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あーんなことやこーんなこと
「どこかに泊る?」
そう聞くと、美緒は首を横に振った。
「龍君の部屋がいい」
「汚いよ。風呂も脱衣場ないし」
「一回きりの特別なことにしたくない。龍君のところがいいの」
前を向いたまま、弱いけれど決然とした声だった。女の子のハジメテに対する覚悟は、男にはわからない。けれど、一回きりの特別なことにしたくない、という言葉は素直に嬉しい。
電車を降りた後、無口になった美緒を引き立てるように話し続けた。コンビニで買物をして、手を繋いでアパートまで戻る。鍵を開いて先に美緒に靴を脱がせた。
電子ケトルに水を入れ、買ってきたばかりの美緒専用マグを濯ぐ。
「インスタントコーヒーしかないけど」
「うん。龍君の部屋、久しぶり。炬燵はしまったんだね」
「炬燵布団はしょっちゅう出てるけどね。フジが泊る時に使うから」
「龍君と藤原さんって、アヤシイ関係だと思われてない? なんだか年中泊ってるよね」
「あ、俺の性格知らないヤツにはそう見えるかも。ま、こればっかりはしょーがないでしょ」
ケトルのスイッチが切れ、龍太郎は美緒にマグを差し出した。
「俺、先にシャワー使うわ。逃げるなよ?」
笑いながらキッチンとの境目のドアを閉め、龍太郎が見えなくなったときに、美緒はくたりとベッドに寄り掛かった。精一杯張り詰めて、なるべく普通に受け答えしているつもりなのだが、ひどいぎこちなさは自分で理解している。
怖いとか逃げたいとかじゃなくって、なんて言うか泣きそう。
浴室が開く音の後に、薄いTシャツとハーフパンツの龍太郎が髪を濡らしたまま仕切りのドアを開けた。
「なんて顔してんの、悪いことしてるみたい」
ぶんぶんっと首を振って、着替えを横に抱えた美緒は、慌てて立ち上がった。
「あたしもシャワー借りますっ!」
「あ、脱衣場ないから、キッチンで脱いで。覗かないから」
鍋とか包丁とか並んでいるところで裸になれ、と? しかも、鍵が掛けてあるとはいえ、玄関が目の前に見える。それは敷居が高い。改めて場所をここに指定したことを後悔しながら、美緒は立ち上がった。
ユニットバスなので便器にタオルと着替えを置くつもりだったのに、ドアを開けると水浸しで、シャワーカーテンがないのに気がついた。思わず、居間に顔を出して文句を言う。
「なんでシャワーカーテンがないの?」
「カビだらけになったから、捨てた」
カビだらけになると捨てちゃう人だったか……と溜息をつきつつ、おそるおそる服を脱ぐ。今、玄関がノックされたらどうしよう! ノックされても開けなければ良いだけの話なのだが、頭がぐるぐるになっている美緒には、その思考はできない。慌てて入浴道具一式を持ってバスタブに足を入れ、シャワーの栓を勢い良くひねった。
バスタブの中で髪を洗い、身体を洗い、シャワーを出したまま丸くなる。
ここまで、来ちゃった。龍君はあたしを見てがっかりしたりしない? 今まで待ってくれた龍君を失望させるようなことにならない? 魅力的な女の子である自信なんて、何もない。
排水溝に流れてゆくお湯を、美緒はしばらく見ていた。
それにしても長いな、と龍太郎は思う。狭いユニットバスの中で倒れているのではないかと心配になった頃、ドアの開く音が聞こえた。そのあと、床をふき取っている気配と、ドライヤーの音が続く。出先で購入した部屋着を着た美緒がキッチンのドアを開けたのは、四十五分後のことだった。
「遅い」
そう言っただけで美緒は半泣きの顔になった。あ、しくじった、と龍太郎は頭を掻く。
「ごめん、女の子は長風呂だよね、姉貴もそうだった」
なんかすごくいい匂いがする。女の子の匂いだ。ベッドに腰を掛け、横を叩いた。
「ここ、座って」
おずおずと座る美緒が怖がらないように、細心の注意を払って引き寄せる。俺は傷付けるために欲しがっているんじゃないと、ちゃんと理解してもらわなくてはならない。
いくつも柔らかいキスをした。美緒の唇が少しずつ優しい形になる。横に座っているだけがもどかしくて、身体がお互いの方を向く。気がつくと、ベッドの上で膝を突き合わせて座っていた。
首に唇を這わせてみる。逃げる肩を押さえ、耳の後ろから鎖骨に向かって顔をずらしてゆく。行き場を失った美緒の手が、タオルケットを握り締めるのが見える。
龍太郎の指は美緒のシャツの裾から入り、ゆっくりと背中に伸びた。
「電気」
美緒が小さな声で言う。
「消して。お願い」
蛍光灯を消し枕元の読書灯だけにして、龍太郎は美緒の身体をゆっくりと横たえた。
「今日は逃げない?」
「逃げない。あたしも待ってた」
