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「ーー私はこの想像を熱心に追求した。『そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう』
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った」
「はい、糸寺(いとでら)さん。ありがとうございました、ということで、改めて最後に檸檬を朗読してもらいましたが、授業で取り扱うのは以上になります」
ほ、と糸寺もかは息を吐いた。滑舌がよくないから音読は嫌いだ。自分の番が終わったのをいいことに、もかは教室の窓の外へと目をやった。秋空の下、午後一番の授業で懸命に高飛びをするために助走をつけている生徒たちは隣のクラスの子たちだろうか。
「この『檸檬』に出てくる「私」は最後、檸檬を爆弾に見立てたまま出て行きました。彼はこの檸檬が爆弾であり、自身の抱える不吉な塊を吹き飛ばしてくれると考え、本屋である丸善に置いていった。授業ではこう解説していきましたが、皆さんの中でこの気持ちに共感できた人はいたかな?」
現代文の担当教諭は広川という。教員の癖にいつもゴスロリじみた黒いフリルの服を着ている少し変わった若い女の先生だ。手をあげるように指示をするが、教室の中はしんと静まり返っていて誰も手をあげようとはしなかった。
もかだって彼女の問いかけに手をあげるつもりはない。
「あれ、誰もいないのね。C組では二人いたけど、B組はゼロ人かあ」
あまり落胆もしていないような声色で彼女はそう言った。あたりまえでしょ、ともかもシャーペンを手元でくるりと回しながら思う。
『檸檬』なんてのは大概あたまがおかしい話だ。病気で気が塞いでいるのはわかるけれど、色々あった末にえたいのしれない不吉な塊に心を支配され、それをどうにか打ち砕こうとした結果、本屋の本をぐちゃぐちゃに積み上げて爆弾に見立てた檸檬を置いていき、一人気が軽くなるなんていう話。どうして共感できるんだろうか。
はた迷惑な客だったし、本は積みなおさないといけないし、置いていかれた檸檬の処分にも困ると愚痴る丸善書店の店員の気持ちを書いた小説があったなら、そっちの方がまだ共感できるというものだ。
「それじゃあね、次回は夏目漱石の『こころ』に入っていきます。夏目漱石はみんな知っているでしょ。明治の文豪ね。宿題はこれをきちんと読んでくること。よろしくね。はい、それじゃあ日直さん号令お願いします」
ゴスロリ先生は微笑みながらそう言って現代文の授業を終わらせると、颯爽と教室を出ていった。それから一白遅れて授業を終わらせる鐘が学校中へ鳴り響く。
もかはぐっと伸びをして、のろのろとノートと教科書をしまう。次の授業は美術だったから教室を移動しないといけない。それに絵具の用意だってしないと。
「あ、もか。美術室行こう」
「うん」
前の席の遠野葵(とおのあおい)がさらりとした髪をなびかせながらそう呼びかけてきた。もかも頷いて立ち上がる。
美術室は絵具や石膏のせいでか独特の匂いが立ち込めている。もかは指定の席へと座り、前の授業からの続きで描きかけになっていた絵を開いた。
果物の盛り合わせの絵だ。梨にブドウ、いちじく、そして檸檬。家にたまたまあった贈答用の果物たち。ちょうど水彩画の題材を探してくることという宿題の日にちょこんと我が家にやってきたものたちだから、それならとカラフルなこの果物たちを選んだ。
下書きを終えたその白い紙の上に絵具を含んだ筆をのせる。いきなり濃い色を使うのは怖いから、梨の薄い皮の色からだ。
「もか、もう色塗りなの?はっや」
「そんなことないけど。葵は駅前の花屋にしたんでしょ。花が細かくて難しいから私のやつよりも時間がかかるんじゃない?」
「うー、それは確かにそうかも。花なんか選ぶんじゃなかった。葉っぱとか難しいな。もっと簡単なのにすればよかったなあ。でも長岡さんの好感度のため……」
長岡さんとは花屋の顔がいい店員さんで、葵がイチ押ししている人だ。美術の題材を探しているのだと話をしたら、「うちの花はどう?」と勧められた葵は長岡さんの好感度をあげたい一心で「お花にします」と答えたのだった。
梨の皮を塗り終えてバケツに筆を浸しながら、もかは次に何を塗るかじっと考えた。他の生徒たちががやがやと話したり、鉛筆を走らせたりする音が耳を通り抜けていく。逡巡の後に選んだのは檸檬だった。
パレットの上で少なくなっていた黄色を足すために絵具のチューブを開く。ぐっと押し出したそれはひどく鮮やかでそして単純な色をしていた。筆ですくいあげればねっとりとした絵具が教室の蛍光灯で明るく照らされている。
じぃっと見つめてみれば、その絵具の色が正しく檸檬という物体の色であるような気がしてくる。もかは他の色を混ぜずにそのまま紙にのせることにした。
筆の先端で細かな点描を。そうやって描いたところに、影をつけるために暗い色をつけて塗っていく。
慎重に塗り終えたそのレモンイエロウ。ほっと息を吐き、次はブドウにしようともかは決めた。
赤と青、ブドウはほんのり赤っぽいから、真赤な絵具を多めにすくいとってパレットの上で混ぜていく。複数の色がごちゃまぜになっているパレットはひどく騒がしい見た目をしている。
一粒づつ筆でなぞっていく。塗り始めてからぶどうの実よりも葉っぱを先に描いた方がよかったかもなと思ったけれど今更だ。
「はー終わり終わり。あたしも色塗りはじめるぞ!何からにしよっかな。百合とかかな。きれいな絵にして長岡さんに見せなきゃ」
「ホント、長岡さん一筋だよね」
「あたりまえでしょ。あたしの長岡愛なめないでね。ってかそれ黄色濃くない?」
葵が艶やかな長い黒髪をゆらしながら、首を傾げる。言われてもかは塗ったばかりの檸檬を見直すが、そんなに指摘されるほど濃いとも思えなかった。
「そうかな?」
「そうだよ。きっちゃん、ね、きっちゃんもさあ、もかのこの絵黄色濃すぎだと思わない?」
きっちゃん、と呼ばれた女子生徒がこちらを振り返る。もかたちの近くの水道でバケツの水を入れ替えていた彼女の手は少し濡れて赤くなっていた。きっちゃんーー北原紫乃(きたはらしの)は蛇口を止め、流しの端にバケツを置くと葵の横へとあるいてきた。
