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高度経済成長期に創業した喫茶店。そのカウンター席。ちょうど二代目マスターの影になり、入口のドアからは見えない、いちばん奥の席。いつもは他の常連客が座るその場所を、深石円花(ふかいしまどか)はもう三時間、占領していた。
「おかわり」
「もう四杯目だよ?晩御飯、食べられなくなるんじゃない?」
「今日は、いいんです。晩御飯なんて知りません」
「おや、家出娘だったか」
円花を彼女が十代の頃から知るマスターは、未だに円花を子供だと思っているらしい。
「はい。カフェオレ、どうぞ」
子供扱いは、相変わらずコーヒーをミルク無しでは飲めない自分への当てつけだとは、ひねくれた見方だろうか?
違う。コーヒー云々ではなく、家出をしておきながら、彼が探しに来てくれるだろう場所に居るのだから、自分はやっぱり、子供扱いされても仕方がないのだ。
彼、時津彦五郎(ときつひこごろう)は、円花からみて又従兄弟にあたる。
円花は子供の時分、毎年、盆と正月には母の帰省に付いて行った。そうして、母の実家に滞在中には、決まって祖父方の本家筋への挨拶にも付き合わされた。
その古く大きな日本家屋で、円花はその家の末っ子で全国的にも有名な進学校に通う高校生の彦五郎、通称「五郎さん」に出会った。その当時の彼は、細く白く、謎めいた美少年といった風で、しかし、人見知りしがちな幼い円花を誰よりも優しく気に掛けてくれた。
そう、彼は一言で言ってしまえば、円花の初恋の相手だった。その彦五郎は、大学生になり上京して以降、全く彼の実家に帰らなくなってしまった。円花は彼が学生結婚をして父親から勘当されたとか、有名な文学賞をとったとかいった噂を聞くばかりで、その後一度も彦五郎と会うことが無かった。
円花が彦五郎と再会したのは、今から六年前。彼が周りの反対を押し切ってまで結婚した妻を亡くした、二ヶ月後だった。
その年は、円花にとっても散々な時期だった。
春に商業高校を卒業し、保険会社に無事就職を決めたまでは良かったが、社会人としての初舞台で待ち受けていたのは、先輩社員の執拗ないびりだった。
配属された支店の古株社員であった彼女から、円花がいつ、何の恨みを買ったのかは知らない。だが、顔を合わせる度に嫌味を言われ、時に無視され陰口を叩かれ、仕舞いには業務を妨害された。
最初のうちは仕事が出来ない自分が悪いのだと耐えていた円花だったが、彼女のいびりにより自分だけでなく客にも迷惑をかけてしまう事態となり、流石に上司に状況の改善を要望した。しかし、上司は「彼女も悪い人ではないから」と先輩社員を擁護するばかりで、何も行動しようとはしなかった。
それでも毎朝、体の不調を感じつつ支店に通勤し続けていた円花だったが、ある朝、突然、駅のホームで通勤電車に向かうべき足が、動かなくなった。電車はホームに立ちすくむ円花を残し、発車した。
それから、円花は二度とその時刻、その方面に向かう電車には乗っていない。
会社を辞めて一ヶ月過ぎた頃、円花は母に、時津の五郎さんの家に家事を手伝いに行ってやってはどうかと言われた。最近、妻を亡くしたばかりの親戚のお兄さんが、六歳の女の子と三歳の男の子を抱え、途方に暮れているのだと。
抜け殻のような今の自分で初恋の人に会うことに少し気が引けはしたが、実家でただぼうっとしているより、少しは人の役に立つことをした方がまだましかと、円花は母に渡された洗剤やら雑巾やらを帆布のトートバッグに詰め、又従兄弟と彼の二人の子供が住むマンションを訪れた。
玄関チャイムを聞き六歳の少女が開けてくれたドアの先は、ゴミ屋敷と表現して差し支えない状態だった。そして、北向きに位置する書斎で、一心不乱にパソコンのキーボードを叩く男がいた。