きっぱりと見返す瞳に、龍太郎のキスが落ちた。
「欲しい」が勝ってしまって、手加減し損ねたことは否定できない。Tシャツを脱がそうとして、はじめて美緒が口にあてた自分の手の指を強く噛んでいることに気がついた。慌てて引き剥がすと、くっきりついた歯形。
「顔、見ないで」
掴んだ手首をくねらせながら背けようとする顔を、龍太郎は唇で捕える。
この顔は、俺だけが見ていい顔。他の誰も見ることを許可しない。
必死でキスに応えながら、枕元を探る手に美緒は気付いた。何を、と思った瞬間に頭に浮かぶ。
それは、もしや。
「腰、もう少し浮かせて」
ショーツまで剥されて膝を割られ、耳に息を吹き込まれる。
「美緒、かわいい」
噛みしめた唇から洩れる声が答えになった。
ばさっとタオルケットを掛けられた時、その外側で龍太郎が何をしているのか、美緒は知っていた。
顔の横に立てられた腕の上から、龍太郎が見下ろす。華奢な身体がやけに大きく見える。
「いい?」
自分の顔に不安が張り付いているのは、鏡を見なくてもわかる。大丈夫、この人は自分に害を為す人じゃない。あたしも、ずっとこれを待ってた。だから、もう一回キスして。
不安そうな顔を見下ろしながら、ごめんね、と龍太郎は思う。
もっと広い胸があれば、包んでやることができるのに。でも今、一番美緒ちゃんを欲しがってるのは俺だから。同じように思ってくれてるんだって信じていいんだよね。だから、もう一回キスしよう。
中指をあてて確認してから、龍太郎は自分の腰を進めた。
「もっと力抜いて。緊張しないで」
「わかんない」
「深呼吸して。ゆっくり」
美緒は目を閉じて、龍太郎の肩にしがみついたまま深呼吸をしようとした。ひどい圧迫感と痛みに呼吸が整わない。
「痛い? ごめんね」
大丈夫、と首を横に振る。もう一度大きく深呼吸すると同時に、自分に楔が打ち込まれたことを知った。
熱くて、痛くて、苦しい。けれど、なんて充実なんだろう。
「龍君、好き」
無意識に出た言葉が、相手も自分も煽る。龍太郎の肩に強くしがみついたまま、美緒は涙をこぼした。
「ありがとう」
深い感謝の溜息が龍太郎からこぼれる。俺を受け入れてくれて、ありがとう。首の後ろに手を差し込み、頬を擦り合わせた。なんて熱くて愛しい。
「んっ……」
首筋に唇を這わせると、息を飲み込む音がした。胸を探ると、僅かに背が浮いた。口にしっかりあてた拳を、引き剥がしてキスをする。噛みしめた唇が緩むと、甘い吐息が漏れた。
吐息まで全部、俺のもの。
肘をついた形の龍太郎に、美緒は見下ろされている。顔を隠してしまいたいのに、片手首は掴まれたまま。胸に、うなじに、脇腹に、指が這うたびに息が漏れる。
「もっと力抜いて」
龍太郎が耳元で囁く声に、返事ができない。埋まった熱で、身体まで溶けてしまいそうだ。自分の形が頼りなくぐずぐずと崩れてしまいそうになる。
「怖がらないで」
「……んっ……ぅあ……」
耳を食まれて、声がこぼれた。
「ごめんね、動くよ」
龍太郎の掠れた声が聞こえる。閉じた目蓋の裏に、美緒は水を満たしたグラスの幻を見る。自分の呼吸が詰まるたび、一滴ずつ水が増えていく。
溢れちゃう。どうしよう、グラスから溢れる。
「やっ……いやっ……」
あとは言葉にならずに、途切れ途切れの呼吸になった。
「手遅れ」
あがってしまった頤を、さらに押しのけるように唇が這う。掴まれたままの手首が苦しい。自分のものか龍太郎のものか、判断のつかない汗が胸から落ちる。
イメージのグラスから水が滴り落ちようとした時、手首は開放されて肩を強く引きつけられた。瞬間、呼吸が止まる。
くたりと力の抜けた龍太郎が重なり、荒い息を吐く。美緒は両腕で受け止め、目を閉じたまま苦しい呼吸をやり過ごした。
「泣かないで」
そう言われて、美緒ははじめて自分が涙を流していたことを知った。溢れたのは、グラスの水ではなかった。
自身の始末をするのももどかしく、丸まった形の美緒に手を伸ばして抱きしめた。まだ涙の残る目蓋に唇を寄せてから、頭を胸に抱える。まるで小さな子供みたいに見える頭のてっぺんに、キスを落とした。
「好き」
呟くような声に、返事の代わりに強く引き寄せた。
俺も、なんて言葉じゃ全然足りない。どんなに強く抱きしめても、まだ足りない。
龍太郎は、胸に抱えた髪の温かさを感じながら、「一度きりの特別なことにしたくない」という言葉を思い出す。
一度きりになんて、できるわけないじゃないか。全然足りないのに。
これから、もっと近くなるんだ。そして、もっとふたりで―――
しあわせになりたい。
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