プレビュー

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「小柴先生、例の『アウフタクト』――メディアミックスが決まりましたよ。映画化です」  編集の朝霧さんから連絡を受けたのは、夕方のスーパーで買い物をしている最中のことだった。朝霧さんは上機嫌でお惣菜売り場から流れてくるメロディーをハミングしながら、絶句する私に「大丈夫ですかー?」と浮ついた声で尋ねてきた。 「心臓止まるかと思いました。死にそうです」 「まだこんなもんじゃありませんよ。多分これからもっと死にますよ」  ――勘弁して欲しい。帰ってから、せめて車の中で聞かせてもらえはしないだろうか。  足元では私の手から落ちた大根が割れており、見兼ねた青果部門の担当者がバックヤードからタオルを持ってきて拭いてくれている。申し訳ないけれど私はそれどころではなく、電話を持つ手の震えを抑えるので必死だった。 「聞いて驚かないでください――なんと、主演はあの帯刀依斉(たてわきよりひと)です。ヨリヒト役に依斉が――って、絶対話題になりますよ」  成る程、足から力が抜けるってこういう感じか。  妙に俯瞰的な感想を抱きながら、私は大根の散らばる床に膝から崩れ落ちた。青果担当者がぎょっとして何やら叫んでいる。お客様、とサービスカウンターから年配の店員が血相を変えて飛んできて――そこから自分がどうやって帰ったのか、まったくの自信がない。 「あの、小柴さん? 小柴先生――?」  ただ、軽くなった財布の中身と日時のしっかり印字されたレシートだけが、あの日のことは夢でも幻でもない事実であると裏付けていた。 「おはようございます」  後日――製作陣の顔合わせがあるというので朝霧さんに連れられて貸しスタジオに入ると、すれ違う人が皆口々にそう挨拶をしてきた。今は昼過ぎのはずだけれど、と頭をひねっていたら、朝霧さんに小声で「今が朝の人もいるから」と耳打ちされた。いつもなら私もさっき起きたばかりだと軽口を叩くところだが、不慣れな場で心臓が縮み上がり、とてもじゃないが冗談を飛ばす余裕なんてなかった。 「小柴先生――先、お手洗い行ってきたらどうですか」  緊張すると近くなるのを気遣ってか、編集に言われるままに無機質な細い廊下へと逃げ込む。  喫煙所の前を通ると、くたびれたジャケットを羽織った不精な男性と、資料と思しきA4サイズの紙を丸めた男性が談笑していた。私が前を通っても特に気に留める様子はなく、廊下の先まで聞こえそうなくらいのボリュームで嗄れた喉を鳴らして笑い合っている。 「しかしねぇ――主演、あんなで大丈夫なの」 「舞台俳優ですよね。結構人気もあって、座長もいくつか務めているみたいですけど――」 「舞台っていっても、コスプレ舞台でしょう。映画だとまたかってが違うだろうし、脇は結構ベテランで固めてるみたいだけれど、食われちゃわないか心配だね」  コスプレ舞台――軽んじるようないやらしい口調に思わずムッとして、喫煙所を通り過ぎた後にすぐさま壁に張りついた。  今度映画化の決まった『アウフタクト』は、まさにコスプレ舞台と揶揄された、二次元作品を原作とする舞台に多く出演している俳優を主人公に据えた恋愛小説だ。朝霧さんからそういうファン層にウケているとも聞いているし、こういう実写化の動きが出た時にそういう役者が起用されるのは、話題性を考えても当たり前っちゃあ当たり前の話で。 「いわゆる2.5次元俳優ですね。いい子は特撮から人気に火がついたり、一般舞台の方に進出しているみたいですけど。ほら、安宅さんの娘さんが好きな――志水君でしたっけ。あの子も、元は漫画原作の舞台の端役出身ですよ」 「ええ、あの子――お料理戦隊スイハンジャーのレッドじゃなかったの?」 「ですから、それよりもうんと昔の話です。ついでにスイハンブルーは最近よく見る山田裕伸さんですよ」 「嘘ぉ」  けれど、原作者としては“本物の舞台俳優”に演じられるのが怖くもあった。なぜなら――あれはすべて、いや、“ほぼ“想像で書いたものだから。こんなんじゃねえよ、と思いながら演じてほしくない。……とはいっても、あの作品は応募した時から既に私の手を離れてしまっているので、たとえ原作者といえどキャスティングに何の意見も言えないのだが。 「ああ、そろそろ行かないと」  ゴソゴソと忙しない音がしてきたので、慌てて女子トイレに隠れる。やばい、私もはやく行かないと。 「わっ」 「えっ――」  きゃっ――と上げそうになった悲鳴が、横向きになった手のひらで押しつぶされた。  驚くのも無理はない、女子トイレから男の人が出てきたのだ。それも、いきなり顔の大半を覆われて。視界の端で赤いサンダルが乱れているのが辛うじて確認できるくらいで、相手の顔はおろか、服装でさえもろくに見えなかった。 「ごめんなさい。でも俺、洋式じゃないとダメなんだ」  けれど、そう早口で捲し立てた声だけはばっちりと聞こえてきた。特徴のない、そのくせ微妙に舌っ足らずな話声。誰の声に似ているとも言い難く、表現し難いその声は却って消去法で誰だかすぐにピンときた。  抵抗するのをやめると、彼は私を残してさっさと女子トイレから出ていってしまった。いや、いつまでも居られたって困るんだけれど。 「あっ。先生、もう始まってますよ」  急いでトイレから戻ると、朝霧さんに呆れた顔をされた。よりにもよってこういう時にトイレロールが補充されていなかったのだ。むしろちゃんと設置して帰ってきた私を褒めてほしいくらいである。しかも、私が使ったのも奥にひとつしかない洋式の個室だから、全てはトイレロールを補充していかなかったあの男が悪いことになる。 