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ジェラシック・ホリデイ
「気軽に声を掛けられるんじゃありません!」
ある日の龍太郎の言葉だ。朝、会社に行く途中の会話の続きである。
美緒の住まいの近所には、某大学の農学部がある。そこの学生らしき人から、学内のイベントのチラシを渡されて、是非参加してくれと言われたからである。近隣の人たちと学内の散策をした後、そこの植物や昆虫について、小さな講座があるらしい。面白そうでしょ、と美緒はそれを龍太郎に見せた。
「なんかね、駅であたしを何回か見かけて、顔を知ってたからって」
「あのね、美緒ちゃん。すれ違うだけの人の顔、美緒ちゃんだって覚えてないでしょ? よっぽど気をつけて見てないと」
「え? あたしの顔、特徴的?」
鈍いもここまで来れば、かなり立派だ。
「篠田の色気のない彼女」は、最近「篠田のすっげーかわいい彼女」と言われていることを、美緒は知らない。顔立ちや服装ではなくて、表情や仕草や、全体に纏っている薄桃色の靄は本人には見えないし、同性にも見えにくいものだ。
龍太郎は気が気じゃないのに、美緒は相変わらず無頓着に鈍い。
「とにかく、行ってはいけません。行くんなら、俺も一緒」
「だって、朝早いよ?」
「だったら行くな!」
どうも、噛み合わない。
もともと、美緒はあちらこちらで声を掛けられやすいのである。道を聞かれる、カメラのシャッターを頼まれるなんて序の口の話で、博物館なんかでは気がつくと警備のオジサンと話しているし、海に行った時は海の家のオバサンに氷をサービスしてもらっていた。他人との距離の薄さを、鈍さがカバーしているようなものだ。
でも相手が男であれば、龍太郎だって黙ってなんかいられない。
「龍君って、案外とヤキモチ」
「美緒ちゃんが気がつかなすぎるんです」
「女房妬くほど、亭主もてもせず」
……もてていることに気がつかない亭主は、どうなんですか美緒ちゃん。
嫉妬は自分の自信のなさの現われだということを、龍太郎は知っている。美緒は他の男と見比べて自分を選んだのではなく、その時のタイミングと自分からのアプローチ以外になかった。不慣れな美緒に自分のペースを持ち込んで、乗せてしまっただけなのではないかと思うのだ。好きだと言ってもらっても、身体を開いてくれたとしても。
龍君、最近なんだかとっても心配性。合コンなんか行くと、必ず翌朝には「どうだった?」のメールが来るし、この間なんて「近所に引っ越そうかな」なんてマジな顔だった。近所に引っ越してくれれば確かに嬉しいけど、そうすると通勤は今よりも遠くなるし、実家も沿線じゃなくなるのに。
自分とつきあうために無理をして欲しくない、と美緒は思う。営業事務の美緒と違って、龍太郎は客先によって勤務時間がブレるのだ。
そして、駅でもらった一枚のチラシ。背の高い学生が「よくお見かけするんですよ」なんて言いながら、声を掛けてきた。美緒にはまったく見覚えのない顔だったが、書店や駅ビルの中で何度もすれ違っていると言う。あたし、大抵進行方向しか見ないで歩いてるしなーんて、美緒は何の不思議もなくイベントの誘いを聞いた。
違うの? あれって女の子だから誘われたの? だからって、あの人があたしに興味持ってることになるの?
遊びの場で女の子に声をかけるのと、特定の個人に声をかけることの違いは、美緒にはわからない。
「行ってはいけません」と言われると、つい反発したくなる。大学の庭には興味はあったし、ミニ講座っていうのも捨てがたい。土曜日の早朝、美緒は某大学の方へ足を向けた。
午後に待ち合わせしているので、そのまま出掛けられる支度済みだ。龍君に会ったら、ミニ講座も聞いてきた、何にもなかったよって言うんだ。
てくてくと歩いてイベントの行われる大学の入口で、美緒は何かの違和感を感じた。どうも、年齢層が違う。ほとんどが小学校低学年の子供を連れた、お父さんお母さんだ。そう言えば、夏休みの自由研究にピッタリの主題ではある。そして現在は八月の終わり――そのためのイベントか。
何故あたし? 子供がいるように見えた?