「え、もかの絵?本当だ、めっちゃ鮮やかな黄色だね。檸檬の主張激しいっていうか、ブドウと梨は落ち着いた色味なのに檸檬だけ元気よすぎって感じ」
くくっと笑うきっちゃんの耳で赤いピアスがゆれる。二人にそう断言されては、きっと檸檬の色だけ派手に描きすぎたのだともかも認めざるを得ない。
「まあいいんじゃない?今から他のものも派手目にしちゃえば、バランス取れるよ」
「流石きっちゃん。そういえばきっちゃんは何の絵にしたんだっけ」
自分の絵そっちのけで葵はきっちゃんに話しかける。美術の先生は最終的に本人が納得のいく良作が作れればそれでいいというモットーらしく、多少煩くても放置して、今も手直しを求める学生の対応だけしている。
「ああ、ダイオウグソクムシ」
「なにそれ」
「この間水族館で見たの。変な生き物だけどさ、かわいいから題材にしようと思って」
「へえ」
じゃあ戻るわ、ときっちゃんは席に戻っていった。
もかはじっと自分の絵を見つめる。八つ切りの用紙に描いた檸檬。濃くなってしまったのだろうか。それなら、他の果物も同じくらい色を濃くするしかないのだろう。ブドウをもっと色付けるため、もかはパレットの紫の絵具へと筆を近づけた。
もかの家は駅から十五分ほど歩いたところにある。高校からの電車を降りて、とろとろともかは一人歩く。結局美術の時間は果たしてこれでいいのかわからないまま色を塗り続けて終わってしまった。
通学用の鞄が妙に重たい。それに足取りだっておっくうで、正直なところちっとも家に帰りたくない。夕暮れの空はカラスか何かの鳥がきれいに一列になって飛んでいる。もかのぐらぐらとした落ち着かない心とは正反対だ。
それでももかは寄り道をせず、まっすぐに家へと向かっていた。
余計な心配をかけたいわけではないのだ。
たどり着いたマンションはオートロックだ。鞄の中の鍵を探りあて、指に引っかかったキーホルダーごと取り出す。ウサギのキーホルダーは引越しに際して捨ててしまおうかと迷った時に捨てられなかったもので小学生の頃からつかっているから、大分くたびれている。
エレベーターであがった六階、その一番端が糸寺の家。鍵を開けて中へ入ると、玄関には揃えられていないスニーカーが転がっているのが目に入った。
青と白のスニーカ、もかはそれを玄関の端に揃えると自分もローファーを脱いだ。
「ただいま」
小さな声でいったそれに帰ってくる言葉はない。鞄を自室に放り込むとリビングへと向かう。思った通り、リビングではテレビが付いていた。夕方の子供向けのアニメだ。
ソファでテレビを見つめている子供はそちらに集中しているようで、もかへは目も向けない。
もかは、ゆっくりと何度か息を吸っては吐き、それからようやく声を出した。
「志弦(しづる)、ココア淹れるけど飲む?」
「あ、うん」
もかが帰って来ていたことにようやく気が付いたのだろう。少年がぱっともかへと目を向けた。
もかは一つ頷いてキッチンへと向かう。ポットに水を入れてスイッチを入れる。それからココアの粉末が入った缶へと手を伸ばした。
「ね、姉ちゃん。あのさ」
「…なあに」
平常心、と自分に言い聞かせながらもかは返事をした。
「今度さ、野球の試合を見に行きたいんだ。ほら、スワローズのやつ。今連戦連勝で調子いいしきっと今度の試合だって勝つと思う」
「いいんじゃない?お父さんに言えばきっと連れていってくれるよ。学生時代はキャッチャーやっていたのが自慢だってよく言っているし」
へええ、と呟きながら志弦は微かに笑った。もかはその顔を見て小さく胸を撫で下ろす。
「じゃあ、今日言ってみる。ね、姉ちゃんは?一緒に行ってくれる?」
「あ、うんいいけど。でも野球のルールよくわからないや」
「いいよ。教える」
もかの嘘っぱちの返事を聞かずに、志弦はソファから立ち上がり壁のカレンダーに蛍光ペンでぐるぐると丸をつける。それから子供っぽい字でスワローズと書き込んでいた。
壁掛けの大きなカレンダーは彼の母親のお気に入りのもので、月替りに世界各地の風景がのっている。今月は中央アジアのどこかの青い都市だ。
来週の日曜日。予定は何もなかったけれど、何かいれてしまおうか。きっちゃんの誕生日がちょうどまもなくだ。誕生日プレゼントを買いに葵とどこか出かけてしまおうか。
にこにこと予定を書き込む志弦を横目に、もかは凪いだ頭でそう考えていた。
大嫌いというわけではない、それなりには親切にしてあげたいとは思う。それなのにどうしようもなく距離を置きたくなる。
ポットのお湯が沸いたことを知らせる音がなった。もかはココアを作るためにキッチンへと戻った。
父は今日遅くなるのだと連絡が入ったので、三人の食卓だ。義母がつくったのはグラタンで、もかの実母が絶対につくらないような料理だった。実母はチーズが嫌いだったから。それにそういう凝った料理はそもそも作ってくれた試しがなかった。
いただきます、という声を皮切りにしてもかはスプーンでグラタンをすくう。鮭が入っているそれは確かに美味しかった。多分子供好みの味付けだ。
「ごめんねもかちゃん。志弦の面倒見てくれて」
「いえ、別に。いい子だし」
「ほら見ろって母ちゃん。おれ迷惑なんてかけてないし」
つーんと唇を尖らせ、志弦は母親に文句を言う。そんな義母と義弟はよく似ていた。
「面倒だったらいつでも言っていいからね。高校生なんて沢山遊んで部活するっていう時期でしょ。青春ってやつかな」
微笑みながらそう義母は言った。彼女のさらりとした細い茶髪は志弦とよく似ている。細く長い指も、えくぼがある顔も。この場所にいる三人の中でもかだけが異質だった。この家に一番古くからいるのはもかのはずなのに。
「ありがとう。でも大丈夫。試験の時期は忙しいから難しいけど」
敬語とタメ口が入り混じった言葉でそう告げれば、義母はうんと頷いてくれた。
この母子がどこかの駅で会っただけの人であれば、もしくは親戚のたまに会う人たちであれば、きっともっとちゃんと接することができるのに。こうして家族という括りに一緒に並べられてしまうと、逃げ出したくなる。
それでもどこかに逃亡するあてもないからこうして、じっと微笑むのだ。
もかの父が母と別れたのは、もう大分前だ。もかがまだ七歳のときだ。その頃のことは今でもある程度覚えている。
子供を引き取るつもりはないと言ったのは母で、引き取ると決めたのは父だったらしい。自分の耳で聞いたわけではないから、もかは実のところどうだったのか知らない。
