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狭い路地の奥、明後日を向いた看板に、ところどころ塗装の禿げたドア。けれど、古びた風貌とは打って変わって、窓は綺麗に磨かれていた。煙突からはときどきコーヒーのくぐもったほろ苦い香りが外に漏れ出していて、初めてのはずなのにどこか懐かしさまで感じられる。
ドアを開けるとカランカランと心地よい音が鳴った。音の主のドアベルは、少し赤みが入った黄色をしていて光沢がある。真鍮だろうか。中に目をやれば燕尾服のマスターらしき人物がこちらを見てにこりと笑んだ。左目にかけられた片眼鏡、お辞儀をした際に流れた艶のある黒髪、そして穏やかな笑みに落ち着いた低い優しい声に品の良さを感じた。まだ若く見えるが、この店のマスターだろうか。
「いらっしゃいませ」
店内は外見と打って変わって綺麗にされていた。カウンター席が四つと二人掛けのテーブル席が三つ。広いとは言えないが狭苦しさを感じないのは天井が高く開放感があるからか。天井に埃も蜘蛛の巣もなく、テーブルもカウンター席も全くと言っていいほど汚れていなかった。隅に置かれている観葉植物の様子からしても大事に管理されていることは間違いないだろう。こんなに綺麗なのに客が自分だけなのは勿体ないが、この店が噂通りの店なら致し方ない話だ。
「お一人様ですか?」
「ええ、はい」
「カウンターでもよろしいでしょうか?」
こくりと頷けば振ってきたのはまた柔らかい笑み。身長は優に百八十はあるだろうという長身の男性の微笑みはやけに色気があって心臓に悪い。
「何になさいますか?」
手元に差し出されたシンプルなメニュー表を上から下まで流れるように見る。もう、頼むものは決まっていた。
「ええと――モカをひとつ」
「……かしこまりました」
メニューにないモカを頼むとマスターは変わらずにこりと笑んだ。そして店内を歩き始め、コーヒー豆やらカップやらが置いてある場所を通り過ぎて――
「モカ、出番ですよ」
部屋の隅の観葉植物の前で声をかけた。
「ン、客か」
「そうです、貴方にお客様です。お掃除をご希望ですよ」
店内には自分をマスターしかいないはずなのに、どこからか違う声がした。自分で望んだ展開なのに、少しだけ恐ろしくなって震えた身体を自分の両腕で抱きしめた。
「ああ、お客様そんなに怯えないでください。許可なく取って食ったりはしませんので」
いつの間にかカウンター席の前に戻ってきていたマスターは、怯えた様子の自分を見て、そう声をかけてきた。許可なく、の部分が気になるが望んだのは自分。声も出さずまた頷いた。
「で、何を綺麗にしてほしいんだ?」
「え」
またもやマスターでない声がして、誰も座っていないはずの自分の左隣を見ると、黒い毛並みの猫が一匹。
「猫……?」
「猫じゃねぇ、悪魔だ。人間はそう呼んでる」
「あく、ま……」
人の言葉を喋る黒猫――もとい悪魔はつまらなそうに欠伸をした。
「ンで、本題だ本題」
退屈そうな顔をしたまま、悪魔は自分に視線を向けてきた。真っ黒な毛並みに金色の瞳が良く映えていて、つい見惚れてしまう。
「用がないなら寝るぞ」
「ああ、すみません、あります!」
ジロリと睨んでくる視線から目を逸らして答える。今日ここに来たのにはきちんと理由がある。
「……その、別れた彼女のことを忘れたくて……」
「ン、承った」
「え、ちょっと、ちょっと、そんな簡単に!」
あまりに早い承諾に逆にこちらが焦ってしまう。どうしてこうなったのかとか、相手の名前はなんだとか、もっと詳細を聞かれると思っていた。
「……この手の話はよくあるンだ。聞くのも飽きたね。どうせあれだろ、長く付き合った恋人に『別に好きな人ができたから別れてくれ』なンて言われて別れたけどアンタは忘れられず、次に踏み出せなくて困っているときにこの店の噂を聞いた、違うか?」
「……オッシャルトオリデス」
「じゃあ何も問題ねぇな。始めるぞ」
目を瞑っていろと言われ、指示に従って目を瞑る。店内に突然風が吹き始めて、それはどうやら自分の足元かららしかった。これ、女の人とかスカート履いてきていたらすごいことになるんだろうな、なんて全く関係ないことを考えて恐怖心を誤魔化した。
「それじゃあ――いただくぜ」
悪魔の声がすると、一瞬、強い眠りに誘われた。抗いきれず眠りに落ちる――というところでパチン、という大きな音がして目が覚めた。
「んあ?」
「……どこか身体に異常はありますか?」
「え、いや、どこにも……あれ、というかここは……?」
「ここは喫茶店です。といっても今日にはこの店を閉めてしまうんですけど」
「へえ、そうなんですね。メニューいただけますか?」
「はい、どうぞ」
差し出されたメニューを見てタイミングよくお腹が鳴った。ここにどうやって来たかとかあんまり覚えてないけど、なんだか頭がすっきりしていて、お腹も空いている。軽食でも食べようかな。
「ホットコーヒーとサンドイッチひとつお願いします」
「かしこまりました」
出されたサンドイッチを無心で貪る。特段変わりないどこにでもあるサンドイッチだけれど、無性に美味しく感じるのはやけに頭がすっきりしているのと関係があるのだろうか。あっという間に平らげて、会計をしようと伝票を手に取った。
「美味しかったです。閉めちゃうなんて勿体ないですね」
「ありがとうございます。次のお客様のところへ伺わないといけないものでして」
「?」
「いいえ、こちらの話ですよ。どうぞ気を付けてお帰りくださいね。良い恋愛を」
最後の言葉はどういう意味だろう。でも、なんだか良い恋愛ができそうな気がする。婚活でもしてみようかな。カランカランと鳴るドアベルを背中に、振り返らずに家へ帰った。
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