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 妹の高校は、僕の通った高校よりも低い偏差値の高校だった。入った当初はそれこそ、「お兄ちゃんじゃないからね、人それぞれだし、勉強が全てじゃないからね」とお母さんが必死に妹を慰めていた。今では落ち着いてお母さんの圧力も、お父さんの失望の目も妹に向いていなかった。妹は、あの時ほどつらいことはなかったんじゃないかって思う。偏差値が低いとそれなりに風紀が荒れると聞いたこともある。僕のような高校へ行けなかったことを、まだ僕は同情している。もっと僕が、勉強を教えてやれば良かった。だから、いじめなんてもってのほかだ。  気を引き締めて、僕は参観日に出向いた。山の上にある妹の高校には駐車場がなく、途中で車から降りて、歩きで高校へ行くことになる。僕はお母さんを連れて高校までやっとの思いで辿り着く。  妹の高校は、四角い病棟のようにたたずんでいた。息がつまるような、その白さに僕は大丈夫か、と一段と暗くなる。敷地内に入ると、隔離病棟のような、エントランスが続き、そこに昔ながらの靴箱が何個も置かれていた。僕の高校では靴箱は木製で扉はついていなかったが、妹の高校では靴箱はアルミ製で一つひとつに扉がついている。これでは中に虫など入っていても分からないではないか。いたずらが誘発される靴箱に憤慨しつつ、僕は周囲を眺める。ちょっと前まで僕はこういう高校に通っていた。既に僕の高校と重なり合い、ノスタルジックな気分にさせている。  いけない。今回は妹の学校での様子を見ることが重要なんだから、しっかりと襟を正していかなければならない。 「お兄ちゃん、こっち」  何人かの親御さんが、スリッパを履いて、廊下を歩いていた。どの親御さんも、スリッパのサイズがあっていないのか、ぱた、ぱた、と床をスリッパが叩く音がしている。職員室の前を通り、隔離病棟の奥へと突き進む。いくつもの扉の次に窓が開放されていた。そこから制服をきた生徒が姿勢正しく黒板を向いて、熱心にノートをとっていた。  お母さんが誰か見つけたのか、そこで誰かに声をかける。「お久しぶりです。元気でしたか」 「あらあら、合田さん。こちらこそお久しぶりです。ええ、まあ、あれから腰の調子もよくなりまして、この通り。ま、そちらは」  僕の方に手を差し出されて、僕は背筋正してお辞儀した。「兄の伊織です。いつも妹がお世話になっています」  ぱた、ぱた、とスリッパが鳴る音が続いている。 「まあ、あの県内一の大学に行ったお兄さん。こちらこそ娘がお世話になっております」  目の色が変わるのが見てとれた。僕の大学名をだせば、誰だって声色は高くなる。僕が笑みを零せば、息をむほどに感動してくれる。この親御さんもその類いで、僕の顔を見るたびに、まあ、まあ、と感嘆符を続けざまに空間に落とし続けた。 「私の娘、ぜんぜん勉強しなくてね。勉強を見てくださらない」 「考えておきます」  と、濁しておいた。妹の友達をまだ僕は疑っていた。いじめに加担する友達の親御さんなら、僕は黙っていない。この親御さんに、娘に、最悪僕は天誅をくださなければならない時がくるかもしれない。そのときのために、僕は自身の感情を隠しておいた。  妹の教室の前に来る。来ているのは、僕の母親と、さきほどお母さんと知り合いの親御さん、あとはもう一人父親と見られる人が来ていた。妹は、真ん中の前から二番目の席でノートをきめこまく写していた。ぴん、綺麗な姿勢で授業を受けている。そこで真剣な表情をしていたのに、ふと僕の方へ目線を動かす。いちはやく教室の中で僕に気づいたのは妹だった。僕の隣でお母さんが手を振っていた。  妹の顔が赤らみはじめる。見ないように必死になって顔を下げて、先ほどの姿勢を曲げて首をもたげた。綺麗な姿勢で年相応にはつらつとしていた生徒が一気に老婆へと姿を更新していく。耳まで真っ赤になり、そこでざわめきが妹を中心に大きくなった。波紋が広がるように、だんだんと私語が見られ始める。