ただ、母親が再婚したという話を何年か後に親戚の人伝に聞いたから、きっと母は再婚するつもりがあったので、邪魔になりそうな子供はひきとりたくなかったのだ。
父親と二人きりの生活は悪くなかった、と思っている。料理は出来合いのものが多くて、きっと家庭科の先生が見たら顔をしかめるような食生活だったかもしれないけれど、たまに父が作ってくれるハンバーグは好きだったし、もかの料理レベルだって徐々に上がっていっていた。伽藍堂の空き部屋だって、友達とかくれんぼをしたり騒いで遊ぶのにはちょうどよかった。
側から見れば色々と本来の家族というものからは部品が抜け落ちていたのかもしれないけれど、もかはその生活が好きだった。
故にこそもかにとって父親の再婚はどこか受け入れにくいものだったのだ。シンプルなブラックカラーのTシャツが好きな子に、カラフルでド派手なロゴがはいったシャツを押し付けてくるような、小さなおはじきでよろこぶ子供の手にやたらと豪勢な最新のゲームをもたせてくるアンバランスさだと思った。
義母と義弟が悪人だったらよかった。現実、彼らは正しくいい人だった。扱いにくそうな思春期の義理の娘を優しく迎え入れてくれた。その美しい家族のカタチがもかにとっては座りが悪くて、そして居心地がわるいのだ。
優しく義娘に寄り添ってくれる若くうつくしい義母も、臆病さがある中で懸命に血のつながりのない姉と仲良くしようと足を踏み出してくる弟もいた。それに新しい家族という輪をつくりだした父。
その中で醜い狭い心のもかだけが取り残されている。
「いってらっしゃーい!私たちはスワローズの試合観戦だから帰りは夜になると思う」
「うん、大丈夫です。それじゃ、いってきます」
にこやかな微笑みで義母がもかを送り出す。手を振るたびに彼女のショートカットの茶髪がゆれていた。
本当は今日は部活なんてないのに、急遽一日部活なのだということにした。かるた部は日曜日必ず休みだ。ただ、日にちが近づくにつれてどうしても一緒の野球観戦を厭う気持ちが強くなった。だから、嘘を吐いた。
もかはとりあえず、と最寄り駅まで向かい、十時ちょうど発の各駅停車に乗り込んだ。そうしたはいいもののそこから先は何も考えていなかった。嘘の通りに学校にいっても部室は閉まっているし、教室だって施錠されている。葵を遊びに誘ったって何故今日制服を着ているのか問われるだろう。うまくごまかす自信がもかにはなかった。休日に部活でも補習でもないのに制服を着ているおかしな学生と化したもかは閑散とした列車の中、腰をおろした。
窓から差し込む日光はきらきらと輝いている。きっと今日はいい野球日和なんだろう。
ぼんやりと揺られているうちに、一駅二駅と列車は進んでいく。学校に行くのであればさっきの駅で乗り換えないといけなかった。このまま終点まで二十分乗っていれば繁華街に出る。喫茶店も映画館もあるし、カラオケもある。適当に一日をだらだらと過ごしてしまうのであれば繁華街に行くのが一番だ。
ブレザーの下に着ていたカーキ色のカーディガンの裾を引っ張りつつ、もかは窓外の街並みを眺め、電車が終点まで行き着く時間をじっと待った。
滑舌の悪い駅員が終点の駅名をアナウンスする。もかはほとんど空っぽのカバンを肩にかけ席を立った。人混みでごった返すターミナル駅の改札を潜り抜け、さてこれからどこに行こうかと辺りを見回す。
お昼ご飯には少し早いけれど適当なファストフードでも行ってしまおう。もかは駅の東口前のハンバーガーショップへと足を向ける。
まだ昼前のお店に客はまばらで、もかは二人がけのテーブルにカバンを置いた。ちらりとレジ前のメニューを眺めて、注文のためにそちらへ並ぶ。
「チーズバーガー、セットでポテトつけてください」
レジのアルバイト店員は少し眠たげな顔をしたお姉さんで、眠たそうな顔なのに手早くレジを操作していく。
彼女から言われた金額を財布から取り出し、淡々と会計を進める。今月のお小遣いはまだ手付かずで残していたからよかった。
受け取り口で出来上がった温かいそれを受け取り、カバンを置いていた座席に戻る。
出来上がったばかりの温かいハンバーガー。もかはそれにかぶりつきつつ、通知が鳴ったスマートフォンの画面を見る。
義母からのメッセージだ。行儀悪くハンバーグを噛みながらスマートフォンのロックを解除し彼女からのメッセージを開けば、『これから球場へ出発!もかちゃんの分も応援するって志弦が言ってるので、みんなで頑張ります』と書いてあった。一緒に載せられた写真には、志弦と父がおそろいの野球帽を被っている。何年か前にもかが父と一緒に球場へ行った時に買ったそれだと思い当たった。
当然だ。家族だから、使い回すのなんて当たり前だ。仲がいい、きれいな家族だから。
もかはスマートフォンの画面から目をそらしてポテトに手を伸ばした。油っぽい、安っぽくてふにゃふにゃした噛みごたえのないじゃがいも。それを沢山口に入れた。行儀悪く、食べる。
それから全てを咀嚼し終え、油がついた手のままもう一度スマートフォンをタップした。
『勝つといいね。応援頑張れ』という当たり障りのないメッセージ。ちょっと迷った後に応援している犬のキャラクターのマークも送信した。
送るやいなや画面を閉じてひっくり返す。まだ半分残っているハンバーガーにまたかぶりついた。まだ満腹になったわけでもないのに、ハンバーガーはちっとも美味しくなかった。
ハンバーガーショップを出れば、ぬるい秋風がもかの頬を撫でる。
これからどこに行こう、ともかは周囲を見回した。何度も足を運んだ繁華街だからショッピングセンターの位置も映画館の場所も理解している。
映画館なら時間を潰すのにちょうどいいだろう、上映がはじまれば二時間なんてあっという間だ。もかはそう考えて歩いて十分のそちらへと足を向けた。
フライドポテトのせいで少し油っぽい指を擦り合わせ、アスファルトの道を歩く。財布とリップクリームしか入っていない薄いカバンの乗った肩はひどく軽くて、それなのに足取りは重たい。
のろのろと歩いた先に見えた映画館は、重厚なグレーの建物で重たい足取りを更に遅くさせるのに十分だった。
一歩二歩と歩んだものの、もかは小さく首をふって映画館への道ではなく、その脇へ逸れる道を選んだ。
大通りではない裏道へと向かうその道は、ビル影のせいでひどく暗くて、今のもかにとってはむしろそちらの方が好ましい。おかしなはなしだ。
