一緒にいたい日

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一緒にいたい日

「触って」  手を導かれて、美緒は固まった。  いや、実際のとこ、何回も触ってはいるんだけども! この、触った手をどうしたらいいの!  手を導かれても、その触った手を動かせば良いのか、それとも握ったら良いのか皆目見当がつかない。とりあえず、そこは熱い。  しばらく曖昧にそのあたりを撫でた後、美緒は口を開いた。 「この後、どうしたらいいの?」  困った顔に、龍太郎は吹き出した。  美緒にだって、知識くらいはあるのだ。大人向けの恋愛小説には否が応でもそんな場面は出てくるし、それに対して嫌悪感があるわけではない。でも実際問題として。  みんな、そこにキスしたりしてるんですか? どんな風に?  そんなこと、他人には聞けない。まして龍太郎本人になんて、とてもじゃないが聞けない。いつまでもなされるがまま、というのもなんだかなあと思うのだが。  龍太郎の指は優しい。細い指で髪を梳かれるたびに、大切にされているのだと思う。だからこそ。  あたしも龍君がどうしたら喜んでくれるのか、知りたい。  どうしたらいいの、の問いに龍太郎は笑いながら美緒を横たえて、胸にキスを落とした。先端に軽く歯があてられる。それだけで息が弾む。指が焦らすように体の線をなぞる。自分の奥深くから蕩けだすものが、その先への期待だと、美緒はもう知っている。  波に攫われ、押し上げられて押し上げられて高みまで昇り、自分の下で波濤が砕ける。巻き込まれた波の下から海面に顔を出し、深く息を吸い込むと、自分の身体の上に龍太郎の重みがあるのだ。それはとても熱くて、しあわせな重みだ。  で、唐突に美緒の誕生日の話だ。  生まれて初めての「彼と過ごす誕生日」なのだ。美緒の頭が夢見がちになっても、誰が責められよう。おしゃれして外食するとか、夜景の綺麗な場所に行くとか。遅くなったら泊まっちゃってもいいなー、なんて。  そしてアリガチなことに、龍太郎は忙しかった。引き渡し物件がいくつか重なり、無理矢理空けた筈の美緒の誕生日の前日に、トラブル発生だ。エア・トラッドの萩原が、土壇場になってから「注文通りの色のグリルが用意できない」と言い出したからだ。 「木目の壁にアイボリーの吸込口ですか!」 「それが標準ですから、特注と指定がなければ」 「特注とは書きませんでしたが、仕様書にベージュと折込みましたよね。そちらのミスですから、着色してください」 「スプレー着色の場合、発生経費は」 「勿論御社で。あくまでも仕様を見逃したのはそちらです」  なーんてやりとりがあって、予定がずれこんだ。  楽しみにしてたのにな。プレゼントだって、ちゃんと選んだのに。がっかりした声を聞きたくなくて、連絡はSNSにした。 〈ごめん。仕事が詰まっちゃって、明日は動けません〉 〈了解しました。我慢します〉  返信に、俯いた寂しそうな顔が添付されている気がした。  どうにかしてやりたいと思っても、美緒の誕生日の夜の何時間かのために、仕事を抜けるわけにもいかない。  ごめんね、埋め合わせは必ずするから。  朝、会社まで一緒に歩いた時、美緒は努めて笑顔だった。 「ごめんね、土曜日にちゃんとお祝いしようね」 「仕事だったら仕方ないもん。頑張ってね」  でも、表情は明らかに落胆。こんなこともあるのだと、頭では納得しているのだが。  だって、楽しみにしちゃったんだもん。珍しくカワイイ系のワンピースまで買って。  ロビーで手を振って別れ、龍太郎に背を向けてから美緒の頬はぷくっと膨れた。その顔を見せないくらいの分別は、持ち合わせている。 「今日、デートじゃなかった? いつもにも増してお気楽な格好」  ロッカールームで鈴森に話しかけられても、美緒の頬は戻らない。 「仕事、詰まってるんだって言うんだもん。週末までお預け」 「そーんなぶすったれた顔してぇ。ケーキくらい奢ってあげるから、機嫌直しなさい」  美緒の頭の横に軽く拳をあてて、鈴森はロッカールームを出て行った。まだ膨れながら、足元の感触に下を向くと、ストッキングに伝線が走っていた。  さいってー!  美緒はその日、きゅっと口を引き結んだまま仕事をした。昼休みにランチ仲間に小さなプレゼントをいくつか貰った。お誕生日だからね、と仕事帰りにケーキも奢ってもらったりして、いつも通りの誕生日だ。今までそれを不満に思ったことなんて、ない。  だって、楽しみにしてたんだもん。やっぱり寂しいんだもん。  