「次、主人公ヨリヒト役の帯刀依斉さんです」 「はじめまして、帯刀依斉と申します。こんな、名実共に力のある役者さんに囲まれての仕事は初めてです。皆さんの胸を借りるというか、たくさん勉強させて頂くつもりで、若輩者ですが頑張っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします」  まばらに拍手が響いて、挨拶を終えた彼が腰を下ろす。見ると、先ほど喫煙所にいた初老の男性が腕を組んでふんぞり返りながら、気まずそうに居直る彼を見下ろしていた。  一通りの挨拶が終わってから、最後に朝霧さんがゲストとして紹介された。彼は私のすぐ隣でパイプ椅子から立ち上がり、ヘコヘコとへりくだりながら冗談をかましている。 「えー……それでですね。今回は、顔合わせということで、サプライズですが原作者の小柴ちなつ先生にも来ていただきました」  朝霧さんに紹介されて嫌々立ち上がると、ええっ、とスタジオ内がざわめいた。そりゃそうだろう、だって私は――。  ガタリ、と主演のパイプ椅子が音を立てた。 「え――こ、小柴先生といえば、あの――覆面作家で有名な方ですよね」  そう声を上げたのは、喫煙所にいたもう一人の男性だ。 「この子が――」 「何か?」  私が問いかけると、彼はにこやかな笑顔を浮かべた。 「いやぁ、お若い上に、その――才色兼備といいますか、随分とお綺麗な方だなぁと」  暗に、見た目も合わせて売ればもっと話題になるとでも言いたいのだろう。現に顔も年齢も非公表のせいかファンレターでは三十代や四十代、果ては還暦過ぎの方から同年代と思われている事も多い。でもそれはなんというか、私にしてみれば渡りに船で――願ったり叶ったりだった。 「小柴先生は、そのぅ……色々難しい方でして。当初は映画化自体にも難色を示されていたくらいで。ですが、彼女がこうして姿を見せた以上、花栄社(かえいしゃ)は――原作側は本気です。本日は、その意向を示すために彼女を連れて参りました」 「拙作の至らない部分は承知の上で、作品内で表しきれていないような登場人物の設定ですとか、伝えきれていないであろう部分の補完に際しては協力を惜しみません。どのような事でもお尋ねください」  もとより、この作品には監修として携わることになっていた。但し、覆面作家という事もあって、現場に顔を出すとは誰も――監督やプロデューサーでさえ夢にも思わなかったに違いない。そこを序盤からひっくり返したのは他でもない、原作を蔑ろにして適当な代物を作らせたりはしないぞ、という朝霧さんが講じた策である。無論、映画化に難色を示したというのもポーズに過ぎない。 「小柴先生は現在新作をご執筆中でして、あまり現場には顔を出せませんが――連絡でしたら花栄社を通していただければいつでも可能ですので」  ポーズ、とはいえ――『アウフタクト』以降いまひとつパッとしないこちらとしては、生半可な映画化で作品を潰されちゃあ困るのだ。再起を図るというわけではないが、映画の発表と同時に新作を発表、そして放映と同時に更なるタイトルを――と、こちらはこちらで画策している部分もある。  こちらの宣戦布告を監督は他人事のように目を伏せて聞き流し、脚本家は笑顔を引き攣らせていた。覆面作家の正体に好奇の目を向ける以外は、ヒロイン役の若手は安堵したように目を瞬いており、その隣の主演は真っ青になりながら私の顎のあたりを見つめていた。 「あの――」  顔合わせの後、簡単に打ち合わせがあるというので朝霧さんと共に一足早くスタジオを出ると、あの後ずっと思いつめたような表情で俯いていた彼が追いかけてきた。 「すみませんでした。俺――」 「……何の話ですか?」  少し冷たい言い方だったかもしれないが、こちらとしてはもう気にしていない。 「いや、でもあの、さっきトイレで。時間ないのに洋式埋まってて――」 「別にいいです」  朝霧さんが落ち窪んだ瞼をめいっぱい開いて彼を見遣る。 「どうかされたんですか?」 「いえ、何も」  行きましょう、と彼に背中を向ける。コートの背中に通したベルトのバックルがややずれているような気がしたが、ここで直すのもなんだか忍びないのでそのまま廊下を踏み出した。 「あの、俺――小説原作のお芝居って初めてで。『アウフタクト』はオファーもらうまで読んだことなかったんですけど、スゲー面白くて。ヨリヒト役はマネージャーとか、スタッフさんとかからもまるで当て書きだなんて言われてますけど――でも、それに甘えちゃわないように、ちゃんと頑張るんで」 「……ちゃんとって、何ですか」  流石舞台俳優というべきか、些か声が大き過ぎる。彼の残響は私を通り過ぎて、廊下のつき当たりへとぶつかった。  ――振り返るのが少し怖い。真横にはちょうどトイレへと通じる細い廊下が伸びていて、そちら側へ視線を向けるように首を捻った。視界の端に、彼の足元だけが見えている。けれども、ボリュームの出てきたボブに阻まれて腹から上を見ることはできなかった。 「……当て書きなんかじゃないです」  帰り道、朝霧さんが気を利かせて遅めの昼食に誘ってくれた。ワッフルの製造メーカーがあるビルの一階に併設されたカフェで、サラダ菜やスクランブルエッグの乗ったランチプレートを食べつつ、朝霧さんが顔合わせを振り返りながら監督や初老の俳優の真似をしてみせる。 「……やっぱり、主演は彼じゃ不満?」 「いえ、そんな事は」  朝霧さんから初めて映画化の報せを受けた時、私は震える声で「小林裕伸(こばやしひろのぶ)じゃダメなんですか」と聞いたらしい。