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 つん、とした匂いは僕を離してはくれなかった。どうしても妹の手首に気がそがれる。妹はそんな僕に怪しげな目を向けて、朝ご飯の白飯をかきこんだ。学校指定の制服に着替えて、いつも通りの朝を過ごしている、はずだ。そういえば妹はいつも長袖にしか袖を通さなかった。もう夏だというのに、いつだって長袖の制服に身を包む。冬服が好きだという言い訳も思いついたが、あの手首を思い出すと言い訳を鼻で笑ってしまった。すぐに捨てる。  居間では、両親や妹が顔を合わせて朝ご飯を食べていた。焦っているのは両親だけで、僕たちはいつでもその光景を見て落ち着いて学校へ行く。僕は大学生だし、出動する父さんよりも、高校へ通う妹よりも遅く出ていた。でも、今日は妹を待ってから出ようと決めた。妹は寝ぼけ眼で僕を睨んでいる。いつだって妹は僕のことをこうして見ている。 「そういう目で人を見ちゃいけないよ」  と、僕はそのたびに注意をするが、一方で妹はひどく傷ついた顔をする。妹のためを想っているから、こういう指摘も教育の一貫だ。 「もしかして、そういう目で友達とか見てんのか」  隣で父さんが慌ててパンを頬張っていた。そんなに急いだら喉に詰まるよ、と僕は笑って言うと、お前にはかなわないな、と父さんが柔らかく頬を緩めた。そうだよ、この顔だよ、父さんみたいにいつだって人に優しくふるまう人になってほしいんだ、と誇らしくなる。父さんは、いつだって僕たちに笑顔で答えてくれるんだ。  妹に向き直ると、今度は息をのんで、手首を力強く握っていた。 「見てないよ」 「なら、良かった。悪い癖だよ。僕にしてるんなら、無意識に友達にしてしまうこともあるから、やめなよ」  お母さんが、お父さんを見送って帰ってきた時には、僕達二人の前には米粒一つすら残さない綺麗なお椀ができあがっていた。お父さんも和食にしたらいいのに。急いで食べると消化にもよくない。僕は椅子を引いて立ち上がり、妹の手元を見た。手首から覗かせる、あの愚かな傷は見えなかった。妹は手の甲まで袖を伸ばしている。いわゆる萌え袖というやつだ。ずるずるに伸ばされた袖は不格好で、それもやめてほしくなった。でも、あの傷が見えるのなら、僕はそのままでいてほしくもあった。 「もう、いく」  妹が立ち上がるのを見て、僕も同時に立つ。手には食器があり、それを各々で洗い桶につける。これをお母さんが洗ってくれるから、いつも「ありがとう」とお母さんに一言言って、外に出る。そのたびにお母さんはお父さんよろしく嬉しそうににこにことして「いってらっしゃい」と言ってくれる。こういう些細なところから、僕は恵まれていると心底感じる。 「お前も、もうちょっと素直に言えば良いのに」  妹は、反抗期がずっと続いていて、両親に「ごちそうさま」も「いってきます」も言わない。だから、たまに出る「ありがとう」がとても貴重で、感動してしまうんだ。  そんな、妹が。信じられなかった。  玄関で靴を履く妹の背を見て、胸元が少しでてきて、太ももが前より大きくなっているのに気づいた。肌がぷっくりとしている。頬が丸まっていた。ちょっと太ってきたんじゃないか。僕と同じ食事を食べているはずなのに、男と女じゃ食べ物の消化のスピードが違うから、僕が熱で溶かせるご飯は、妹の体では脂肪としてついてしまうのだろう。今度、僕が量を減らすように母さんに言ってみよう。 「なあ」僕は後ろから呼びかけて、「何か困ったことないか」  妹が鬱陶しそうにふりむいた。 「なに」 「いや、別に。ほら、最近、あんまり話してなかったし。学校の話もしないじゃん。だから気になるんだ。学校は楽しいか」  僕は言い出しにくいことを喉の奥から慎重に取り出した。「いじめ、とか。兄として心配で。いじめられてないか。もしつらいことがあったら、僕が学校に問い詰めるし、転校とかも考えるから、遠慮なく言えよ」  その答えに、妹は時間をかけなかった。すぐにまた、目を開けて、切れ長の目でにらみつけて、下唇を上唇に巻き込んだ。今にも泣き出しそうなのは一目で分かった。  いじめられているんだな。 「何言ってんの、またつまらないドラマの影響でしょ」 「心配してんだよ」 「じゃあ、私の服と分けて洗濯機回して。それが困りごと」  僕の頭の中は、さっきの妹の顔でいっぱいだった。きっとそうなんだと、確信めいたものが積み上がる。あの顔をさせているやつが許せなかった。妹の顔がここ数年でみるみるうちに曇っていったのもそういうわけかもしれない。きっとそうなんだ。  妹は優しいから、いじめられている原因が自分にあると思い込んで、傷を手首に引いたんだろう。それは人間としての価値を下げる線だ。 「さよなら」  妹がほんのちょっとだけ口角を上げて、いじわるそうな笑みを落とす。知らないうちに玄関から妹の姿が消えていた。僕に悟らせまいとしているようで、けなげでならなかった。  僕が、妹を救ってあげなければならない。両親に言えないことだろうと、僕は気づいてあげられたんだから。そして何か解決法を、差し出してあげよう。両親に知られずに、妹の価値を落とさずにいてあげられるような、そんな方法を。
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