地面を鶴嘴で削り取ったようだった。 石畳で出来た小路に足を踏み入れる。すると先程まで両耳に張り付いていた喧騒が、突然遠い世界のBGMのようになった。隣の家から聞こえる話し声、思わず振り返ると、切り取られたような大通りから人々は消えていた。 しかし道を引き返すわけにはいかなかった。 この路地の先には何かがある。そんな自分の勘を信じずにはいられない。まるで感情を表すかのように爪先は路地の奥へと進んでいた。 左右に建っているのは薄暗い一軒家だった。突然住宅街に迷い込んだような雰囲気が辺りを満たしている。ついさっきまでいた暗い駅のホームで浴びたような冷たい風が、通りの向こうから吹いている。子どもの時に行ってはいけない場所へ足を踏み入れているような感覚だった。 路地の入り口から少し進み、俺はふと左手から気配を感じた。足を止めてその方へ向く。 武家屋敷だった。木造の大きな門が聳え立ち、瓦屋根が眉毛のように下がっている。そこから左右に塀が伸びていた。 奥には2階建の家がある。まだ侍がいた頃に偉人が住んでいたであろう雰囲気の、古い住居だ。感じた気配はその家の方向からした。 しかし妙な感覚だった。何故か奥にある家よりも、この木造の門がより恐ろしく感じるほどの威圧感があったからだ。どこかくすんだような色の、薄暗い木の門。前に立つだけで計り知れないプレッシャーがあった。 重苦しい空気が漂っている。他者を寄せ付けない電磁波が流れているような感覚がある。それでも俺は逆らう事にした。ゆっくりと爪先の向きを変えて、敷居を跨ぐ。門をくぐって参道のように真っ直ぐと伸びる屋敷へと歩いた。 細かく木の板を削ったような引き戸の前に立って、中の音を聞く。一切の物音がない。無人の武家屋敷ということだろうか。何回か扉を叩いたものの、ガシャンという派手な音を立てるだけで、誰かの声が返ってくることもなかった。 ゆっくりと引き戸を開ける。 広い玄関の奥には細い廊下が伸びている。白い襖が沿うように並び、張り詰めた空気はピアノ線のようだ。靴を脱がずに家の中に上がる。 木の床がギィと軋む。 全ての襖は閉まっているが、前から冷たい風が吹いている。 木の床がギィと軋む。 いつの間にか鼓動は早くなっている。掌に汗がにじむ。 木の床がギィと軋む。 俺は廊下の真ん中、一枚の襖の前で足を止めた。 ゆっくりと襖を開ける。スーッと滑らかな音が鳴る。10帖を超えるであろう和室は横に広がっている。一見何てことない空間だったが、すぐに妙な違和感に気が付いた。 和室の真ん中、畳の上に真っ黒な箱が置かれている。化粧ポーチほどの小さな箱は正方形で、妙に禍々しく感じる。俺は逸る思いを抑えられなかった。 畳を踏んで黒い箱に近付いていく。距離が近付く度に黒い箱がはっきりと見える。表面には畝ったような模様が描かれていた。龍の絵がプリントされているのだろうか。さらに興味が湧いて箱を手に取ろうと、一歩踏み出した時だった。 ずずぅ、ずずぅ、ずずぅ 布を引き摺るような音は廊下から聞こえた。誰か人がいるのかもしれない。黒い箱の前から離れて、開け放たれたままの襖からゆっくりと顔を覗かせる。 和服を着た女性だった。廊下の奥でこちらに背を向けたまま、左右に揺れている。その都度裾が床に擦れて、あの音が鳴っているのだ。紫陽花の絵が描かれた布は床を掃くように揺れている。俺は徐々に異変に気が付いた。情けない声をあげてその場に尻餅をついてしまう。 その女性は廊下の奥で首を吊っている。背を向けて、首に縄をかけて。 全身から脂汗が噴き出たのはほとんど同時だった。先程まで抱いていた好奇心はすぐに消え、恐怖が感情の全てを占める。ここに訪れてはいけなかった、分かりきっている後悔を抱いて立ち上がろうとした時、それまで背を向けていた女性がぐるりと首を曲げた。 こちらに背を向けたまま、首だけを180度捻っている。 「ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ」 カッと開かれた女性の口と目は、蓋をしたように真っ黒だった。妙な声を発しながら女性は、笑っていた。口と目の中は真っ黒だが、唇の端が吊り上がっているのだ。 「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」 ここから逃げないといけない。本能が、アンテナが、危機を信号のように発している。俺は震える足に鞭を打って立ち上がり、玄関の方を向いた。 こんなに廊下は長かっただろうか。ひんやりと冷たい路地から黒い箱のある和室の前まで、50メートルもあるかもしれないと思うほど、玄関までの距離が妙に長い。状況が理解できない中で様々な不安要素が入り混じる中、俺は咄嗟に振り返った。 嫌な予感は的中した。 首を吊った女性は顔だけをこちらに向けたまま、床を和服の布で擦ったまま、黒い口と目で笑みを浮かべたまま、ゆっくりとこちらに近付いてくる。そのスピードはかなり遅いものの、このまま臆したままでいるとすぐに追いつかれてしまいそうだった。 逆らうように走り出す。遠くに見える引き戸までは5分もかかるのではないかと不安を覚えてしまった。 「まままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままままま」 背後から迫ってくる女性の声がより鮮明に聞こえ、思わず背筋が凍る。女性にしては低く、鑢で研いだような声が鼓膜を突き刺す。呼吸の間隔は徐々に短くなる。廊下に流れる冷たい空気が鼻の中に滑り込み、鼻腔が焼けるように痛い。俺は掌で顔を覆った。この冷たさを吸い込んではいけない、何故かそう感じたからだ。 「はははざははままはははざざまざははははははざままざははざはざざざざざざはまざざざざざまざざざままはははざまままははままままざ」 声が大きく聞こえる度、鼓動はトランポリンのように跳ねる。このまま死んでしまうのではないか。あの女に取り込まれて自分も首を吊られてしまうのではないか。様々な不安と恐怖が入り混じり、肺を締め付けた。だからこそ無我夢中に、俺は叫んでいた。 「やめろ、俺は宙翔として、まだ、まだまだ生きるんだ!」 その時だった。あれだけ遠くに感じた引き戸が突然目の前に現れたのだ。勢いを止められずに引き戸と真正面からぶつかる。引き戸はその瞬間勢いよく外れて、俺は外に飛び出した。 「いって…。」 全身に鈍い痛みが走る。思わず顔を顰めて腰を摩ったが、俺はすぐに家の中を見た。すぐ真後ろに女性が立っているのではないかと不安になったからだ。 しかし目の前にも、家の中にも先程までの女性はいなかった。 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでも不安は拭えない。一息ついたところに付け込んでくるのはホラー映画の定石である。俺は脇目も振らず走り出し、大きな門を抜けた。 右に曲がって大通りへの入り口を目指す。どういう方法で現実世界へ帰ることができるのかは分からなかったが、それでもここにいてはいけないという危険信号が灯っていたのだ。今すぐに冷たい風が吹く路地を飛び出さないといけない。 渋谷にも見え、新宿にも見える大通りが近付く。俺は先程引き戸とぶつかった時よりも勢いを増して大通りへ飛び出した。 眩しい光が俺を包み込んだ。
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