犬が食べないもの

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犬が食べないもの

 ケンカの後は、甘い。恋愛小説にも出てくるし、実は友達からも聞いたことがある。嘘だあ、と美緒は思う。ケンカの後に、その気になんかなるわけ無いじゃない。  大体、龍太郎と美緒はケンカしたことはない。龍太郎が瞬間的に逆上したり、美緒が一方的に不機嫌なことは、たまにある。ただ、そこから言い争いに発展したことはない。意外に冷静な龍太郎が上手く舵取りするか、美緒が言いたいことを飲み込むか、或いはその両方であったりもする。だからこそ上手く続いているのだと、美緒は思っている。 「シャワーの後、床が濡れてたら拭いといてって言ったじゃない!」  靴下を気持ち悪そうに脱ぎながら、美緒は文句を言った。ユニットバスの悲しさで、シャワーカーテンから飛び出した湯が手洗いの床に飛んでいた。 「あ、濡れてた? ま、炬燵の中で靴下乾かしとけばいいじゃん」 「だって、これから洗い物するんだもん。キッチンの床、冷たいもん」 「じゃ、俺の靴下貸すから」 「他人の靴下なんて、ヤダ。龍君が洗い物して」  龍太郎は少し不愉快な顔になったが、逆らわず「はいはい」と天板の上の食器を片付け始めた。 「油モノには、お湯使ってね。お茶碗は少し浸して、ごはんが柔らかくなってから――」 「うるせえなあ」  重ねた食器を持って、キッチンに行きかけた龍太郎がぼそりと呟いた。 「だって、言わないと食器の汚れが落ちないじゃない」 「だから靴下貸すって言ったの。俺の洗い物が気に食わないんなら、横で監督すりゃいいじゃん」  食器をシンクに下ろして、振り向いた龍太郎の口はへの字だ。 「靴下が濡れたのは、龍君のせいじゃない」 「確かにそれは悪うございました。でも普通、トイレの電気点けた時点で気がつくんじゃねえ?」 「気がつかないあたしが悪かったって言うの?」  なーんていうのが、初ゲンカであった。 「いいっ! もう、寝る!」  帰ると言わないあたりが、深刻でない証拠である。まだ電車は動いている。  龍君が悪いんだもん。なのに、うるせえって何?  拗ねた顔の美緒は、キッチンの洗い物の音を聞きながら、布団を被った。目を瞑って、寝たふり寝たふり。  洗い物を終えて炬燵に戻った龍太郎は、布団の盛り上がったベッドを見て、溜息をついた。  他人の靴下って、なんだよ。俺のだぞ、ちゃんと洗濯済みの。  謝りたくはないし、少しの不精で大文句を言われて、実際かなり面白くない。冷蔵庫から発泡酒を持ち出し、テレビのチャンネルを変える。普段なら美緒は見ないヒストリーチャンネルにして、音を絞った。  寝たふりを続けるうちに、美緒は本当に寝入ってしまったらしい。静かな寝息が聞こえる。十一時だ。ちょっと早いけど、俺も寝ちゃおうかな。龍太郎は伸びをする。  一緒に夕食作って泊まってく、なんて滅多にないから、楽しみにしてたんだぞ。ベッドに恨みがましい視線を向ける。  ちょっと俺も悪かったんだよなあ。  布団の中は、美緒の体温で暖まっているだろう。  スウェットの下で胸を包もうとする手に気がつき、美緒はぼんやりと目を開いた。  あれ、あたし、寝ちゃってたんだ。  首にあたる柔らかい唇と、背中から伸びる腕の持ち主は、いつの間にか一緒の布団に入り、ブラを外してしまっていたらしい。スウェットシャツがたくし上げられ、今度は脇腹に唇を感じた。溜息がこぼれそうになる。 「いつまで寝たふりできる?」  胸の先端をきゅっと摘まれ、悲鳴を上げた。 「やっ! しないもんっ!」 「やだね。俺、準備完了だもん」  龍太郎は、後ろから腰を押し付けてみせた。細い指が、美緒のショーツにかかる。 「本当にイヤだったら、無理言わないけどさ。ね?」  ショーツの上から指でなぞられ、美緒は息を詰めた。 「ん? ヤダ?」 