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 食卓に行くと、大量の白い粒が散らばっていた。それは土曜のお昼頃だった。両親はまだ寝いっていて、誰もいないはずの食卓に、肌色の粒や、白色の大小様々な粒が点々と落ちていた。僕はその異様な光景にどくどく、と次第に大きくなる心音を聞いていた。もしかして、はもしかしないことになっているのを確信していた。昼下がりの陽光を受けて、しゃがみこみ、食卓の下で寝息を立てる妹を見つける。手首はさらされて、血液が白い肌を伝いたれている。妹の顔はやすらかで、このまま起こしたくないとも思えてしまう。僕はすぐさま妹に駆け寄り、頬を叩いた。すると、うっすらと瞼が開かれて、細い瞳が見えた。透き通る瞳の光を追った。 「おにぃ、ちゃん」消え入りそうな声をすかさず耳で拾う。「きゅうきゅう、しゃ、よばないで。このままねさせて」 「だめだ。呼ぶからな。お前がなんと言おうと、呼ぶ」  僕は妹を引きずり、自室に運んだ。ぐったりした体を運ぶのは骨が折れたが、そう言ってもいられない。両親は眠っているから、すぐに起こさなければならないし。早く救急車を呼ばなければならない。  カーテンの仕切りをとっぱらい、僕は真ん中に妹の体を寝かせた。もう一回頬を叩いたが、反応がない。手首の血は止まっていた。見た目よりもひどくはない。妹が治りかけている傷を引っかき回すから、大きな裂傷になっているのだ。僕はその傷に手を置いた。脈がどくどく、と動いていた。妹の体は生きようとしていた。それなのに、なぜ。  僕は立ち上がり、自身の部屋にある賞状と目が合った。僕が小学校の頃とった書道コンクールの最優秀賞の賞状だ。その横には中学生でとった絵画コンクール最優秀賞の賞状、中学にやっていたバスケットボールの優勝トロフィー、大学で写真を始めて、それも最優秀賞をとっていたので、最優秀賞の賞状と共に撮った写真を飾っている。妹の写真だった。夕方に黄昏れる妹はすこやかなのびをしていた。手首には傷一つない。 「お兄ちゃん、お金貯まったら、一人暮らしするんでしょ。うらやましいな」  妹が、そういっていた気がする。こぼれ落ちそうなほどの大きな瞳をぱちぱちさせて、妹は笑みを見せていた。妹がこうなったのはここ数年だ。妹に何が起きたのか、僕にはついぞ分からなかった。いや、もしかしたら、この賞状のせいかもしれない。妹に誰もかまわなかったから寂しくて、手首を切ったり、薬を大量に飲んだりしているのかもしれない。「なんて愚かなんだ」  僕は何回もいった。 「醜い行為を繰り返して、なんになるんだ。そんなことしたって誰もふりむかないに決まってるじゃないか」 「それ、『メンヘラ』って言うんだって」  妹の声がつん、と通った。僕は寝そべっている妹を見ると、妹は仰向けになりながら、大きな目を開けていた。ぱちぱち、と瞼が開け閉めされる。そのたびに瞳に吸い込まれそうになる。 「でも、私はそうじゃない」そうして、妹は起き上がり、「メンヘラなんかじゃない。私の行為はそんなものじゃない」とぶつぶつと言う。「愚かじゃなくて、こういったらいいじゃん。『ださい』って」  爪を突き立てて、傷をえぐる。一本の線は丸い楕円形になり、変色していた。透明の汁が飛び散っている。次第に血がしたたり落ちて、床に赤が飛び散る。そしてその手首を思いっきり妹は握りしめた。離すと、掌に血が広がっている。鉄くさい匂いがする。すべらかな肌におかしなひび割れが生じていた。妹は髪を振り乱して、自身の机の中から白い箱を一箱と、小さな長方形を取り出す。