小林裕伸というのは帯刀依斉の大先輩にあたる古株(まだ若いけど)的な存在で、ネームバリューとしても申し分なく、むしろ彼を差し置いて帯刀を一般映画へ出演させる方がチグハグ、ともいえる相手だ。 「だって、彼のほうが演技も安定しているじゃないですか」  帯刀より、という言葉は敢えて飲み込んで、小林裕伸がいかに憑依型であり七色の顔を見せるかを説く。 「相変わらず詳しいねえ、本当に興味ないの?」 「こんなの、ネットの記事で得た知識を並べただけです。コバヒロは人気がありますけど、顔自体は別に可もなく不可もなくって感じで」  演技の善し悪しだって正直なところよくわからない。ただ、確かに浮世離れした落ち着きを持ち合わせている部分があって、そういうのが二次元のキャラクターに適っているとは思うが。 「ワッキーは? 彼、ファンサはエグいらしいけど目立った炎上騒ぎとかもしないし、僕としては危なっかしい発言とかもないから安心だと思うんだけど」 「それは、まあ……」  朝霧さんも少なからず調べたのであろう。だが、舞台俳優の炎上騒ぎなんて元を辿れば私的な怨恨か、心無い相手によるリベンジポルノみたいなものだ。彼が火遊びをしていないというよりは、標的にされていないだけである。誰しも、叩けばいつホコリが出てもおかしくはない。それに火を点け煙を立たせるのがネットの悪いところだけれど。 「それに――確か彼、スタビライザーで小柴さんの推しをやってなかったっけ」 「……あんまり。中性的で可愛らしいとは思いますけど、それだけですね」  解釈違いだった。そう伝えると、朝霧さんは唇をキュッと持ち上げて熱と油分でくたびれたサラダ菜でケチャップの残りを拭き取るようにフォークを動かし、皿を空にした。         *    顔合わせ以来何も音沙汰がないまま淡々と日ばかりが過ぎて、ようやく新作の執筆に集中し始めていた頃、朝霧さんから連絡があった。脚本があがったのでチェックをしてほしいという。 「台詞とかは基本変えていないはずだけれど、細かい動きとか気になるところがあったら言ってください」  データで送付されてきた台本に軽く目を通しながら、凝り固まった肩を指圧する。 「それと、演者さんから何人かお話を伺いたいと連絡が来ておりまして。ヒロイン役の仲瀬さんと容莉枝役の石田さん、それから主演の帯刀さんからもご相談があるとかで」  朝霧さんから彼の名前を出されて若干胸がざわめいた。考えないようにしていたのに――それでも、あんな大見得を切っておいて、今更放置する訳にはいかない。とりあえず三者とも要件をメールか何かでまとめてもらうことにして、朝霧さんを通じ文面でのやり取りをする事にした。ヘタに話すよりも文字に起こす方がちゃんと意図が伝わるので、こちらとしてはその方が助かる。  ――ちゃんとって、何ですか。  自分で言っておいてなんだが、実は結構自身の胸にも刺さっていた。ちゃんとって何だろう。きっちりこなせることがちゃんとなら、質は二の次なのだろうか。私の書いてきた物語ってベストセラーと何が違うんだろう。最後まで書ききれていなくても中身は負けていなかったはずなのに――書き切った途端にどうしようもなく綻んで、綻びを直そうとすればするほど拙いものになっていく。  ……恋愛小説から離れた方がいいのかな。  そんな思いがふと脳裏を掠めては、じゃあ他に何が書けるんだと頭を振る。取材もろくにせず、自分の内側だけで書いているのを手酷く扱き下ろされた時もあった。けれど朝霧さんは、彼だけはその“私の内側”をもっと見せて欲しいと言ってくれたのだ。 「わかりました。それで先方には返事をしてみます。場合によっては、僕が聞き取りをして先生に書面でお渡しするかたちになるかと思いますが」 「それで結構です」 「それはそうと――どうですか新作の方は」   進捗を聞かれて、思わず口を噤んだ。実は、次の話は設定など何もかもを彼には伏せている。まず書いて、それから二人で一緒に捏ねくり回したい――そう、お願いしてあった。 「来月にはあがると思います」 「小柴先生は筆さえ乗れば早いですからね。そのエンジンを駆けるまでが大変なんですけど」 「それは……ごめんなさい」  朝霧さんはいやいや、とはしゃいだ声を出して、それから誰かに声を掛けられ電話を切った。私は、以前は冗談なんかてんで言えなくって、必死にコミュニケーションをとろうとボケ倒す朝霧さんの苦労をいつも台無しにしていた。 「まったく、ボケ殺しもいいところですよ」  そう言いながらも、『アウフタクト』でのデビューからこれまで二人三脚でやってきた。朝霧さんの足には、きっと私以外のいろんな作家の紐が括りつけられているんだろうけど、私にはこの人しかいない。『アウフタクト』にだって彼との大事な思い出がたくさん詰まっている。  一度お湯を沸かしに席を立ってから、再び送られてきたデータに目を通す。赤、入れたいけれど――ちまちまとテキストボックスを挿入するのが地味に面倒くさい。やはりこういうのは紙に限る――私は充電器が挿しっぱなしになっているスマホを引っ張ってきて、メールの履歴から朝霧さんの名前をタップした。 「小柴先生、お待たせしてすみません」  あくる日の夕方。朝霧さんから連絡をもらって出版社まで出向くと、新入りと思しき眼鏡の男性にパーテーションで区切られた一角まで案内された。それから二十分ほど待たされて、ようやく朝霧さんが顔を出す。ホストクラブってこんな感じなのかなあ。いや、違うか。 「はい、これ。紙の台本です」  朝霧さんは相変わらず気さくな笑顔で私のわがままに応えてくれた。宛名を消して使い回された封筒に入った台本を受け取って、オフィス用のバッグにしまい込む。 「あの、このあと時間ありませんか? 