裏通りを抜けてあてどなく歩く。和菓子屋、変な雑貨ばかり売っている店、共産趣味らしいなんだかよくわからない店。閉まっている居酒屋。まばらな人通りを抜けて、もかは道を進む。
そこでいきなり目に入ったのはアスファルトを転がる鮮やかな黄色だった。あ、と言う間もなかった。もかのローファーは足元のそれを思い切り踏みつけてしまった。
障害物のせいでバランスを大きく崩し、さらに勢い余った身体は空中に放り出されそうになったが、すんでのところで堪える。数歩おかしなスキップのようなジャンプのような跳躍の末、もかの身体はなんとかアスファルトの上に着地をした。足の裏には果物を踏みつけたなんとも言い難い感触が残っているし、顔にはなんとも酸っぱい檸檬の香りがついたような気がする。そして足のわずかなべたつきは気のせいではなく間違いなく果汁だ。アスファルトには、もかに踏まれたせいで汚れ歪んだ檸檬が転がっていた。
「ごめんねえ!大丈夫だった?足は?怪我していない?」
「だ、大丈夫です。転んでないし」
慌ててもかに駆け寄ってきたのは人の良さそうなおばさんだった。とうもろこしが描かれた緑色のエプロンをした彼女はもかを上から下まで見て、それから走って彼女の職場らしい店へと入っていく。黒いテント生地の屋根があるそこには果物が陳列されていて、果物屋さんなのだともかは理解した。檸檬はそこの棚から落ちてきたのだ。
女性は濡れた青いタオルを持ってきてもかに手渡した。受け取ってもかは果汁が飛んだとおぼしき顔や足を拭う。ブレザーもスカートも紺色だから汚れはほとんど目立たない。代わりにうっすらとついた檸檬の匂いは少しタオルで擦ったり叩いたりしたくらいではとれそうになかった。
「ごめんなさいね。お詫びにこのシャインマスカットでも持ってって。それとも巨峰の方が好きかしら」
「いやいやいや、いいです。そんなの」
パックにつめられた艶やかなマスカットは、この間もかが家で食べて絵のモデルにしているそれよりも明らかに上等なものだった。ぶんぶんと首を振る。そんなの家に持って帰ったらどうしたのか問い詰められるに決まっている。そうしたらもかが嘘をついたことだってバレてしまう。
「でもあなたの制服も靴下もきっと汚しちゃったわ。せめて何か一つくらいお詫びをさせてちょうだい」
本当に申し訳なさそうにそういう果物屋の店員にもかは困ってしまった。
確かに向こうとしてもお詫びをうけとってもらわないと気が済まないだろう。
「じゃ、じゃあ今踏んじゃったのと同じのください。檸檬です」
「それでいいの?もっと食べやすいのがよくないかしら。梨とか、栗もあるけど」
「いいです。檸檬で。いや、むしろ檸檬でお願いします」
思わずそう口走っていた。実際、アスファルトに転がり出た、あの瞬間の檸檬は何よりも色鮮やかでもかの目を奪っていた。
もっともシャインマスカットよりも単価が安いのだろうという打算もゼロではなかったけれど。でも、それでも檸檬をうつくしいと思ったのは嘘ではない。
「いくつがいいかしら。沢山持っていって頂戴」
「ひとつでいいんです」
もかの言葉は却下され、結局何個も入った袋を手渡されてしまった。瀬戸内海産だと棚に書いてあった鮮やかな檸檬たち。やっぱり美術の授業で選んだ色彩は間違っていなかった。檸檬はこのくらいはっきりとした黄色い色をしていた。
少し酸っぱい匂いをあちらこちらにつけたままもかはまた道を歩く。ただ歩くだけでは物足りなくなってきたので、営業中の店にも入ってみることにした。
古着屋、お茶屋、画材を売っている店、インテリアショップ。そういった裏通りのお店たちはもかの日常とはどこか切り離された世界のようだった。いつだって友達と行くのは学校以外にはゲームセンターや映画館、流行りのカフェだったりするからこういう店は足を踏み入れたことがなかったのだ。
店員もきちんと接客をしてくるところから、全くこちらに興味を示さずに手元の商品を見ている人間まで様々だ。そういうぶっきらぼうな店は半分くらい老後の道楽でやっている店なのかもしれない。
ときどきもかの膝に檸檬の入ったビニール袋があたってかさかさと音を立てる。そこからほのかに香りたつ檸檬の香りにもかは自然と自分の口角が上がる気持ちになるのだ。
今入ってみた中古のCDショップだって、きっと道楽趣味の店なんだろう。もかは何枚か手にとってみたけれどよくわからない洋楽バンドのものばかりだった。店内には白髪混じりの店主が一人レジにいるけれど、こちらには見向きもしない。そんな姿がもかにはちょっと面白かった。
次のお店へと行ってみようともかが思った瞬間、ブレザーのポケットから振動が伝わってきた。何度も迷った末に、もかはぎゅっと手をポケットへつっこむ。それからぎゅっと唇をかみながら、店先に出ると「通話に出る」という淡々とした記号をタップした。画面には父の名前が写っていた。
「…はい」
「あ、つながった。もか、スワローズ勝ってるぞ。さっきスリーベースヒットがあってな、五対二だからこのまま順当に行くと今日は勝ち試合だ」
「よかったね、志弦もよろこぶでしょ」
「あ!そうそう、お前志弦に野球のルールよく知らないなんていっただろ。弟に構ってほしいからって嘘ついちゃだめだろ」
もかは震える歯を誤魔化すために、機械が壊れるのではないかというくらい、強くスマートフォンを握りしめた。
優しいはずの父の声がここ最近、楽曲が転調したのではないかと思いたくなるほど違う音に聞こえる。
「う、嘘じゃないよ。私が野球見に行ったのなんて大分前だったじゃん。細かいルール忘れちゃったなって」
「そうか?たしかに前に行ったのもう一年前だったもんな。そうだ、何かお土産欲しいか?」
「いらない。別に何もいらないの。志弦になんか買ってあげたら?喜ぶでしょ」
父のわずかに媚びるような、ご機嫌とりのような言葉が心臓に突き刺さるようだったから、どこか突き放したような声でそう言ってやった。
「そっか。ま、もかもさ何かいいのあったら買っとくから」
最後にじゃあなという言葉をつけて父との電話は終わった。このままこの電子機器を道端の排水口にでも捨ててしまおうか、ともかはぼんやり考える。
ついさっきまで神秘的な裏寂しさがあったこの裏通りの店たちも、今はちっとももかの心を休めてはくれないことに気がついてしまった。