「やっ!ずるいっ!」 「それは何に掛かる言葉かなー」  布団をはねのけて腹にキスをしはじめた龍太郎への美緒の答えは、やわらかな喘ぎだった。 「やっ!」  脱がせようとした手を押し戻して、美緒は後ろ向きに背中を丸めた。  ぷんだ。あんな怒った顔してたくせに。  一瞬詰まった呼吸を整えながら、実は背中の気配を気にしていたりもするのだが。 「ごめんって。こっち向いて、美緒ちゃん」 「ぷん」 「あ、そういう態度?」  美緒の背中にするりと手が入り、触れるか触れないかの感触が滑っていく。 「……ふ……」  背から脇腹へ滑らかに動く指に、美緒の背がぴく、と反応する。 「背中向けて寝たらさびしいでしょ? ほら、こっち向いて、ぎゅーってしよ?」  耳に声を吹き込みながら指で唇をたどると、龍太郎は指先に熱い吐息を感じる。後ろから抱きかかえながら胸に手を回し、ゆっくりと揉みながら、耳をやわらかく食む。 「……んぁ……ずる…い」  力の抜けた美緒の肩を倒して、組み敷く。舌が唇を割る頃には、美緒の身体は従順になっていた。反応してやるものかと思っても、力が入らない。  首筋から胸へ、舌を這わせてゆく。脇腹を撫で上げ、背が浮いたところで胸の赤みを嬲る。美緒の呼吸は浅くなり、すすり泣くような声が混ざり始める。 「これでもイヤ?」  ショーツにもぐった指が確認するように動き出して、龍太郎の呼吸もかすかに荒い。 「ぁ……ん…やんっ……」 「イヤだったら無理にとは言わないけど」 「う……意地、悪い……」  目を閉じた美緒は、全身の神経で龍太郎の動きを追う。 「続けていいんなら、自分で脱いで」  龍太郎の命じるままに、美緒はシャツから首を抜き、スウェットも足から外した。残りはショーツだけだ。 「一番汚れるところを脱いでないじゃん」  すでに全裸の龍太郎が言う。実は美緒には高いハードルなことを、知っている。美緒はまだ龍太郎の目の前で、下着を取ってみせたことはない。  脱いだ後の美緒は、どうしていいかわからずに膝を抱えて座ってしまった。横たわるといかにも待ってましたの格好に見えそうだし、立ち上がるわけにもいかない。そして「脱いでないじゃん」である。あまりの恥ずかしさに、目を瞑って足から外した。  顔を伏せた途端、龍太郎の手によって美緒の膝は左右に分けられた。肩が割って入り、中央に顔が伏せられる。思わず背を丸めると、「見えない」と身体を後ろに突かれた。 「……っくっ!」  熱い舌がぬるりと入った感触に、息を詰める。腰が浮く。 「すげ……見てるだけで、いけそう」 「やぁっ……」 「欲しい?」  指が入り中を引っ掻くように動くと、粘着質な水音がした。  繋がりたい、と美緒は思う。身体中を隙間なく密着させて、自分の持っているすべての感覚で受け入れたい。もう限界、と呟いた龍太郎が枕元を探るのを待ちきれない思いで待ち、胸を合わせると身体中が熱くなった。  ケンカの後が甘いというのは、本当だ。龍太郎の肩にしがみつきながら、美緒は声をたてた。  あたしの理性を溶かしてしまう、ただ一人だけの人が、ここにいる。 「ところでさ」  始末をしながら龍太郎は蒸し返した。 「さっき、俺のこと他人だって言ったろ。すっげー傷つくぞ、あれ」 「そんなこと言ったっけ?」 「他人の靴下なんか履かないって言った」  言ったような気がする、と美緒は記憶を覗きこんだ。 「だって、下着じゃない。下着の共有なんて、誰ともしないよ。龍君、あたしのショーツ穿く?」 「嬉しいかも」  何気に変態発言である。 「大体、下着くらいなんだって言うんだよ。もっとダイレクトに口に入れてる……」 「っ! なんてこと言うのよ! ばかっ!」  龍太郎めがけて脱いだスウェットやら枕やらが飛んだのは、言うまでもない。
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