同じ路線の鈴森と電車の中で手を振って、美緒は深く深く溜息をついた。口に出してしまえば、ただの我儘になる。龍太郎と同じ状態の時、美緒だって「彼の誕生日だから」なんて仕事を留守にしたりしない。社会人としては、それが真っ当なのだ。  一緒にいたかったな。 〈お詫びに贈りたい物があるので、住所を教えてください〉 〈住所は下記ですが、お詫びは要りません。お仕事、頑張って〉  そんなメッセージのやりとりがあったのは、夜の十時少し前。現場から会社に戻って、帰る頃だろうか。  こんな遅くまで、龍君大変だったんだ。遠くにいるわけでもないのに、何を送って来るつもりだったんだろう。この時間だと、お菓子かお花かな。いいのに。次のお休みにはベタベタしちゃおっと。  そんなことを考えながら、美緒は湯船の中で足を伸ばした。時刻は夜の十一時。 「美緒ちゃん大変! お風呂入ってる場合じゃない!」  妹の麻紀が脱衣所のドアを開けた時、美緒は頭にパイルのターバンを巻き付け、化粧水を首から胸にパッティングしていた。 「何よ、こんな夜中に」 「こんな夜中に大変! 玄関にすっごくかわいい男の子がいる!」 「……はい?」  かわいい男の子、で思い浮かべることができるのは、小学生でもなければひとりしかいない。慌ててTシャツを被り、玄関に走った。 「なんでぇぇ!」  予備校から帰宅した麻紀が玄関に入ろうとすると、自宅の塀に横付けした車があった。作業着姿の女の人(と麻紀は思った)が車から出てきて、表札を確認している。 「うちに、何か御用ですか」 「松山さんのお宅ですよね。美緒さんに少しだけ」  戻ってきた声は思いの外低くてハスキーで……男の人だ、この人!  ってなわけで、こうなったのである。  頭にターバンでTシャツにハーフパンツの美緒は、作業着姿で花のバスケットを差し出す龍太郎を、信じられない面持ちで見つめていた。 「お届けものです」  龍太郎もさすがに、落ち着かない顔をしている。 「誕生日のお祝いって、やっぱり誕生日にしなくちゃと思って。社用車で直帰していいって許可もらったし」 「だからって……!」  後ろで麻紀が「痒っ」と呟いた。  玄関で娘たちが騒いでいれば、親は当然気がつくのだ。まずパジャマ姿の母親が顔を出し、娘の友達かとにっこり挨拶したところで、性別が間違っていることに気がついた。 「夜分に申し訳ありません。美緒さんとおつきあいさせていただいている篠田と申します」 「誕生日だからって、お花届けてくれたんだよ」  麻紀がすかさずフォローした。 「誰か来たのか?」  遅れて父親が顔を出し、作業着VSパジャマという、とんでもない組合せの初顔合わせになった。  こんな格好でなんだがお茶でも、と声をかけられたが、龍太郎は玄関先で挨拶をして外に出た。 「ありがとうございます。夜分遅くに申し訳ありませんでした。遅いので、失礼します」  美緒が車まで追って出た。 「髪、濡れたままだと風邪ひくよ」 「大丈夫。ありがとう。無理しないで」  車の横で少しハグしてキスをする。 「あんまり近寄らないでね」 「なんで?」 「美緒ちゃん、ノーブラ。劣情を催すから」  家の中に戻ると、さすがに両親は複雑な顔をしていた。 「礼儀正しい好男子だけど、なんだかずいぶん可愛らしいわねえ」  これは、花を見ながらの母親。そして、父はなんとも言えない顔だ。 「歳下か? 美緒には歳上のしっかりした人がいいと思ってたんだがなあ」 「……歳、ふたつ上。あたしよりよっぽどしっかりしてます」 「あたしより七歳上ぇ? 信じらんない!」  麻紀が頓狂な声をあげた。  はい、上なんです。見た目ほど可愛らしくはありません。  龍太郎が持ってきた花のバスケットを、自室に持って行く。黄色とオレンジの花がメインのアレンジに、カードが一枚。  Happy Birthday! & I love You.                 *****ryu.  気障! そして、返事に困る! 〈Thank You for love. 嬉しくて、今夜は眠れません〉  スマートフォンに打ち込んでから、あまりの恥ずかしさに消去した。  一緒にいたい日に、少しでも添ってくれようとした龍君が好きです。そんなこと、恥ずかしくて言葉にできない。 〈ありがとう。嬉しかった。無理しないで、身体を休めてください〉  ありきたりなメッセージを表示した画面に、美緒はそっと唇で触れた。
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