ただみすぼらしい時代遅れな店ばかりだ。そんなものを眺めたって、もかの矮小でちんけな悩みを消し去ってはくれない。
「馬鹿みたいだなあ」
道ゆく人にも聞こえないそんな小さな声だった。
ビニール袋に包まれた黄色い塊たちをぎゅっと胸元に抱き込めば、微かに立ち込める果物の匂いと、その表面の冷たさがもかに確かなかたちとなって伝わってくる。
裏通りを出て、どこかへ行こう。どこか、とはどこだろうか。やっぱり映画館だろうか。
「糸寺さん?」
ふと、頭上に影がさした。聞き覚えのある声だった。もかははっと顔をあげる。
「ゴ…広川先生」
「あ、やっぱり糸寺さんだ。こんなところで学校の生徒見かけるのはじめてだったからさあ。珍しくってつい声かけちゃった」
もかに声をかけたのは、学校の現代文の広川先生だった。いつものゴシックロリータ姿とは違っていて、よくわからない英文が書かれた白いパーカーにジーパンといういでたちだ。長い黒髪も後ろでざっくりとひとまとめにされている。いつもならカチューシャでもついているけれど、今日はそういうのがない。
「こんな高校から離れたところなのに制服なの?」
「なんとなく制服の気分だったんです。そういう先生も普段はゴスロリじゃないんですね」
「ああ、あれはね、先生の戦闘服だから」
ふふん、と彼女は得意げに笑った。
「学校って旧態依然としている場所でしょ。ゴスロリはそんな学校にちっとも似合わない。真逆の存在。だからいいの」
「はあ」
もかにはさっぱり理解ができなかった。
ただ、彼女はゴスロリを着ているときも、いまこうして白い英文パーカーとダメージジーンズを着ているこのときも生き生きとしていることだけはわかった。
彼女はもかをじろじろと眺めまわし、それからぽんと軽く手を叩く。
「そうだ、せっかくならうちの店見ていかない?すぐ近くなんだけど。お茶も出すし。お菓子もあるよ」
「いや。悪いんでいいです」
「そう言わずに、ね」
何が、ね、なのかもよくわからないけれど、広川先生の威圧にあっさりと敗北したもかは、その案内で裏通りのさらに奥まったところへと歩いていく。
「先生の家、お店なんですか」
「ええ。正確には私の店じゃなくて親戚のおじさんの店だけど。ほらこれ」
先生が指さした先には、壁に銀色でかかれた狭山堂という文字があった。
「広川だからその反対にしたらしいよ。狭山堂って渋いよね。名付けたのは先代だから、私のおじいちゃんだけど」
先生は店の扉を押し開けるとずんずんと店へと入っていく。軽いベルの音が鳴り響く。慌ててもかはそのあとを追いかけた。
「やっちゃんー、言われていたおやつ買ってきたよ。お客さんも来たし、ちょっとお茶入れるね」
お店に入ったもかは、その独特な匂いに鼻をひくつかせた。埃っぽさとインクの匂い。嫌な匂いではないけれど、あまりかぎなれない香りだ。
「…古本だ…」
「そうそう、ここね、古本屋なの。いろいろあるよ。お茶が入るまで適当に見てて。立ち読みもオッケーだから」
あっさりとそう言いながら、先生は鞄から紙袋を取り出してカウンターにいた初老の男性に渡した。
「早苗(さなえ)、騒がしいぞ。ここは仮にも本屋なんだから。もっと厳粛にあるべきだ」
「客の一人も滅多に来ない古本屋、でしょ。閑古鳥が鳴かないように賑やかさを演出してあげているんだからむしろ感謝してよね。これうちの生徒。糸寺さんコーヒー飲める?」
「お、おかまいなく!」
「馬鹿早苗。相手は学生さんだろ。コーヒーははやい。せめて紅茶にしてやれ」
「やっちゃん自分がコーヒー飲めないからって。でもそういえばミルク切らしてたな。やっぱり紅茶にしようか」
「あ、あの紅茶なら檸檬いりませんか?さっき道でもらったんですけど」
「道端でそんなものもらったの?ウケる。やばい粉つきとかじゃないよね?」
違います、という話をしつつもかは袋の檸檬をひとつ手渡した。優しい冷たさのそれを先生は微笑んで受け取ってくれた。
もかは棚にこれでもかと陳列された古本を眺める。薄っぺらい冊子のような本もあるし、辞典のように箱に入った川端康成のずっしりとした全集もある。森鴎外や夏目漱石なんていうもかでも知っているメジャーな名前から、寺田寅彦だとか、徳田秋声だとかいう見たことのあるようなないような曖昧な作家の本もあった。半分くらいの本は表紙が少し汚れていて、なるほど古本屋というのはこういうものなのかともかに思わせる場だった。重たくて、それなのに優しくつつんでくれるそういう空気がある。
もかが漫画を買うためにときどき訪れるチェーンの本屋に比べると随分と規模が小さくて、多分六人もお客さんがはいったらそれだけで満員と言えるレベルだけれど、代わりに通路がせまく上から下までギリギリのところまで本が並んでいる。
あちこちに目をやっていると、ふと見覚えのある名前にいきついた。『梶井基次郎全集』、この間授業でやったへんてこな作家だ。
「糸寺さん、お茶入ったよ。レモンティーね。カステラもあるよ」
「あ、ありがとうございます」
本棚に足をぶつけないようにしておっかなびっくりカウンターへともかは向かう。カウンターの中はといえば、これまた雑多に紙があちこちにちらばっている。帳簿用だろうか。それとも買取用の何かだろうか。その中でやっちゃんと先生は小さな丸い椅子に腰を下ろしていた。先生はもう一つの空いている椅子を指差す。
「ほらここ。めちゃめちゃ狭くてごめんね」
カウンターの中は本当に狭い。どうにか角のほうに鞄とビニール袋を重ねて置いて椅子に座れば、おじさんがついとうすい透明なフィルムに包まれているカステラを手渡してきた。
「店長さんすみません、ありがとうございます」
フィルムを剥がし、カステラをかじる。甘いスポンジ生地はしっとりとしていて美味しかった。
「うちさ、もっぱら近代文学を取り扱う店なんだけど、糸寺さんはこういうの興味ある?」
「今時の高校生はこういうの読まんだろ」
「いやいやあたしみたいなのもいるじゃん」
「早苗は例外じゃけん」
また親戚同士の軽口応酬がはじまった。もかは苦笑いしながら、レモンティーに口をつける。
「たしかにあんまり読んだことないです。それこそ授業でやるくらいしか。あとは積極的に読んだことないなって」
「でもその授業でさ、やったよね。どうだった?この間やったのは梶井基次郎だったけど」