彼は、髪も髭も伸ばし放題で、もう何日も、いや、何週間も風呂に入っていない様子だった。部屋は、棚から落ちた、または、あえて落としたと思われる本と書類で埋まり、住人の体臭で獣臭くなっていた。
この家を、なんとかしてやらなければ。十八歳の円花は、強く、そう思った。
それから、六年経った。
当初は週に二、三回、通いで洗濯や掃除といった家事仕事をするだけの予定だったが、悲惨な現状を知った円花は住み込みで朝から晩まで、全ての家事を担うことを決めた。家事だけではなく、子供に関連する用事もほぼ円花が担当した。幼稚園や学校の行事、定期健診、宿題もみてやり、悩みごとの相談にも乗った。
そう、六年だ。六年間、実家にも殆ど帰ることなく、彦五郎の家で、彼と、彼の子供たちと、生活を共にした。妻を、母親を亡くした親子が絶望的な状況から立ち直ったのは、何より本人たちの頑張り、そして、時の流れによる癒しの成果だとは思う。しかし、自分だって少しは時津親子の力になれたのだという自負が、円花にはあった。それなのに…
「おかわり」
「五杯目…」
マスターの呆れた目が、少し、痛い。しかし、飲まなければやっていられない。カフェオレだけど。
書斎に入ってはならないとは、前々から言われていた。
それは、円花が時津家にやって来る以前からの決まりごとで、普段遠慮のない子供たちも、父親に用がある時には部屋の外から呼びかけはするが、決して彼の書斎に入ることはない。唯一、聖域に入ることを許され、むしろ積極的に招き入れられていたのは、小説家の創作の最大の理解者であった妻だけだった。
円花も彦五郎の仕事場に入ったのは、最も部屋も部屋の主も荒れていたところから、ようやく立ち直りかけてきた頃に大掃除を敢行した一度だけで、それ以来、足を踏み入れてはいなかった。
だが、たまに、ドアの隙間から中を覗くことはあった。毎日換気はしているらしく、匂いが籠っている様子はなかったが、床には足の踏み場もないほど書籍や紙束が積まれ、丸められた紙も無数に転がっていた。その惨状を見るたび、綺麗好き、と言うよりは掃除好きの円花にはうずうずとこみ上げてくるものがあったが、家長の唯一と言っていい言い付けを破るわけにはいかず、衝動を抑え、見て見ぬふりをした。
それが、なぜだか今日は我慢ができなかった。
夕方、彦五郎が散歩に出掛けた後、畳み終えた洗濯物を子供たちの部屋に運ぶ途中の廊下で、書斎のドアの隙間から部屋の中の様子が見えた。相変わらずの、散らかった床。しかし、いつもと比べて、書き損じのぐしゃぐしゃの紙の数がより多い気がした。
大切な本や書類を勝手に触られ片付けられては気分を害するだろうし不都合なことも起こり得るが、ゴミと化したものをゴミ箱に入れてやるだけなら困ることもないだろう。
円花は締め切ったカーテンのせいで暗い部屋の照明を点け、書斎に入ると、机の脇に見つけたゴミ箱を抱え持ち、書き損じの紙をそれに入れていった。機械的に拾っては入れ拾っては入れの作業を繰り返していたが、いつもは遠目で見ることだけしか許されない創作の現場である。ふと、丸まった紙の内側に何がしたためられているのか、気になった。
彦五郎の書く小説は、やや通向きの内容で、円花には少々難解なものだった。どころか、作者には告白していないが実は、円花が完読できた作品はこれまで一作もなかった。そんな自分だからして、大先生の草稿を読んだところで何かわかることもないだろう。それでも読んでみたくなったのは、遠くに感じてしまう仕事中の彦五郎に、少しでも近付きたいという欲があったからだろう。
円花は、新たに手に取った球状の紙を、両手でほぐし、のばしていった。その紙には縦書きで右上に一行だけ、ほんの四文字だけ書いてあった。
「何してるんだ」