僕の顔をちらちらみる女子生徒が多くなっていく。そして、注目の的の妹に波紋はぶりかえし、とんとん、と後ろの女の子に囁かれる。 「あれ、お兄さん?」  妹は、嬉し恥ずかしそうにうん、と小さく頷いた。女の子は、ひゃーと黄色い声を沸き立たせた。周囲にもその声が伝わっていく。授業はそれでも進行して行き、何の変哲もなく終わっていった。妹のノートは終始まっしろの状態で、何一つとれていなかった。僕を見つけてから一度も顔をこちらに向けずうつむき続けた。  授業終わりに、クラスメイトの父親と見られる人に声をかけられた。 「いつもお世話になっています。うちの娘と仲良くさせてもらっているようで」  父親は、スーツ姿でいかにも仕事帰りのような姿格好だった。 「うちの娘が言っていました。あなたの妹さんが声をかけてくれて、毎日楽しいと。本当に感謝しています」 「いえいえ、本当によくできた妹で、兄である私も誇らしいです」  こういうことはお母さんに言った方が良いと思うが、お母さんは友達の母親とおしゃべり中だった。楽しそうだったので、会話をきるのはまずい。 「最近だといじめだ、スクールカーストだ、とうるさいでしょう。ほら、私のうちは父子家庭ですので、心配していたんですが、時代も変わりましたし、あなたの妹さんのおかげで本当に楽しそうで、安心しました。授業もしっかり受けているようですし」 「そう、ですね」 「今度、うちでお泊まり会がしたいと言っていたので、その際はよろしくお願いします。よければお兄さんもうちの娘と遊んでやってください」  そこで教室から黄色い声援のような笑い声が響いた。鼓膜が大きく揺れ動き、声で横面を叩かれたように感じた。頬は痛んでいないのに、じんじんと痛みを帯びている。そっと教室の中をみやると、妹が大きく口を開けて笑っていた。僕に見せたことがないほど豪快な笑みで、友達と話している。  と、そこでお手洗いから戻ってきた、女の子が僕に話しかけてきた。 「もしかして、お兄さんですか」  僕は、その子の早口に押されて、誰のお兄さんかも分からないのにこくこく、と二度もうなずいてしまった。やっぱり、と女の子の明るい声音に迫られる。「あの子からたまに話聞きます」とだけ言うと、その子は頬をぶくぶくと膨らませて、「あ、いえ、そんな見つめないでください」手を振り教室に戻った。  教室では、妹に先ほどの女の子が「お兄さんイケメンだよね」と楽しそうに話していた。妹がもどかしそうに、もごもごと口を動かしつつ、瞼を一回大きく閉じて、弱々しく、苦笑いをして、頷いた。  お兄さん人気ですね、と父親が微笑ましく見ていた。  僕が思っているより、この教室は穏やかなのかもしれない。妹の表情を見て、いじめの欠片も感じさせない。むしろ家にいるときよりも、とても明るく振る舞えている。隣にいる親御さんの関係も良好らしく、妹が懸念する材料がない。  たった一つ、あるとすれば教室の中で長袖を着ている妹の存在だった。他の生徒は夏服へと移行しているのに、妹は長袖のまま、手首を隠すしぐさをしていた。周囲はそれに気づいているのか知らないが、触れずに歓談を続けていた。妹だけぽっかりと教室の中でゆがんで見えた。  家に帰宅し、僕はお母さんに、 「とても良い高校だったね」  と告げると、お母さんは喜んでそうなのよ、と同意した。 僕は「イケメンだね」と喜んでいる友達と、袖で手首を隠している妹のグループを思い浮かべていた。「イケメン」はそっと胸の中にしまいこみ、妹の問題だけ今は抽出し、考え続けた。  もしかして、妹の手首は学校が原因ではないのかもしれない。だとすると、目を向けるのは、家族しかなかった。妹は部活に入ってないし。恋に悩んで落ち込むことは過去にもあったが、自傷にまでいたらなかった。考えつく先が家族ということに、僕はどうしようもなく途方もない道のりに思えてきた。そんなことはないと思いたい。
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