「…なんていうか、傍迷惑な客だと思いました。私が本屋の店員なら正直もうこんなお客さんにはきて欲しくないです」
「ははっ『檸檬』のことなら確かにちげえねえ」
おじさんはげらげらと笑って、豪快にカステラを噛みちぎる。
「でも、あのくらいとち狂ったような行動をとるのはちょっと面白くない?」
先生の言葉にもかは頷いた。
もかには無理だ。やっている途中に店員に見つかって怒られるのを想定してしまうだろうし、後できっと迷惑をかけてしまったと罪悪感に苛まれる。いっときのささやかな幸福に浸りきれない、そうやって踏ん切りのつかない癖に、一方ではそういうとっぴな行動に憧れが全くないとは言い切れない半端者だ。
「共感できた部分も一応あって。檸檬は確かに綺麗で理想の形をしているんです。端から端まで艶やかな色をしていて、いい匂いがしていて、そういうのを手に入れたときに思わず嬉しくなっちゃう気持ちはちょっとわかります。なんていうか、そこはこのひとすごいセンスいいなって思いました」
「ほおー!今時の若い子はこういう感想らしいよ、やっちゃん」
にこにことした顔で先生はコーヒーを飲む、ブラックらしいそれはまさしく普段先生が着ている服のような黒くて暗い色をしていた。
「ま、小説を読んでどういう感想をもつかは個人の自由だからな。お嬢さんがそう感じたなら、お嬢さんの中じゃそれがまさしく正解なんだよ」
やっちゃんというのが名前らしいおじさんは紅茶にシュガースティックを足してそう言った。
「そういえば、お嬢さんはなんで今日制服着てんだ。学校じゃねえだろ、今日は日曜日だ」
「そういう気分、らしいよ」
もかが答えるより先に先生はそう答えてくれた。もかはおじさんに何をいうべきか迷って口にカステラをつっこんだ。
「なるほどなあ」
しかし粗雑な相槌を打っただけでおじさんはそれ以外何も言わない。そこにあったのは優しい沈黙だった。
だから、もかは優しい甘さのカステラを飲み込んだ後、ちゃんと言葉をつくることができた。
「私、嘘ついちゃったんです。本当は今日は部活がないのにあることにして家を出てきちゃったから」
家族みんなに嘘をついた。義弟がもかの一緒に野球観戦にいくことを楽しみにしてくれていたのを知っていたのに。
「うちの家、半年前に父が再婚したんです。新しい母と人生で初めて弟ができました。小学生の。どっちもいい人なんです。溌剌としていて、明るくて。ほらシンデレラだと継母とその子供が先妻の子にいじわるで、シンデレラはたくさん虐められるじゃないですか。舞踏会にも行かせてくれない冷たい仕打ちをしていて。でもうちの新しい家族は全くそんなことなくて、むしろ二人ともすごい優しいんです」
「ほー、新しいお母さんは美人か?」
「おいおいやっちゃん、そんなこと聞くんじゃない」
おじさんのしょうもない発言にもかは笑いそうになった。
「店長さんの好みかはわかりませんけど、義母は綺麗ですよ。ぱっちり二重で小顔で、あと泣き黒子があります。弟もそんな義母に似ているから将来イケメンになると思います」
「へえ、それならお義母さん美人じゃん。あたし泣き黒子のある人好きなんだよねえ」
しげしげと先生がそういった。
「でもその美人たちとどうにもギクシャクしてるわけか」
店長の言葉にはもかはゆっくりと首を横に振り否定した。
「いいえ、私がひとりだけうまく家族らしくできないだけです。本当は今日だって義弟の提案で家族みんな野球を見にいくはずだったのに。なんだかそれが嫌になっちゃって。
一緒にいると私、どんどんどんどん自分のことが嫌いになるんです。実はそんなに新しいお母さんのことも弟もきっと好きじゃなくて、話しているとだんだんムカついてくるし、でもじゃあ何に腹を立てているのかもよくわからない。別に普通のことしか二人は発言していないのに。そうやって自分の気持ちがわからないまま、そのうち自分の唇が勝手に動いて、私の醜い心の内側を吐き出しちゃうんじゃないかって怖くなる」
やっと言えたのだと、もかは首にささった魚の骨が抜けたような心地になった。誰かに言いたくて、でもずうっと誰にも言えなかった。
家族でもない人に口走ってどうにかなることだとは思っていないけれど、それでも誰かに吐き出してしまいたかったのだ。聞いて欲しかったのだ。
こんな一度も行ったことのない古い店で、変な格好ばかりの変わった先生とその親戚に話すなんて思いもしなかった。
もかは目を下に向ける。埃っぽいカウンターの端には本が積み上がっていた。これから値段をつけて陳列する予定なのだろうか。
「いい人なんだろ、その新しい母親と義理の弟ってのは。お嬢さんから見てもだ。それなのに、どうにも家族として受け入れがたい」
「はい」
おじさんは首を何度か斜めに振った。ごきんという骨のなる音がした。
「お嬢さんは一体どこに問題があると思っているんだ」
「自分に。あの二人はちゃんと家族として私に接してきます。弟として私と仲良くしようとしてくるし、母親として私を慮ってくるので。そこに溶け込めないのは私です」
それは間違いない。事実だ。認めざるを得ないはっきりとした事実だ。
「どうして溶け込めないんだと考えているんだ」
「…わかりません」
わからない、わかっていたら今頃こんなに苦労していない。
重たい沈黙が響き渡った。
「糸寺さんのことと、お義母さんと義弟さんのことは聞いたね。じゃあお父さんのことは?」
先生がそれなら、と問いかける。教室で『檸檬』に共感できた人はいたか、と問うたときと同じ少し軽い声だった。カップの中の紅茶を飲み干し、もかは口を開く。
「…昔は好きだったけど、でも今はちょっと嫌いになりました」
「そっかあ」
「別に新しい家族なんて私は欲しくなかった。お母さんが欲しいなんて離婚のあと、私一度も言ったことなかったのに。賑やかになって嬉しいな、前は静かすぎたもんな。お前に母親も弟もできてよかったなんて呑気な顔でいうんです」
もかはぎゅっと唇を噛んだ。カップの中のレモンの輪切りはちょっと紅茶で艶やかさを失ったように見える。
「求めてないのに何故だかやってきちゃったから扱いに困っている、というところかな」
「っつうか、お嬢さんにとっては親父とお嬢さんで家族の形だったんだろ。そこに、入ってきた二人を足した形が正しいみたいな扱いでそれがいやだったんじゃないのか?」
「…そうかもしれないです」
あ、と思った。