彦五郎の足音は、いつもとても静かだ。円花はよく、台所で料理をしている時など、いつの間にか彼に背後に立たれていて驚いてしまったりする。本人は無意識らしく、思春期に入りかけている娘には、「お父さんキモい!」などと文句を言われ、よく落ち込んでいる。
だから、散歩に出た彼が帰ってきた気配に、円花は全く気付いていなかった。
「何、勝手に読んでるんだ」
彦五郎が怒った顔を見たのはいつ振りだろうと、円花は記憶を手繰った。いつ振りもなにも無かった。父親として子供たちを叱ることはあっても、彼が目を見開き口を戦慄かせるなんて姿は、初めて見た。
円花は本気で彦五郎を怖いと思った。そうして、自分が恥ずかしい行為をしたのだと感じ、彼の顔から目を逸らしたかった。しかし、それが出来なかった。
「出て行け。すぐに」
円花は言われた通りにした。書斎を出て、それから、上着を着ると、玄関を出て行った。
といった経緯で、現在に至る。
彦五郎の「出て行け」とは、書斎から、だったのか、この家から、という意味だったのか。ろくに考えもせず聞きもせずに、ただ怒る相手の前から逃げた円花は、この街に来て彦五郎に教えて貰って以来、常連となった喫茶店でただ、カフェオレばかりを飲んでいる。五杯も。
着て出たコートのポケットに、財布は入っていたが、スマートフォンは無かった。しかし、たとえあったとして、彦五郎が円花の番号に電話をかけてくれたかどうかは怪しい。
いよいよ終わりかもしれないと、円花は思った。
数年前であれば、こんな風に怒られたとしても、夕飯の用意もせずに家を飛び出すなんてことは、しなかっただろう。だが、二人の子供は今、上が小学校高学年、下は中学年になっている。姉弟は、インスタントやらレトルトやらの食品を食べるなり、弁当を買ってくるなりして、自分たちで充分、食事を済ませられる。二人とも、もう、円花がいなくたって、そんなには困りはしないのだ。
そうして、最近急に、彦五郎は円花によそよそしくなった。それまでが特別馴れ馴れしかったというわけでもなかったが、しかし、以前と比べると子供が一緒の時以外の会話が、格段に減った。
子供たちが四六時中見守らなければならない齢ではなくなった今、住み込みの家政婦など必要ない。そして、今回の、自分が引き起こした書斎侵入事件だ。クビ決定だ。
いや、しかし、言いつけを破らなかったとしても、彦五郎は既に円花を家から追い出すことを決めていたのだろう。その証拠は、あの、書き損じの紙だ。紙には、「円花さま」とだけ書かれていた。あれは、円花に出て行ってもらいたいという内容の手紙の宛て名だったのだろう。
円花は二十四歳という自分の年齢を思った。時津家から追い出され実家に帰ったとして、また事務職の口を探すか、それとも、結婚を勧められたりするのだろうか。
円花は二年前に、二度だけデートをした相手のことをふと、思い出した。高校時代の友達から紹介された彼は、白くて細かった若い頃の彦五郎にタイプが似ていた。要するに、円花の好みの雰囲気の男性だった。しかし、二回だけ会って、やはり違うのだと感じ、それ以降は連絡をとらなかった。
どうせ結婚することになるなら、あの彼とだったら、いくらかましだっただろうか。そこまで考えて、急に馬鹿馬鹿しくなってきた円花は、五杯分のカフェオレ代を頭の中で計算し始めた。
少し前まで、こっそり彦五郎が迎えに来てくれるのを待っていた。もし、来てもらえなかったとしても、気持ちが落ち着いたらマンションに戻ろうとも考えていた。
しかし今、気持ちが落ち着いてきた今、円花は自分の実家に帰ることを決めた。これから喫茶店を出て駅に向かい、実家に着いたら、そこから彦五郎に電話をする。その電話で実家に戻ることを伝え、荷物は翌日以降に引き取りに行くと話をつける。そこまで脳内シミュレーション済ませ、やはりスマートフォンだけは持ってマンションを出るべきだったと、円花は今更ながらに後悔した。