どこまで阿呆だ、と笑ってはいけない。
「あ、来てくれたんですね」
チラシを渡してくれたと思しき学生(顔はよく覚えていない)が美緒に声をかけた。
「えっと、このイベントって」
「地域活性化のための、教育イベントです」
学生さんはにこやかに美緒の肩に手を置く。
「子供と親ばっかりなんで、俺も何か楽しいこと欲しいなーなんて。ずっとかわいいなと思って、気になってたから、声を掛けさせてもらったんです。いや、来てくれるなんてカンゲキです」
美緒の頭の中から、感嘆符がこぼれそうになった。
「ナナフシがいまーす。どんな動きをするのか、よーく観察しましょう」
逃げ遅れて、案内役の話なんかちっとも聞かない小学生たちと歩く。美緒は空を見上げた。
空、綺麗。こんな暑い中何してんの、あたし?
誘いをかけた学生は、美緒のすぐ後ろにいる。あたし、ナナフシの動きよりもそこに赤い実のなってるアジサイみたいな葉っぱの木、それの属性とか花の形状とかが知りたいです、先生。小学生たちが騒いでいる中、そんなことは言いだせない。
バチがあたったのだ、と美緒は思う。龍太郎が「いけません」と言ったのに、わざわざ出掛けてきたのだから。
「ミニ講座の後、待っていて貰えますか」
「いえ、出席しないで帰ります。待ち合わせがあるし」
「あれ、残念。じゃ、連絡先教えてよ」
これは、いくら美緒でもわかる言葉だ。
「それはちょっと」
「だって、そのために来てくれたんじゃないの?」
「あの、彼氏に怒られるしっ!」
美緒はそのままその場を一生懸命離れた。やっぱり、あたしが何か間違えたらしい。
上野駅の大パンダ前で、しょぼくれた美緒が立っているのを見て、龍太郎は「おや」と思った。
「どうかした?」
「ごめんなさい、あたしが間違ってました」
そんなことを隠しておくのもおかしい気がして、美緒はさっさと詫びた。龍太郎のゲンコツは、頭の直前で寸止めだ。
「だーかーらーっ! 少しは警戒してよ」
「でも、ちゃんと断ったもん。あたしには龍君がいるもん」
「いなかったら、誘いに乗るの?」
「乗らない」
美緒はきっぱりと即答した。
「あんな風に、こっちが何に呼ばれたんだか、わかんないようなのは反則」
いや、気がつかないのは美緒ちゃんだけだと思うんだけど。
「俺がそんな風だったら?」
とりあえず、龍太郎は質問してみる。
「龍君はそんなこと、しない。ちゃんとプライベートにする」
俺もそういう機会があれば、ドサクサ紛れに好みの女の子誘うかもよ、美緒ちゃん。
とりあえず、美緒は美緒の基準で龍太郎を選んだらしい。
鈴森の情報が正しいならば、声を掛けられる率は低くない。「鈍いから」と鈴森は笑うし、龍太郎も半分はそうだと思っている。しかし、残り半分は。
とりあえず手を繋いで、歩き出す。アメ横で買物をする約束だ。輸入の菓子などを買い込み、ウロウロしているとシルバーのアクセサリー店がある。
「ちょっと入っていい?」
龍太郎の言葉に、美緒は「やだ」と返事した。
「シルバー、キライ?」
「キライじゃないけど、やだ」
少し膨れ気味だ。
「何? なんか不機嫌?」
美緒は言いにくそうに、それでも膨れっ面だ。
「あれ、捨てていい?」
「何が?」
「食器棚の引き出しのリング」
あ、やべ。捨ててなかったんだっけ?
