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*エスケープ*
彼は、まるでトランシーバを取り出すみたいに、サッと事務的に耳に当て話し始めた。その言葉は異国のもので全く意味がわからなかった。中国語のようだがちょっと違う。外国語は多少覚えがあるのに、そんな私にもわからない言語。大学で世界史を学び海外を飛び回った過去の経験も役に立たず。歳月が経ったせいかそれとも、早口すぎるせいなのか。彼の話す言葉が何語なのかは判別できなかった。
そして彼は流暢に、私の知らない言語を操り、刑事みたいな動作でスマホを内ポケットに隠した。
そしてまた無言になった。
掴みどころのないことこの上ない。あなたは、何処から来たの?何歳なの?どんなストーリーを持ってる人なの?好奇心がムクムクと沸き上がる。
でも、こんな普通の質問、100万円の仕事を依頼してくる男に、聞くことじゃあない。どんな人生でしたか、なんて聞くのは勿論ヤボすぎるけど。どこの出身ですか?この質問もあり得ない。彼女いる?これもヘン。好きな食べ物は?これも、小学生じゃあるまいし・・。何から聞いたらいいのかわからなかった。でも、いちばん聞きたいのは。何故、こんなことしてるの?何故、ここにいるの?ってことかもしれなかった。
まぁ、これだけの容姿なら、女を相手にする仕事にうってつけだろうし。街のヤクザの手下か何かと考えるのが妥当だろう。この予想はおそらく、かなり的中に近いんじゃないか。まるでシャーロックホームズ気取りで推理する。
もし、この推理が当たってるとすれば・・・。
私は、この美しい彼に騙されホイホイついて行って、終いには血も涙もないチンピラの末端に身柄を渡され、IDを奪われて、麻薬漬けにでもされるのか?!怖い怖い‥そんなの嫌だ。そして推理は、終・了。ドヨーン。暗い気持ちになってしまう。
・・・でも、この彼が、チンピラの手下だとしても、そんなことと知ってて私を呼んだのか?
歩き始めてからずっと、あまりジロジロ見つめるのも恥ずかしい気がして、彼のこと、まともに見つめられなかった。でも、この彼は本当はどういう人なんだろうと、確かめずにはいられない気持ちになる。そしてドキドキしながら顔を上げてもう一度、彼の横顔を見た‥見てしまった。
私を罠にかけるために待ち合わせ場所に現れた、かもしれない彼の横顔は、サングラスの奥の瞳は美しい二重で、長いフサフサのまつ毛がその美しさを物語っていて・・・二度目は舐めるように見つめてしまった・・。
スッと通った鼻筋も、なめらかな唇も、世界の美しい顔ランキングに絶対に入っていそうなレベルで、端正そのものだった。
もう、私の目は彼の美しい横顔に釘付けになり、その一方で好きになってはいけないと、そして、このまま見つめていたい気持ちとが交互に押し寄せ一随分忘れかけていた胸騒ぎが巻き起こっていた。台風に揺れる木のようにゴォゴォ音を立て‥アラサーの私の心は、もしかしたらこれが、最後の恋かもしれない、と瞬間的に感じて、大揺れに揺れてた。
見つめすぎて、私どんな顔になってたんだろう。
彼が急に、私の顔を見たのだった。
ドキッ。無の表情。
ゾクッ!カッコよすぎて怖い。
ひとりで顔から火を吹きそうに赤面していると、彼はトランシーバーみたいな携帯を胸ポケットにしまい、黙って私の手を掴んだ。
そして、グイッと手を強く引いたまま走り出した。
手を、握られて。・・・息が上がる。
「ちょっ、ちょっと‥」私は引きずられるように走り続けた。細い路地に続く通りの角を曲がり、彼はピタリと走りを止めた。
手は繋いだまま。しっとりと温かい彼の手に全神経が集中してしまう。
走ってきた道を真剣に見つめる彼。私は、息を殺して自販機にもたれた。まるで刑事ドラマみたい。スリリングすぎ!
ドクン、ドクン。心臓の音が大きすぎて彼に聞こえそう。何?もしかしてこの人追われてるの?大丈夫?!
自分のことより、さっき出会ったばかりの男のことを心配していた。
私ってこんな女だったかな‥こんな気持ちはもちろん生まれて初めて。
ハァハァと激しく息をしそうになるのをこらえて胸が詰まりそう。何故か切なさが押し寄せて来て、目が涙で霞む。きっと、私はもとの生活には戻れない‥生きていればの話だけど。なのにそれが怖いのではない。まぁ元の生活なんて戻りたくもないし。ただ、この彼と今こうして一緒にいる瞬間が貴重に思えたのだ。馬鹿な女の真骨頂とはこのこと。
彼は耳に手を当て、何かゴニョゴニョと話している。独り言?イヤホン?‥すると、急に私の顔を覗き込んでこう言った。
planA「遊園地、行こう」(long ver.)
planB「カラオケ、行く?」(short ver.)
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