喫茶店のドアベルが鳴るのが聞こえた。店を出るのは、入って来た客の注文が終わってからにしようと、円花がカウンターの様子に聞き耳を立てていると、見覚えのあるコートの生地が音も無く彼女の視界に映り込んだ。
円花の座る席のすぐ傍に、細くない、謎めいてもいない、特に美しくもない、ただ、肌はやたらと色白の男性が立っていた。それが、現在の彦五郎だった。
「何してんの」
「…カフェオレ、飲んでた」
もう少し前に来てくれていたら、円花はばつの悪さを感じつつも、素直に喜んだことだろう。しかし、時津家を出ると決意した今、もう顔を見ずに電話で話を済ましてしまおうと考えていた相手が目の前にいるというのは、どうにも、気拙い。
「灯(あかり)ちゃんと櫂(かい)くん、夕飯食べた?」
そうして、最近のお約束通り、子供たちに関する話に逃げた。
「食べた。レトルトカレー。ご飯レンジにかけて、食べてた」
「あ、そう。じゃあ、大丈夫だね」
円花は、放棄してきた義務から、解放された気になった。
「大丈夫じゃない」
「ちゃんと食べたんでしょ?二人とも」
「俺が食べてない」
「五郎さん……」
大人なんだから、と続くことは、言われなくてもわかるだろう。彦五郎は、レトルトカレーを暖め食べる家事能力すらない。長女の灯はわかっているだろうに、最近、父親を避けて面倒を見てやろうとしないし、長男の櫂は人の食事を用意してやろうという気遣いを鼻から持ち合わせていない。困った親子だ。
「ちゃんとしてよ。これからは三人になるんだから」
「えっ?」
つい出してしまった言葉は、戻ることはない。しかし、何のことかと聞き返されることもなく、しばし沈黙が流れた。
「あの、円花ちゃん。これ、読んでほしい」
彦五郎がおもむろにコートのポケットから出したのは、よくある事務用の長四封筒だった。それを見た途端、円花は自分の体温が一瞬で三度は下がったような気になったが、どうということもないといった顔と声を装い、答えた。
「いらない。書いてある内容なら、わかってるから」
「…やっぱり、読んだんだ。その、……ごめん。おばさんにも、なんて言ったらいいか」
「気にしなくていいよ。私が決めて、それで住んでたんだから。六年間、お世話になりました」
円花は立っている彦五郎に向かって頭をぴょこんと下げると、背もたれに掛けていたコートに袖を通し、カウンター席から降りようとした。
「今夜から、実家の方に帰るから。でもとりあえず、スマホやら身の回りのもの持ってくのに、一旦マンションに戻らせて。他の荷物はおいおいってことで。子供たちには…別に会えなくなるってわけじゃないし、特に挨拶とかしなくてもいっか…」
「ごめん、ちょっと待ってちょっと待って」
円花は彦五郎に肩を押さえられ、椅子に座り直させられた。
「えーっと、その、俺、振られたってことで、いいの?」
「は?」
「ごめん、その、どうにも察しが悪くて…」
「その封筒、渡して」
円花がずいっと手のひらを彦五郎に向けて出すと、彦五郎はおそるおそる、といった様子で封筒を彼女の手の上に載せた。円花は、両手で封筒を掴むと、それをまじまじと凝視した。もちろん、彼女には透視の才能なんて無かった。
「これ、私に出て行けって内容の、手紙?」
「……何言ってんの。これはラ…」
口を「あ」の形に開けたまま、彦五郎は二時の方向に顔を向けた。彼の視線の先には、グラスを拭きながらニヤニヤと二人を横目で見るマスターの姿があった。
「…ここじゃなんだし、一回、家帰ろうか。マスター、お会計」
カフェオレ五杯分の金額に彦五郎が多少驚く気配を薄く感じたものの、円花には足に触れる床の感覚も、暖房の効いた店内の空気も、なんだかフワフワとして、遠い世界のもののような気がした。
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