実は次回作の事で少しご相談があって――」 「えっ、今日ですか?」  思いきって切り出すと、朝霧さんは申し訳なさそうに壁の時計を探して仕事があると零した。 「そう、ですよね――すみません、お忙しいのに台本取りに行ってもらっちゃって」 「いえ……」  予定はとっくに確認し終えたというのに、それでも朝霧さんは頻りに時間を気にしている。 「――では来週の火曜、八時からということで」  それでも彼は代替の日取りを提示してくれて、緩やかに生きた心地が戻ってきた。 「ではそろそろ失礼して――すみません、本当は下までお見送りしたいんですけど何ぶんこの後会議がありまして」 「いえ、そんな。お構いなく」  コートに袖を通して鞄を持ち上げるのを待ってから、ようやく彼はパーテーションの外へと促した。 「それではまた、火曜日に」 「ええ――」 「あ、朝霧さん!」  その時ちょうどエレベーターホールからチン、と鐘みたいな音がして人が降りてきた。ベージュのジャケットに地味な色のニットを着た若い男の人が朝霧さんに向かって手を挙げる。朝霧さんは一瞬、マズイといった表情を浮かべて、私をパーテーションの中へ引き戻そうとした。 「――え、ウソ。待って、小柴先生?」  思わず振り返ろうとする私に、朝霧さんが「あっ」と小さく声を上げる。  そこには、帯刀依斉がいた。 「よかった――ずっと会わせて欲しいって頼んでいたんです。ね、朝霧さん?」  嬉しそうに綻んでいる帯刀から目線を外して振り返ると、朝霧さんは気まずそうに「いやあ」と濁した。 「帯刀さん。前にも言いましたが、こういうのは事前にご連絡頂かないと――」 「約束の時間を決めたって、稽古が延びてしまう日もありますから。それに休みの日は出版社だってお休みじゃないですか」  帯刀は強引に私たちを押し込んで、先ほど朝霧さんが座っていた椅子に腰を下ろす。 「帯刀さん。本当に申し訳ないのですが――私、この後打ち合わせがあるんです」 「構いません、彼女と打ち合わせができれば大丈夫なので。ね、小柴先生?」 「えっ、と――」 「ああ、先生このあと時間あるって言ってましたよね。すみませんが、それじゃあ私はこれで」  ――裏切り者!  朝霧さんは狭い机と仕切りの間をするりと通り抜けて編集部に戻っていった。その背中を恨めしげに見つめていると、帯刀が担いできたリュックサックをお腹の上にのせてガサゴソと中を探り、何やら隅のひしゃげた台本を取り出した。 「台本に、いくつか気になるところをまとめてきたんですけど――俺、文字でまとめるのがあんまり得意じゃなくて。だからできれば直接話したいなって」 「あの――でも」 「それからもう一つ。聞いちゃったんです、小柴先生がヨリヒト役――俺じゃなくて、本当はバッヒー先輩にやってほしかったって」 「それは……」  話したんだ――。  その事を話したのは朝霧さんだけだ。どこからどう漏れたのかはわからないが、心にシミみたいなものが一つばかり滲む。 「だから――俺にやってもらってよかったって、そう先生に認めてもらえるように、やれることはなんでもやっておきたいんです」  若いなあ――。いや、人のことはあまり言えないんだけど。  帯刀はそう言って、台本をテーブルの上に置いた。表紙と同系色だったもので気がつかなかったが、よく見ると彼の台本には夥しいほどの付箋が付けられている。 「こんなに?」 「はい。俺もこのあと七時から取材があるんで、今日全部ってわけにはいかないんですけど」  いくらかページを捲ってみるが、どれも走り書きばかりで判読不可能だった。 「これの、どこが気になるんですか?」  確かここは原作通りの台詞のはずだが。 「ああ、ここは言い方のニュアンスを確認したくて。台本だと何食わぬ顔でって書いてあるけど、原作だと“ぎこちなく、でもなるべく自然を装って”って書いてあったでしょ? その含みの持たせ方の微妙なニュアンスを表現してみたくて」  帯刀はリュックから同じように付箋のついた文庫本を取り出して、そのページを開いて見せてきた。本を抑えてやると、両手の人差し指を使ってそれぞれの箇所を指でなぞる。 「ホントだ――」  よく読み込んでいるな。台本も、それから小説も。本屋の配布している紙製のブックカバーは角が傷んでいて、表面も少し毳立っていた。 「じゃあちょっと、やってみますね」  ――え? 「《ううん、何でもないよ》」 「…………」 「どう、ダメ?」  何てコメントしたら良いのかわからない。なんてことのないように始めたけれど、それまでの帯刀と何が違うのかまったくわからなかった。 「うーんと……なんていうか、自然すぎる? いやでも映画だしそれでいいのかな……」 「じゃあ――」  ブツブツと感想を述べる私に帯刀は何度も《ううん、何でもないよ》を繰り返した。明らかに意気消沈した声色だったり、大げさすぎるほど明るかったり、泣きそうなのを堪えているような言い方も。よく表しているとは思う。ただ、どれも声を張り過ぎなくらいで、来社時に案内してくれた新入社員から申し訳なさそうに注意されてしまった。 「映画なんだし――些細な表情の違いでもちゃんとカメラが捉えてくれるから、もう少し控えめでもいいんじゃないかと」 「それだとさっきは自然すぎるって言っていたじゃないですか」 「だから、ああいう自然すぎる――フラットな言い方じゃなくて、どうでもいいけどどうでもよくないみたいな言い方なんです」  やはり、言葉だとうまく説明できない。けれど帯刀の方は文面にするより、こうして演技で表現しながら調整した方がやりやすいのだろう。 「どうでもいいけどよくないって何ですか。