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*あいことば*
いつも危ない橋を渡るとき、この覚悟をする瞬間がある。
ここで引き返すわけにはいかない、と。
そう。もうひとりの自分の心配をよそに、私は、覚悟を決めてこの時、ある言葉を彼に投げたんだった。
それは、この怪しいバイト案件にワンクリックで応募した後、ためらいもなくLINEで友だち登録をし、届いたトーク履歴に記されていた合言葉。彼にしか聞こえない程の小さな声で私は言った。
「プラン」。
・・・そして。彼の艶めいた唇から低い声で発された、その発音は、
「ビー」。
合言葉はピタリと合致した。
その瞬間、胸がドクン!と大きく波打った。
や、やっちゃった・・・。
ドクンドクン。
ちょっと、冷や汗でそう・・・。
最初からそのつもりで来たんだから、合言葉がぴったり合って、おかしいことなんて何もないのに!
この仕事を申し込むとき、青く光るPC画面の申込タブをドキドキしながらクリックしたことが脳裏に浮かんだ。LINEトーク履歴を見て思った。
合言葉なんてあるんだ、へー。
その言葉が、「Plan」そして「B」だった。この合言葉がピタリと合ったそのとき、この予想もつかないドラマが幕を開けたのだった。
それはすなわち、もう引き返せないということを意味してた。100万円がかかった謎めいた案件─。
彼のサングラスの奥の眼差しは、はたして、獲物を狙う爬虫類のように細くギラつき、そしてそこには恐怖しかない、そのはず、だった。
でも、実際のところ、爬虫類とすればとんでもなく美しい爬虫類だ。しかも、恐怖心が全く沸いてこない。
それどころか、嬉しさ?で笑い転げそうな自分がいた。
ふふふふふ。
このシチュエーション、いっそ楽しんでみるのもいいかもしれない?こんなにたくさんの女たちがいるのに、私だけこの素敵な彼を独占できる、ってことじゃない?
・・・って、なんてこと考えてるの私!と、呆れながらも、次の瞬間、そんな自分自身をすんなりと受け入れてた。
きっと、もう堕ちていたんだ、その時すでに。そう、あの彼に。今ならわかる‥でもあの時は。私のちっぽけなプライドで芽生えた恋心はモヤモヤと隠されてた。100万が欲しいわけじゃないけど、昨日までの嫌なことは全部忘れてしまおう、人生最期なら楽しんでしまおう!そんな、陳腐でどこか言い訳じみた開き直りの心境を自分に許してしまってた。
今思えば、全ては、あの彼の魅力のせい―。人のせいにするのは好きじゃないけど、抗えない運命の輪がゆっくりと回り始めてた。
そんな私の熱い胸の内など、知りもしない彼は無言のまま、サングラスの奥から目配せをしたようだった。私は、こわごわながらも、コクッ・・とうなづいた。彼は無表情のまま歩き始め、私も一歩下がって歩き始めた。
・・・こうして、私たちは、その時から「ふたり」になった。あの、合言葉を発した時の覚悟を伴う瞬間は、あっさりと超えられた。戸惑いなど、私の胸にはどこにもなかった。当たり前のように、「ふたり」並んで歩き、何も話すこともないまま、外国人の多い通りの人混みの中に消えた一。
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