白い箱から一本取り出して、口に咥えた、長方形のねじ部分を親指でこすりつけ、橙色の炎をつけた。ほんのり灯った小さな温もりを咥えた先に当てた。白い煙が立ち上る。おぼつかない手つきで煙草を指ではさみ、けほ、けほと吐き出した。 「煙草、すごいでしょ」  妹のそれは、褒めてほしがっている子どもに見えてしかたなかった。けほけほ、と咳をし続けているのに、それでもなお妹の非行は止まらなかった。 「やめろ」  けほけほ、と妹が吸って咳をする。 「痛々しいだけだ」  げほげほ、と今度は吐きそうになっていた。そこで妹は僕の部屋に侵入して、トロフィーに先を突きつけた。火は消えて、煙草は僕の部屋の床に落とされる。床には煙草の灰が散乱していた。 「トロフィーなんてどうでもいいし、お前の気が済むならいくらでもやればいい。でも、煙草は体に悪いし、薬の大量摂取は命に関わる。手首のそれは一生残る。お母さんが産んだ大事な体なんだから、お願いだ、やめてくれ。僕はお前を救いたいんだ」  妹は空虚に部屋を眺めていた。妹のカラーボックスには、カバーを外した完全自殺マニュアルが置かれている。僕はそれから目をそらし、妹をまっすぐに見つめた。これから喧嘩が起こるのなら両親同様に、紙を持ってきて、どこがいけなかったのか検討しよう。だから、紙とペンを、まずは用意しなければならない。 「まずは落ち着いて、話し合おう」  僕は妹に諭すと、妹はこてんと、頭をかしげた。始めてみるしぐさで、心音が一層高鳴る。こんなこと一度だってなかった。 「お兄ちゃん、もしかして、なんとかなると思ってる?」 「思っている」  妹の目はとろんと溶けているようだった。僕は確固たる意思を持って、妹に向き合う。足下の感覚も、脳内の思考も僕は感じていない。研ぎ澄ませろ、と全神経に伝達する。今は妹にとって大事な局面だ。 「だったら、ねぇ、なんで、何も知らないのに救えるなんて簡単にいうの。どうして一人暮らししてくれないの。どうして私の偏差値に文句言うの。そりゃあ、お兄ちゃんは顔も頭も、芸術だって達者だよ。なんで私のこと分かってくれないの。知ってるよ、私。お兄ちゃんはいつだって一番なんだ。お兄ちゃん自身が一番大切なんだよ。他はどうだっていいの。うん、だってお兄ちゃんは一番正しいよ。分かる。お兄ちゃんは一番正しいことをいつだっていってくれる。でもお兄ちゃんは、私のこと一回も受け取ってくれなかった。お兄ちゃんへの私の感情も、お兄ちゃんはいつも分かってないんだよ。だからお兄ちゃんはわからないんだよ」  僕は、紙にそれらを書きたくなった。僕の悪いところを上げてくれているんだから、それをどう折り合いをつけるか審議したくなる。 「なあ、ちょっと待ってくれ。今から紙を取り出すから」 「もういいよ」 「よくない」  僕は自分の机の中から紙をとりだして、ペンを持つ。僕は床にそれらを敷き、先ほどいった妹の言葉の要点を書き出した。僕は一番だと思っている、僕は妹よりもよくできる、僕は顔も頭もいい、でも、一回も妹の感情を受け取ってくれない、と言った要点を絞りだして、顔を上げた。  妹は無表情だった。何も灯さず、空虚を遊んでいる。 「感情ってなんだ。お前の感情って」 「言ったところで、言葉なんかで、くくれないよ」 「そんなものはない」  妹がぱちくり、と目を丸めた。頭をかしげて下唇を噛み、今度は僕のことを愛おしそうに眺めた。そんな風に眺められるのは初めてだった。無性に腹が立った。 「お兄ちゃんは、かわいそう」 「そんなことない。お前が言ってくれさえすれば、僕だって分かる。僕だって譲歩する」  妹の拳がぎゅっと握られる。熱気がこっちまで伝わってくるようだった。肩が小刻みに揺れる。