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掃除当番が終わり、おれは教室を出た。教室のある三階の廊下を進み、校舎の中央あたりに渡り廊下を通って、北校舎に向かう。
この高校には大きく二つの校舎がある。数年前に建て替えられた南校舎と、もう数十年は立ち続けているような北校舎だ。本当はどちらにも徳育館だとか智栄館だとかそういう名前がついているが、そんな名前で呼ぶ生徒はいない。先生でさえも分かりやすい呼び方を選んでいる。
そしておれたちの教室が入っているのが南校舎だ。一年生から三年生までの教室が入っていて、移動教室の少ない日は、この校舎だけで用が済んでしまう。
対して北校舎に入っているのは、主に特別教室だ。科学室や美術室、職員室や校長室があり、この校舎には特別な授業か、もしくは提出物を出す際に足を踏みいれることになる。
いまおれが向かっているのは、図書室だ。
おれは廊下を歩く。渡り廊下を過ぎたら、三階の突き当りが図書室だ。
おれは別に本が好きだというわけじゃない。中学生のころは、図書室なんてほとんど行かなかった。そんなおれがここに来る理由は一つだけだ。
おれは図書室の扉を開く。ドアは軽い木製なのに、ドアノブの捻り方にコツが必要で、未だに慣れない。ガチャガチャと回してようやく開いた。
「まこと、遅いってー」
すぐに春佳がおれに声をかけてきた。「ごめんごめん、掃除当番でさ」とおれは言い訳する。春佳は中学からの友人だ。中一で出会っていまは高三、すっかり長い付き合いだ。
「返却された本を、わたしが一人で棚に戻したんだからね」
春佳がすこしだけ怒りながら言った。
「わかったわかった、ブッカー掛けはおれが多めにやるから」
そう言うと春佳の表情はもとに戻った。
別に本が好きでもないおれが図書館に来る理由、それはおれの仕事が図書委員だからだ。
「遅れてすみません」
おれは司書さんにもいちおう謝る。
「別に遅れてるわけじゃないから大丈夫。春佳ちゃんの仕事が速いだけだから」
そういうと春佳の顔がほころんだ。春佳はもう、図書委員の仕事を二年以上続けている、ベテランだ。
「ですよね」おれは笑って返す。「今日作業するのって、ここにある本ですか?」
おれは司書さんにたずねた。机の上には、新品の本が何冊か積まれている。
「ええ。おねがいね」
「わかりました」本を二つに分けて、半分よりすこし少ないくらいを春佳に渡す。
おれは司書さんの作業机に置いてあるペン立てから、大きなハサミと三十センチのプラスチック定規を二つずつ持ち出して、春佳とふたり自習机に向かった。
この作業は机を広く使った方がやりやすい。カウンターの机ではすこし手狭になるから、自習机の方が便利だ。今はテスト前でもないから、図書室の机にはたくさんの空きがある。
おれは春佳の斜め向かいに腰を掛けて、本にブッカーを掛ける。ブッカーというのは、図書館の本に貼られている、厚手の透明の保護フィルムのことだ。
そしてそれを、一つ一つ手作業で本の表面に貼り付けてゆく。この作業は少しでも気泡が入ると台無しになってしまうから、おれは手元にだけ集中した。
そうやって三冊くらい終わった頃だろうか。
「ねえ、」と春佳に声を掛けられた。「どうした?」とおれは返す。ハサミが開いたまま置いてあるのを目の端で捉えて、春佳の話を聞きながら閉じる。
「じつは圭一のことなんだけどさ」
春佳はすこしずつ言葉を切って話す。「うん」とおれは一つ一つに相づちを打つ。
圭一はおれのバドミントン部の仲間で、そしておれたちが中学生だった頃に、一緒の学習塾に通っていた。だから高校にそれぞれの友達ができた今でも、変わらず三人で仲がいい。
「最近、なんか様子がおかしい気がするんだよね」
春佳が言った。その話し方には迷いが含まれているように感じた。
「何かあったの?」おれがたずねると、
「いや、特に何かあったってわけじゃないんだけど、なんとなく」と言った。たぶんこのまま尋ねても埒が明かない。
「バドミントン部では特に変わらないんだけどなー」
おれは圭一の様子について話した。いつも通り強いし、練習熱心なのは人一倍だしと。
「そっか、ならわたしの気のせいなのかな」
春佳さんが自信なさげに言う。
「なにが?」とおれは柔らかな口調で尋ねた。
春佳さんは口を開いた。
「最近、わたしが圭一に避けられているような気がして……」
「避けられてる?」
おれは驚いて、訊き返した。「ちょっと、声大きいって」と春佳さんがおれに注意する。
カウンターの方から司書さんの咳払いが聞こえた。
「ご、ごめん……」おれは声を低めて謝る。
「でも、避けられてるって、なんかあったの?」
おれは声の大きさに注意しながらたずねる。春佳さんはおずおずと口を開いた。
「特に何かあったわけじゃないんだけど」と話し始める。
要約するとこういうことだ。
春佳と圭一は同じクラスで、前まではよく休み時間に話したりしていたのだけど、最近、圭一が休み時間に自分の教室にいない。話をしようとしても、「ちょっと用あるからごめん」とすぐどこかに行ってしまう。一緒に帰ろうとしても、断られることが多くなった。
「考えすぎじゃないかな」とおれは春佳に言った。
「そうなのかなぁ」
春佳はどこか腑に落ちないようだ。
「たぶん圭一には圭一で、なにか事情があるんだよ」
おれは春佳をたしなめる。だって圭一が春佳を嫌うような理由はない。
「じゃあ誠のほうは何もないの?」
今度は逆におれにたずねられた。
「特になにもないと思うけどなあ」
おれは考えながら言葉を返す。「本当に?」と春佳に詰められて、本当だってと返したが、そういえばおれにも思い当たることがないわけじゃない。
「あのさ、実は前まで、帰り道とか一緒に帰ることとか多かったんだけど、高二の終わりくらいの頃から、それがほとんどなくなったなって、今気づいた」
おれがそう言うと、春佳は「やっぱり」と言った。
「なんで気付かなかったの」とたしなめられて「たいした理由とかはなくて、ほんの些細なことだったから」としかおれは返せなかった。傾いた日が窓の外から差して、まぶしさにすこしだけ視界がぼやけた。
「あ、やばい」と春佳が声をあげた。「はやくブッカー掛けを終わらせなきゃ」
そう言われて時計を見ると、委員会の終了時刻まで、あと二十分くらいしかない。作業の終わっていない本はお互いに一二冊くらいだから、時間の余裕がないわけではないけど、作業が遅くなって司書さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
おれたちは黙って作業に集中した。本とブッカーの位置を揃え、定規で押さえて均等に力を入れながら、台紙を剥がしてゆく。力の加減を間違えると気泡が入るから、保護フィルムを本にきれいに密着させるためには、慎重にやらなければいけない。
そうしているうちに時間は過ぎてゆき、今日の仕事は終わった。次は一週間後だ。
おれたちはふたり、図書室を後にした。まだ図書室は空いているが締めの作業は司書さんがしておいてくれる。すこしずつ夏に向かっている五月は、日の当たらない廊下でも、すこし汗ばみそうなくらいに暑かった。
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