拗ねてる――とはちょっと違う?」 「――それです。“拗ねてる”!」  ここはヨリヒトがヒロインに隠し事を追及されるシーンだから、本来なら拗ねているのとは少し違う。だが、妙に不服そうな顔をして唇を尖らせているイメージが強く頭に残っていたので、帯刀の言う“拗ねてる”がぴたりと当て嵌った。 「……ちょうど母親に口酸っぱく言われて、どうでもいいことでムキになってる、みたいな?」 「そうです、そうそう!」  帯刀はううんと唸りながら台本に書き足して、何度か小声で台詞を反芻すると、徐に数行前の台詞を指した。 「読んで。ここから合わせたい」 「でも……」 「どんなでもいいから」  瞳を泳がしてはみたものの、帯刀は真っ直ぐに私を見据えている。いつの間にか弛んでいた空気は消えて、なんだか帯刀が切羽詰まったヨリヒトのように見えてきた。 「《――ヨリヒト、くん。何か私に言うこと、ない?》」 「《いや、別に》」 「《ウソ、じゃあどうして私のこと避けるの》」  ――避けているのは私の方なのに。 「《それは――》」  ――それは、本当はヨリヒトはヒロインの事が気になっていて、でも、ヒロインがまったくそれに気がつかないから。  ヨリヒトはそこで一度言い淀み、ヒロインはそれを受けて 「《やっぱり何かあるんじゃない》」  という。それに対してヨリヒトが少しむっとしながら、 「……《ううん、何でもないよ》」  と答えるのだ。 「――今の」 「……カンペキ、です」  帯刀は立ったまま、台本の上をなぞっていた私の手を取り両手で握った。 「ありがとう……! すごい――今、なんか俺――ヨリヒトだった」 「う、うん――っ。いえ、あの――はい……」  頬に何かが立ちのぼってくるのがわかる。じわりじわりと蛸の墨のように、全身を撫でて赤く染めながら――。 「あの、もうちょっとボリューム何とかなりませんか」 「はい、すみません!」  それからいくつか調整を重ねて、付箋三枚分ほどの箇所を詰めていった。しかし、やはり演技になると帯刀は熱が入ってしまうようで、再三注意されてしまったので次回からは場所を移すことになった。……次回の約束も、半ば無理やり取り付けられたようなものだが。 「本当にありがとうございます! 撮影まであまり時間がないので、できるだけ時間見つけて会いに行ってもいいですか?」  帯刀の真っ直ぐな瞳に抗えるはずもなく、つい頷いてしまったのだ。生来ものを断るっていうのが苦手なので、そういうのはすべて朝霧さんに任せきりにしていたのに。 「その、ほかの演者さんからも相談の連絡を受けていて――でも、それだと体が空かなくなって新作どころじゃなくなっちゃうので」 「うん。二人だけの秘密ですね!」  声が大きい! 大丈夫かなあ……。  それから数週間が過ぎて、本格的に撮影がスタートしたと朝霧さんから連絡がきた。あれから帯刀はちょくちょく私に連絡を寄越してきて(朝霧さんに次会う約束をしていると知られたくなかったのでやむを得ず連絡先を教えた)最近は、仕事と関係ない連絡も増えてきたところだった。撮影現場でのご飯とか、ヒロイン役の仲瀬聖菜とのツーショットを送りつけてきたり。  例によって何の前触れもなくかかってきた電話を何コール目かで取ると、少しの沈黙があってようやく帯刀が口を開いた。 「――もしもし、ちなつ先生?」  どうしたんだろう、やけに落ち込んでいるような。 「今日さ、先生に見てもらったところのシーンを撮ったんだ」 「本当ですか。……どうでした?」  一瞬弾んだものの、元気のない事を思い出して神妙に尋ねる。 「あの日と同じくらいやれたと思うんです。後ろめたさとお前のせいだろってイラつきとかも入れて、ちょっと拗ねた感じで。……けど、監督に全部ダメ出しされちゃって」  あ……。 「……そう、ですか」 「台本と違うじゃないかって」  やはり、あの脚本は監督がかなり口を出していたのだろう。  監督とこちらとの方向性にややズレがあるのは感じていた。何度か朝霧さんを通じて脚本家の方に問い合わせた事があったが、どうにも他人事というか、板挟みのようで強く言えなかったと言われたことがある。 「……ごめん」  帯刀が頭を下げたのか、受話器からノイズが聞こえてくる。 「どうして帯刀さんが謝るんですか」 「だって『アウフタクト』は――先生の大事な作品でしょ?」 「それは、そうだけど」 「俺にもっと実力とか実績があったら、あんなわからず屋に文句なんて言わせないのに――」  わからず屋って……。 「それこそバッヒーさんなら、先生の思った通りで監督も納得のいく演技が出来ていたんだと思う。だから……」 「――そんな事ないです。あの演技は帯刀さんにしかできないものだったし、それに――本当のヨリヒトがどんな人でどういう気持ちでいるのか、私は帯刀さんが知ってくださっていればそれで」  ――私は何を言っているんだろう。ハッと我に返って口を噤む。 「それじゃあ僕がやる意味ないでしょ」 「……そうですね、ごめんなさい」  そんな事があって、帯刀からの連絡は途絶えた。  朝霧さんがくれる情報だけではどのように撮影が行なわれているのかちっともわからず、それまで無駄に帯刀から情報を得ていた私は却ってちゃんと撮影が進んでいるのか、ヤキモキするばかりだった。 「撮影現場を見たいって?」 「ええ――仲瀬さんや石田さんにはとても丁寧に打ち合わせを進めていただいたので、一度ちゃんとご挨拶もしたいなって」 「構いませんけど――先生、来月に上がるって言ってた新作、もう二ヶ月も延びてますよ?」  このままでは制作発表のタイミングから外れ、冬になれば芥川賞直木賞、それからすぐに本屋大賞の候補作が目白押しで話題が流れてしまう、と朝霧さんは言いたいのだろう。