目が潤みだして、瞳を飾る。 「感情だって受け止めてやる。僕ができることなら何だってする。お前が心配なんだ。お前がかわいそうでならないんだよ。だから、僕の言うことを聞いてくれ。お前は一度だって、僕の言うことは聞いてくれなかったじゃないか。そうだ、僕の言うことを聞かないのはお前も同じだ。感情を受け止める、そんなことをする前に、僕の言葉だって受け止めるべきだろ」  僕は何を言っているんだろうか。たまっていた言葉が、次から次から湧き出てくる。妹の前に立ちはだかっていた。「言葉は受け止めていくもんだ。『いってらっしゃい』の挨拶をされてるんだから『ただいま』を言うべきだし、僕が心配しているって感情も受け止めるべきなんだ。暴力なんて愚かだ。自分を傷つけるのなんてもってのほかだ。世界にはな、自分の命すら危うい子どももいるんだ。日本にだって、両親の愛を受けられなくてネグレクトをされている人もいる。お前は、そんな人よりもよっぽど幸せだろ。そんな中で、お前はなんなんだ。だだをこねているだけだろう。僕がいるからなんなんだ。何がいけないんだ。僕はこうして、受け止めているじゃないか。一緒に映画館もいったろ。お前を心配して、手首のこと知ったから、参観にも行って、学校の様子も見に行った僕は家族として、兄貴として、お前を心配してんだろ。それも受け止めろよ」  だが、僕は、暴力をふるっていない。これは、ただの喧嘩だ。明日には収まるし、妹だって僕の言葉を聞いて分かってくれただろう。僕は、間違っていない。これが最善の選択だ。ちょっと感情的になったけれど、きっと大丈夫だ。 妹が拳を握り、手首を押さえているのが見て取れた。  暴力は悪だ。妹だってそれは重々承知している。 「やっぱ、お兄ちゃんには、分からないよ。お兄ちゃんが言うから、私は言葉を吐かなかった。この言葉はだめだ。いけない。傷つける言葉は、いけないって。お兄ちゃんは、そのたびに、私の武器を奪っていったのを知らない。この家族が私から私を奪っていったのを、知らない。わかんない」 「何をいっているか、さっぱりわからない。もっと分かる言葉で話せよ」 「きっとね、命は軽くも重くもなくて、重くしてんのは、その人自身なんだよ。重い人はペンが強い人で、ペンが弱い人は重さにやられて、その場で動くことすらできずに、うずくまるんだよ」ずんずん、と妹が拳を抱えて僕の前に歩みを進める。「ペンは剣より強しっていうのはね、ペンが強すぎるから、剣があるんだよ」妹の顔が僕の目の前にくる。あまったるい女の子の匂いが、ふっと香ったと思ったら、次の瞬間頬に強い衝撃が走った。  僕は床にふっとばされていた。頬に拳の骨がめりこんだ感触が後からじわじわとほとばしる。どうして殴られたのか分からなかった。妹を見上げると、ふっきれたように、笑みを見せていた。からっからに乾いた笑い声を吐き出して、すみきった陽光をあびているようだった。妹の笑い声は僕の脳髄に染み渡る。顔に傷がつくことが嫌だった。妹の笑い声を聞きたくなかった。僕の中に妹が入ることを拒絶した。妹の感情は未だに分からないが、その感情が僕に語りかけてきて、どんどん頬から痛みが前進してくる。僕の瞳は潤みを帯びて、喉の奥からうめき声を出させた。自分の姿がとても醜くて、いたたまれなかった。どうしても早く、ここから抜け出したくなった。 「私の服と分けて洗濯して」  と、なぜか妹の困りごとを思い出した。  次からは、きちんと分けて、洗濯をしようと、それだけは胸に留めて、僕は頬を抱え、その場で嗚咽を漏らした。
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