そうだ。家族というのは父と母がいて、兄弟がいるのがいいのだと、そう言われるのが嫌だったのだ。
二人しかいない家族は不完全なのかと、もかのこれまで人生で一番長かった家族の時間は間違っていた、哀しい、惨めなものだったのだと指差されている。そういう気持ちにさせられた。他の誰でもない父親に。
「寂しかっただろって言うんです。お父さんが。学校が終わって帰ってくると誰もいない家。髪の毛を結ぶのがなんどやってもうまくできなくて、私が自分が結べるようになるまでずっとショートカットだった髪の毛も、二人きりの入学式の写真も全部そういった思い出に対して毎回毎回かわいそうだと思われていたのかなって。それが……」
ずっと心の中でもやもやとしていたものが初めて形になった。この重さだったんだと、もかは理解した。
寂しかったのは確かに嘘ではない。小さい頃は寂しかった。母親に捨てられた気持ちで胸がいっぱいで、夜寝れなかった日だってあった。参観日にみんなは父母がいるのに、もかにだけは父しかいなくて、ときにはその父すらいない日だってあった。
それでももうそんな古い傷はとっくのとうに塞がっていて、家族二人の生活に満足していたのだ。もかにとって既に家族のあり方というのは父と自分の二人だった。
「否定されたと感じたんだな。そりゃいやだよな。勝手に決め付けられてさあ。お嬢さんの人生が哀れかどうか他人が測っていいもんじゃねえもんな。たとえそれが父親でもだ。みかんも梨も、パイナップルも檸檬もみんな美味いし、誰かにとっては不味いもんな」
うんうん、とおじさんは頷いた。
「きっとそうなんです。だから、あの二人のことをどうにも受け入れきれなかった。受けいれたら、負けるような気がして」
「昔と今、どっちが正しいかっていう勝負?」
先生の言葉にもかは無言で是と返す。糸寺もかの人生を否定する戦いに負けたくはなかった。
「でも、そんな勝負苦しいだけだろ。もうお嬢さんの二人暮らしは終わったんだ。あとはどうしたって認められなくてその家から出るか、受け入れるかのどっちかしかない。でもさ家から出るのだってお嬢さんにとっては敗北と同義だろ。だから出ていけない」
「…うん。そうなんです」
「言ってやれよ。あなたの言葉に傷つきました、撤回してくださいって。私は不幸なんかじゃなかった。そうお父さんに。言わずに伝わるのが最高だけど、今の今まで気がつかなかったなら無理だろ。言って伝えてやれ。家族だって伝わらないものはあるさ」
伝わっていたならきっともかの母と父は離婚していなかった。
それでももかはおじさんの言葉にちゃんと答えることができなかった。言って、今の薄氷のような四人の世界を壊すのが怖いからなのだろうか。
先生は困っているようだった。もかに何を言ったらいいのか、迷っているのだろうか。ごめんなさい、と言ってしまいたかった。でももかにはそれも言えない。
視線を彷徨わせた先生が、ぱちぱちと瞬きをしている。それからにっと笑って、もかの頬へと手をのばし、もかの少し温度が低い顔をぐりぐりと指でいじくりまわした。先生の手はもかよりも随分と温かい。
「ほら、辛気臭い顔していると全部が全部暗い気持ちになっちゃうよ。糸寺さん、せっかくならさちょっと楽しいことやろう」
小さな椅子から先生が立ち上がる。そうして彼女はもかが床に置いていたビニール袋に手を伸ばし、中の檸檬をひとつ掴み取った。
「ここは古いとつくが本屋で、この場には檸檬がある。みずみずしいきれいな檸檬だね。そしてこの場には不安と悩みをどう処理したらいいのかわからなくなって途方に暮れているひとがいる。はい、糸寺さんならさあ、どうするのがいいと思う?」
先生は出来の悪い生徒に懇々と説明するようにゆっくりとそう言った。
「…檸檬を爆弾にする?梶井基次郎の小説みたいに?」
「はい正解!定期テストなら百点満点!じゃあやってみよっか」
ほらほらと彼女はもかを急かし、立ち上がらせる。それからじろじろと店の棚を見てから、「ここがいいかな」と言った。
「それじゃあ本を並べて並べて、なるべくいろんな本ね」
「おいおい、本当にやらせるのかよ」
呆れた声でおじさんが言った。もかもこくこくと首をふる。古本とは言え商品を痛めてはいけないだろう。
「いいじゃない。文豪の小説の再現。梶井基次郎は檸檬を爆弾だと言った。そしてその抱え込んだ不吉な塊ごと丸善を破壊する想像をした。私たちだってそれにあやかったって、ねえ」
「まあ…客も来ないしな」
もかは本棚を見渡した。上から二段目の棚にあるのは、最初に目に入った梶井基次郎の全集だ。色あせたその一冊を抜き出してみる。ずっしりと重たい。横置きにされている本をどけて、空いたスペースにそっとそれを置いてみた。それから何冊か本をランダムに抜き取る。確か教科書には色とりどりだか、ゴチャゴチャだとかそういった文章が書いてあったから、いろんな種類の本を。薄い本も厚めの本も、総勢十五冊ほど積み上げたところでもかの身長と同じくらいになった。そこからもう五冊積み上げてもうのせられないと思ったところで塔のようなできそこないのジェンガのようなそれに、鮮やかな檸檬をそっとのせてみる。
頑丈な古本の塔にたつ檸檬はそれだけがどうにも不安定で、はっきりとした個としての存在感をはなっていた。
「奇怪な悪漢になった気分はどう?」
もかは振り返り、先生をみた。教科書の単語だ。
彼女のパーカーにはへんてこなニコちゃんマークがついていることに初めて気がついた。
「本に檸檬って似合いませんね」
「違いねえな。さつまいもと新聞紙の方がまだ似合う」
けけっとおじさんが笑った。もかもその言葉に頷く。
「やっぱり爆弾とは思えなくて。檸檬は檸檬でしかないなって」
ここから三秒二秒と数えたところで檸檬は爆発してやくれない。これはいつまでたっても果物のままだ。
糸寺もかは爆弾魔にはどうにも出来損ないだった。想像力の欠如なのか、それとも単に気持ちの問題だろうか。
「でも、楽しかったですよ。なんだかいけないことをしている気持ちになって」
もかは少し口角を上げてそう言いながら、積み立てた塔を崩そうと手を伸ばした。てっぺんの艶やかな黄色を取り上げようとして突き出した指が、それを握るより先にとんと弾いてしまう。
不安定な檸檬はつるんと本の上で回転し、ぽろりと落ちていく。
もかの背中から汗が吹き出る。やばい、と口走りそうになった。
ーー潰れるな!割れるな!