「誰のだか知らないイニシャル入り」
忘れていたことを指摘され、龍太郎は珍しくうろたえた。
「ごめんなさい。捨ててください」
謝るのは、龍太郎の番だった。
「無神経っ。あたしがしょっちゅう食器棚開けるの知ってて」
「そんなもの、あったことすら忘れてた」
龍太郎にすれば、見つけて見ないフリを続けていた美緒が驚きだ。その場で指摘すれば良いことなのに、ずっと気にしていたんだろうか。
ああ、女の子だな。
「あたしの迂闊さよりも、龍君の迂闊の方が重大な気がする……」
「いや、それはどっちこっち言えないでしょう」
黙って、それでも手を繋いだまま春日通りまで出たら、急におかしくなった。先に龍太郎が笑い出し、美緒が続き、止まらなくなる。
バカみたい。あるかないかわからないことで、相手の気持がどこに向いてるか推し量ろうとするなんて。一緒にいたいことに変わりはないのに。
他の男を見せたくなくても目を塞ぐことはできないし、過去にあった出来事を消し去ることもできない。不安にさせることや不機嫌にさせることがわかっているなら、それを目にさせない努力をすれば良いのだ。今、お互いに触れるのはお互いだけなのだから。
「帰ろうか?」
「もう?」
「俺の家」
本当は上野でブラブラするだけの予定だった。
「したくなっちゃった。本当は家まで待てないくらい。ダメ?」
覗きこむ龍太郎の視線を避けて、美緒は小さく返事をした。
「……ダメじゃない」
「じゃ、帰ろ」
上野の雑踏の中を、駅に向かってふたりは歩きだした。
龍太郎のアパートに到着した途端、美緒はベッドに押し倒されて更紗のスカートをたくし上げられた。
「うわ、何? えっと、シャワーとかっ!」
「家まで待てないくらいって言ったじゃない。すぐにしたい」
「だって汗かいて……」
龍太郎の舌は言葉を聞かずに、美緒の唇を割って入った。その間に、手は忙しく胸を探る。シャツを押し上げ、ブラのホックを外しただけで、龍太郎はそこを強く吸った。
「んんっ」
「ほら、美緒ちゃんだってもう、準備できてる」
性急な指が、美緒の中を探る。きれぎれの小さな叫びが美緒の口からこぼれた。
ベッドの下に足を引き、美緒をうつぶせに返した。スカートを腰の上まで持ち上げると、自分はジーンズのファスナーを下ろしただけで、そのまま自身を美緒にあてがい、一気に入っていく。
「やだぁっ! これ、いやぁっ!」
言葉とは裏腹に、龍太郎は強く蠢きながら締め付ける美緒を感じる。タオルケットに顔を埋めた美緒のくぐもった喘ぎだけが聞こえる。強く突き入れると瞬間首が上がり、一声高く啼いた。
「まだ、だめだよ」
身体を戻して、スカートだけを取る。美緒の呼吸は整わない。龍太郎は見下ろしながら、自分のジーンズを足から外した。
両胸の先端を摘みあげ、舌で赤みを嬲る。目の前の首に巻きついたままの形になっているTシャツと下着が、やけに扇情的だ。すすり泣くような声とキスを求める仕草に、美緒の頭を抱えて応えた。
俺だけが、こうできる。俺だけ。
性急に腰を揺すり上げる。
「いやっ! あぁっ……あっ」
美緒の声が高くなる。
「くぅっ……」
龍太郎の手は、美緒の胸を握りつぶすかのように掴んでいた。
美緒に体重を預けてしばらくしたら、龍太郎は猛烈に恥ずかしくなった。多分、美緒も同じだろう。素面で、こんな熱に浮かされたみたいにコトを行って、しかも。
なんか、すげえ気持ち良かった。
身体を外しながら、こっそりと美緒の表情を窺う。まだ呼吸の整わない美緒は、苦しそうに身体を丸めた。
手を伸ばそうとして払い除けられ、龍太郎の手は宙に浮いた。
「……怒った?」
こいつも阿呆だと、笑ってはいけない。
「こんなのはいや。気持がすっごく、ないがしろにされた気がする」
唇を尖らせて美緒は着衣を直しはじめる。
ごめんなさい、否定できません。自分のことばっかり考えてました。でも。
「……感じてたくせに」
「……っ!」
枕が高く持ち上げられ、龍太郎に向けて振り降ろされるのを身体を傾けて避けた。
「うわっ! たんま! 暴力反対!」
もう一度枕を避けながら、顔を見る。この顔って。
「恥ずかしかった?」
それ以上暴力行為に及ばれると困るので、龍太郎は美緒の腕を取り押さえる。
「ばかっ! 龍君なんてきらいっ!」
ジタバタしている美緒は羽交い絞めだ。
「俺は好きだけど」
「離せっ!」
「暴れるからダメです」
やっぱり恥ずかしかったわけだ。
美緒のジタバタが納まってから、やっと手を離す。
「何か俺、パンツもナシでこんなの、すっげー間抜け」
「うん」
美緒が拗ねた顔のまま返事をした。
「美緒ちゃん」
「はい」
「こうやって触るのは、俺だけ。美緒ちゃんの恥ずかしい顔見るのも、俺だけ」
「それ以外、考えたこと、ない」
もしものことなんて考えても仕方がないのに、約束が欲しくなる。人間は欲深だ。
「おなか空いた。シャワー浴びて、ごはん食べに行こう」
「ちょっと待って。その前に、アレ」
食器棚のからシルバーのリングを取り出した美緒は、それを指で摘んで龍太郎に差し出した。
「今週のゴミに出しといてね」
「あ、また忘れてた」
過去のことも、気にしていたら先には進めない。
ありのままの相手を、あるように受け止めるのは難しくて、でも本当に欲しいのはそれなのだ。
片方の手を握り合ったまま、龍太郎と美緒はまだ、手探り状態。
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