内容によっては本屋大賞を狙えるかもしれないのに、秋口を逃す手はないと。  わかってはいる――だが、あの話が書けないのはこの人のせいでもあるのだ。口にこそ出さなかったが、朝霧さんは何かを気取ったらしく頭を掻いてスケジュール帳を開いた。 「あの監督、ワンマンで有名らしいですしね。現場を放置していたんじゃ、どんな風に舵を切る事やら……」  そんなこんなで五月の連休に合わせて朝霧さんがスケジュールを調整してくれた。撮影班は今、北陸の田舎まで飛んでいるらしい。温泉旅館を貸し切って、寂れた劇場や人気のない浜辺、そしてヨリヒトとヒロインの逢瀬のシーンを撮影するのだ。各スケジュールを押さえられるだけ押さえた賜物であって、それだけ力を入れてもらっているのだと朝霧さんは嬉しそうに話してくれた。  冬のコートを脱ぎ去り、春の装いで朝霧さんと共に現れた私を見て、演者たちは驚き半分の表情を見せた。スタッフの中には露骨に今更何を、という態度の人もいて、アシスタントなんかは余計に気を回さなければならなくなったと冷や汗をかいている。 「……朝霧さん、連絡入れなかったんですか?」 「入れたよ、旅館とディレクターと、不参加のプロデューサーにだけど」  どうやら監督には内密に事を運んだらしい。寝耳に冷水を浴びせられた監督は明らかに不機嫌そうで、顎に蓄えた灰色の髭を頻りに撫でている。その奥では涙袋が特徴的な仲瀬さんが石田さんと並んでこちらに軽く頭を下げており、大広間の隅では帯刀がちらちら視線を寄越しながらちびちびと水を飲んでいた。 「お疲れ様です朝霧さん、小柴先生」  ディレクターがやってきて、今までの収録分をモニターで見せてくれるらしい。現場を離れるのにもう一度だけ帯刀の方を見ると、彼は仲瀬さんと台本を持ちながら談笑していた。  ――収録分を見終わって、朝霧さんと顔を見合わせる。  画角がどうのとか、視線誘導がどうのこうのとか――ディレクターはずっと小難しい単語ばかりを並べて御高説を垂れていたが、正直なところをいうと帯刀のぎこちなさばかりが目について、カメラワークとかそういう問題ではないような気がした。 「……少し、帯刀さんとお話させて頂けますか」  ディレクターにお願いをして、空いている部屋を借りて彼を連れてきてもらった。  帯刀の表情が浮かないままだったので、朝霧さんにも外してもらって今は二人きりだ。 「今までの、見させてもらいました」  私が口を開くと、彼はますます表情を曇らせた。 「……監督の指示と、自分の落とし込んできたヨリヒトがあまりにも乖離しちゃって」  弱々しい声は、畳の上に溶けていきそうだった。 「叫ぶんだ。僕の中のヨリヒトが……僕はそんなんじゃないって」  いつから彼は、自分のことを“僕”と呼ぶようになったのだろう。それまでは、“俺”ではなかったか。 「――正直、かなり期待を裏切られました」  台詞あわせの時はあんな事になるなんて思わなかったのに。 「……ちなつさんも、本当は僕じゃなかった方が」 「違います。言いなりになって、いい演技ができなくなったら――あなたの先が潰されてしまう」 「それで潰れるなら、僕はそれまでだって事なんだよ」  ――仮にそうだとしても、あんな童貞みたいな演技をされてオーケーを出す監督の方がどうかしている。 「その為に私はここへ来たんです。あなたが潰れてしまわないように」  私はこんな時でさえ、ろくに帯刀の顔を見ることができないでいる。震えそうな彼の手に、手を伸ばせないでいる。震えは帯刀のものではない――この気弱さも、すべては彼にヨリヒトが乗り移っているからだ。それだけ今、彼はヨリヒトを自分の中に落とし込めている。 「大切な仕事だし、私にとっても大きなチャンスです。でもそれ以上に、百パーセントの私情で、この映画には必ず成功してほしいんです……『アウフタクト』は、私の青春を詰め込んだ大切な作品だから」  おそらく朝霧さんは今、監督に直接交渉をしているのだろう。ぎこちなさを取り払って、つまらないこだわりは捨てて、ありのままのヨリヒト――帯刀依斉を撮って欲しい。そう、伝えて欲しいとお願いしてきた。でなければ映画の放映のタイミングで出すエッセイ集に書き下ろしで暴露してやる、という旨を朝霧さんお得意の口八丁で突きつけてやって欲しい、とも。 「どうして、そこまで」  リスクや掛かる迷惑を考えれば、私のしていることっておかしいのかもしれない。でも、今の私は執筆当時と同じくらい『アウフタクト』に懸ける思いが強かった。『アウフタクト』となら心中してもいい、とまで思っている。 「……スタビライザーの佐伯くん」  ぴく、と帯刀の毛先が僅かに揺れた。 「――七年前、私は彼であなたのことを知りました。当時、私は原作のゲームから既に、佐伯くんがいなければ生きていられないほど彼に熱中していたんです」  佐伯くんはメインキャラクターではないが、やけにいいとこ取りの役どころというのもあって結構人気があった。そこへ2.5次元界の登竜門ともいえる作品で一躍人気を集めた帯刀がキャスティングされて、ネット上でもお祭り騒ぎだったらしい。 「最初は抵抗があって、だからDVDとかを借りてもろくに観なかったりもして――けど、数年経って佐伯くんへの気持ちも落ち着いてから、偶然深夜に有料チャンネルで放送しているのをほんの気まぐれで眺めていたんです」  ――そこで、今の今まで見えていたものが変わった。 「どうして今まで見てこなかったんだろうって、後悔しました。これを見ていたら高校時代、私はもっと楽しくて生きやすかったんじゃないかなって」  もちろん、少し大人になって距離を置いたからこそ見えてきたものもあるのだろう。