慌ててもかが伸ばした右手も、急いで突き出された先生の手も届かず檸檬はあえなく床に落ちた。ぺんぺんという間の抜けた音で落ちた檸檬は、果汁のしぶきも悲鳴もあげず、ただ床を不規則な動きで転がるだけだ。ころころと床を移動した檸檬をおじさんが拾い上げる。ひゅうともかの口から息がこぼれ落ちた。
「いやー焦った。焦った。本に染みついたらどうしようかと。今日一番びっくりしちゃったな」
「…何事もなくてよかったです。本当に。心臓が口から飛び出るかと思いました」
いつのまにかもかの頬はひどく熱くなっていた。
「爆弾…でしたね。やっぱり檸檬は」
「こういうことでしたってか!はははは!」
「ほんっとうに。店の商品台無しにする爆弾か!しょうもない」
あっははは、ともかと先生はおじさんにつられて笑った。
ほっとしたと同時に笑いがどこからともなくこみ上げてくる。小さなお店の中で三人の爆笑が長々と響き渡っていた。
先生がばんばんと自分の膝を叩いている。もかも口を押さえながらそれでもこぼれる笑いをもう止めることもしなかった。
「あああ、ふくくっおかしかった。ああ店長さん、先生、私そろそろ帰ります。帰れそうです」
一頻り笑ったら、なんだかひどくすっきりしたのだ。もかはぐちゃぐちゃに積み上がっていた本を一冊一冊戻していく。塔はあっさりと崩壊していく。
「おうよ、気をつけてな。また来いよ。だいたいいつでも空いてるんだここは」
「はい、きっとまた来ます」
最後に一番下の梶井を本棚に戻す。重たい本だった。
先生がビニール袋と通学鞄を手渡してくれた。ひどく軽い鞄と爆弾がまだあと何個かはいったビニール袋。
「また学校でね」
「はい。次はゴスロリ姿ですね」
そう言えば、先生はうん、と微笑んだ。
からんと軽い鐘の音が響くなか、もかは狭山堂を出る。いつのまにか日が落ちかけになっていて、空は夕暮れを迎えていた。
一体何時間あの店にいたのだろう。一瞬だったような、半日以上もいたような。よくわからない。それでいい。
駅へと向かう道のりはどっちだっただろうかと、うろ覚えのまま歩き始めれば、鞄の中でスマートフォンが鳴っていることに気がついた。もかは慌てて取り出す。
「あ、はい。もしもし?」
「おおっやっと繋がった。さっきから色々とメッセージとか電話とか送ってたのに全然つながらないからさあ。部活忙しかった?ごめんな」
電話の相手は父だった。ううん、気がつかなかっただけだからごめんと謝れば、いやいいけどと言われる。
「試合はどうだった?」
「あのまま勝ったよ。志弦も喜んでる」
「そっか、それはよかった」
いつもならどこか複雑な気持ちになっていたけれど、今ならそんなことはなかった。ちゃんと弟が嬉しくて喜んでいるという事実を、そのままもか自身が喜ぶことができる。
「夕飯はさお母さんと話して、ピザ買って帰ることにしたんだけど、希望ある?」
「シーフードがのってるのがあるならなんでもいいよ。あのさあお父さん」
もかは、そこで口を閉じた。電話先の父が「ん?」と聞きかえす。
電話の向こうでは、義弟が何かを義母に告げている声がかすかに聞こえた。
「あのさ、あとで家についたら、色々と話したいことがあるんだ。いい?」
びゅうと風が吹いた。
「いいけどなんだ?」
「私がさ、思ったことと感じたことと、それから…いくつかの謝りたいこと」
ちゃんと口に出した。言葉にした。言えた。
「じゃあね。またあとでね」
相手の返事を聞くより先にもかは電話を切った。父はきっと電話の向こうで不可思議な顔をしているだろう。そんな顔を想像してもかは小さく笑った。
それから勢いよく走り出す。そうだ電車に乗って帰らないと。志弦を待たせてしまったらかわいそうだ。
もかの使い込んだローファーがアスファルトを叩く足音が響く。
不可思議な裏通りの店の看板を背中にもかは駅へと駆けていく。もう神秘さもすっかりなくなったけれど、それでも優しい街だった。またきっと来る。そのときはあの果物屋さんでちょっといい果物を買ってみよう。きっと義母は喜んでくれる。それに古本屋で店長さんがお勧めしてくれる本を買ってみようか。
でもその前に、父にちゃんと話をしよう。糸寺もかは、糸寺もかの人生が幸福だったと知っているのだと、あなたが育てた私は幸せだったから、否定したことに怒っているのだと。
走るためにもかが吸い込んだ空気の中には、確かに檸檬の香りがしていた。
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