それでも、掛け値なしに素晴らしかった。帯刀はまさにこの世に生を受けた佐伯くんそのもので、月並みな言い方かもしれないが、あれは絶対それまでの佐伯秀の人生を十七年間生きてきた表情(カオ)だった。 「それで、『アウフタクト』を書き始めたんです」  『アウフタクト』と聞いて、それまで視線を彷徨わせていた帯刀は急に瞳を上げた。 「だから――大元を辿れば」  乾き、縺れる舌を必死に動かして、一音一音言葉を紡ぎだす。 「ヨリヒトのモデルはあなたなんです」  掠れそうになる語尾を言い切ってから、耐え切れなくて俯く。 「もう、ヨリヒトはあなた以外に考えられません」  前髪の向こう側で、帯刀が丸めた台本を握り締めた。そして拳を解くと、忙しなくテーブルに広げて黄色い付箋のついたページを開く。 「……次のカット。旅先で偶然再会して、旅館で密会するシーンから」  彼の人差し指が、ヒロインの台詞を指で示した。 「それ持って立ってて。全部ちゃんとやるから」  台本は、と訊くと、彼は「いらない」と首を振る。台詞はもう全て頭の中に入っているらしい。 「《……知らなかった、ヨリヒトくんがこっちで公演やってるなんて》」  立ち上がって台詞を読み上げると、部屋の隅まで歩いていった彼が、すうっと私の後ろまで滑るように畳の上を戻ってきた。 「《はやく、二人っきりになりたかった》」  そこでヨリヒトは、ヒロインのことを背中から抱きしめる。  私の背中を熱が覆い尽くして、両肩を手のひらが引き寄せた。 「でも、私は――」 「《何も言わないで》」  一層腕に力が込められて、途端に何も言えなくなる。 「好きだよ、俺――チカさんのこと」  心臓が苦しいのは、帯刀が私を締め付けているから。でも、鼓動が早いのは、頬が熱いのは――冬が終わって、陽気が――。 「――――私」  続く言葉を探して持ち上げようとした台本が、指の隙間から滑り落ちていった。 「いいよ、何も言わなくて」  帯刀がすぐ耳元で囁いて、そのまま顎を左の肩口に埋める。彼の長い前髪となめらかな肌が私の頬にくっついて、あわや触れんとする唇が小さく言葉を発した。 「………………」  彼はフッと笑って、感触を堪能するように腕を撫で、ぎゅうっと抱き直す。右肩を撫でていた彼の左手が私の頭蓋骨をぐっと掴んで、そのままするすると下に降りていった。骨ばった親指が私の唇をとらえ、その輪郭をやさしくなぞる。 「先生、そろそろ――」 「っ、はーい!」  障子の向こう側から呼びかけられ、咄嗟に暢気な返事をする。――朝霧さんの声だ。帯刀が腕の力を緩めてから慌てて腕時計を見たが、元々何時頃に別れたかを覚えていなかったので無意味に終わった。 「すみません、主演がいなきゃ撮影できないですよね!」  朝霧さんは、飛び出してきた私の後ろで腰を折り台本を拾い上げている帯刀を見遣って、何度か瞬きをした。 「それもそうですし、先生も――宿に着いたらカンヅメにするって約束しましたよね」  そうだった、そのためにノートパソコンまで持ってきたというのに――ばつが悪くてヘコヘコしている私を見て、帯刀がクスリと笑みを零す。  彼は「また後で」と意味ありげに耳打ちすると、朝霧さんに会釈をして撮影に戻っていった。  そこからの帯刀は快調だった。原作者の意見を取り入れたと大っぴらに言える今、噛んだりセリフが抜けたりする以外で監督がカメラを止めることはなくなった、と朝霧さんが教えてくれた。むしろ本人たちが納得いかなくてリテイクを求める程で、既に収録済みの分に関しては致し方ないが、これは後半で化けるぞ、と。  対して私は絶不調であった。なにせ筆が乗らない。頭の中が帯刀のことでいっぱいで、部屋は違えどよく似た和室にいるだけで、何度も抱きしめられた時の熱や感触を思い出しては一人赤面する始末だった。  新作は、帯刀とは程遠い年上の男性に恋をする話で――それまではするするとその男性の魅力を並べ立てていたのに、今では枯れた井戸のようにちっとも湧き出てこなくなってしまったのだ。  幸い、まだ誰にも見せていない。朝霧さんにもテーマはおろか、登場人物のことさえ伏せている。  いっそ、書き直そうか――。  それには圧倒的に時間が足りない。しかし、この二人のこれから先を今の私に書けるとも思えなかった。  撮影が終わると帯刀が来て、朝にも時間があると帯刀が来る。ヒロインの台詞を読み上げるのにもだんだんと慣れてきた。撮影は、海沿いでの仲瀬さんの独白シーンが天気の影響もあって長引いており、彼女からも細かな相談を直接受けていた。 「いやあ、仲瀬さん頑張ってますねぇ」  一文字も進まないのを見兼ねた朝霧さんが現場に同行する許可をくれて、留守番だと文句を垂れていた帯刀を残してようやく外に出た。  仲瀬さんは髪を振り乱しながら、まだ薄暗い浜辺で一人泣き叫び、その場に崩れ落ちた。  けれど監督はどうしても、その崩れ落ち方が気に食わないとかいって何度もリテイクを重ねる。そのたびにスタッフがワンピースについた砂を払い、こぼれ落ちた涙を拭った。しかし、仲瀬さんは回を重ねる毎にゲシュタルト崩壊を引き起こしているのか、だんだんと不自然さが増していくばかりだった。 「大丈夫でしょうか、彼女――」  朝霧さんがまつ毛を伏せる。しかし、今回ばかりは私も監督に賛成だった。自身がスーパーの大根売り場で崩れ落ちた時は、もっと何かが違っていたように思う。ただ、客観的に見たわけではないのでどう違うのかを的確に言語化するのが難しい。 「仲瀬さん、なかなかの才媛ですよね。小学生の頃からかなりの読書家だったそうで、先生の作品も結構コアなタイトルがお好きだって伺っています」  撮影が一旦休憩に入り、既にぐったりとしている仲瀬さんを見つめて朝霧さんが痛々しげに目を細めた。 「それで今度、彼女に何かしら書いてもらえないかなって、今エンタメ系の雑誌編集と詰めているところなんですよ」 「…………」  作家になるにもいろんな道があることくらいわかっている。文字が書ければ、ううん――場合によっては書けなくても、全ての道はローマに、と同じくらいの意味合いで行き着く先に作家という選択肢があってもいいと思っている。けれど、多少きちんとした文章が書けたって、書きたいものが――表現したいものが、ぶつけたい情熱がそこになければ。そんな人が容姿と人気だけで作家になれるのが少しだけ悔しかった。  私がこれだけ必死にしがみついているものを、彼女は――彼女たちは、いとも簡単に奪っていこうとする。 「……ひとつくらい分けてくれてもいいじゃない」  あるいは演技でさえも、大根の海に崩れ落ちた自分の方が。  急に押し黙り、目の据わった私を見て、朝霧さんはすぐに旅館まで車で送ってくれた。その道中で、彼は追い討ちをかけるように「来春から、おそらくエンタメ雑誌の編集部に異動になる」と静かに告げた。  立ち替わり廊下で出くわす中居さんからの会釈を全て無視し、お風呂から出てきたばかりの帯刀にも気づかないフリを通して部屋まで戻ってきた。 「……《私にしか書けないものがあるって、そう言ってくれたあの人は、今は違う原石に瞳をきらめかせていた。胸が苦しい……この苦しみで、彼への愛を自覚する。彼の足に私以外の二人三脚の紐が無数に括りつけられていることくらい、とっくに気がついていたのに。私は、私――》」  私は。  メモ帳を引っ張り出して、忘れないうちに書き殴った。細かいニュアンスまでは異なるかもしれないけれど、この降ってきた言葉の羅列の時制を正して、それを物語にする。  私の内側から出た言葉たちだから、どんな一文にもきっと私が含まれているんだろう。それはヒロイン達も、そしてヨリヒトも例外ではない。 「《私、あなたのことが好き――でも、それじゃあ書けない。書けない――》」  その瞬間、襖が開いて帯刀が入って来た。私は構わず続けて、台詞や文を書き殴る。 「《私は彼のために書いているの……?》」  「……先生」  彼は安堵したようなため息をついて、書けない、と泣き喚いたまま止まった私の傍までやってくると、ゆるく抱きしめた。 「――――」  そうだ。ここで陽彩(ひいろ)は私を抱き寄せる。何も言ってくれないけれど、優しく抱き寄せて――帯刀がそうしたように、そっと涙を拭うのだ。  泣き濡らした瞳のまま、潤んだ目で彼の顔を見つめて――そして、彼は苦しそうに眉根を寄せながら、顔を近づける。彼の顔でヒロインの顔は隠れてしまうが、その向こうで二人の唇は確かに重なっている――。 「はいカット!」  仲瀬さんと帯刀のキスシーンが撮り終わって、二人の間に流れる空気が僅かに変化を見せた。  ファンサの鬼である彼に淡い想いを抱いている苛烈なファンに配慮して、本当にキスはしなくてもいいようにと、ちょうど帯刀の頭でヒロインの顔が隠れるようになっている。が、その実――帯刀は本当に仲瀬さんと唇を重ねていた。  別に、嫉妬とかではない。ただ少しもやっとしているだけだ。もっというと、もやっが半分と、あの日の唇の感触を思い出してのにやっが半分だった。  負の感情に支配され、私はあのあと取り憑かれたように小説を完成させた。原稿に目を通した朝霧さんは初め、やっぱり驚いていたけれど、そこに綴った気持ちと激情とにだんだんとスクロールの速度が早まっていった。  落ち目の恋愛小説家が、スマートでウィットに富んだ編集への恋心を小説にして再起を図る。けれど、編集にその気持ちを気づかれてしまったら、おそらく距離を置かれてしまうだろうし、彼には何より家庭があった。だから、それとわからないように書いているつもりだったのだが、実は編集は最初から彼女の気持ちに気がついていて、最後に一度だけキスをしてくれる。彼の異動に伴い、二人の人生はもう二度と交差することはない、と締めくくられて終わりだ。  主人公は『アウフタクト』と同じ小説家だが、ハッピーエンドで終わる『アウフタクト』とは違い、こちらは悲恋ものである。負の感情とはいえ、こんなに奥深くから気持ちが湧き出て、それを掘り起こしたのは初めてだった。だから、作品としては相当気に入っている。  途中、朝霧さんは何度かマウスに乗せた指を強ばらせてこちらを窺おうとした。しかし、彼は結局一度も振り返ることはなく、最後まで読みきってから静かに右手を膝の上に戻した。 「……個人的には、これを不特定多数の目に曝すことには、抵抗があります」  彼の声は、低く掠れていた。  この七年の間に彼はすっかり歳を重ねて、もう、娘さんも小学生にあがったという。 「……ですが、編集としてはどうしても、この作品を世に出さないのは惜しい」  朝霧さんは落ち窪んだ瞼を一度固く閉じてから、こちらに向き直った。 「できることなら、次回作も――それからもっと先の君の作品も、一緒に作り上げていきたかった」 「これを言うのは、まだあまりにも時期尚早かもしれないんですけど――お世話になりました。本当に」 「……早いなあ、本当に」    北陸でのロケを経て、東京に戻ってから数週間後に映画『アウフタクト』は無事クランクアップを迎えた。新作にかかりきりになった私は打ち上げにも参加せず、マスコミが関わってくる今後の全てのイベントにも不参加を貫いていた。  映画の公開は約一年後の秋で、私はその時が迫るごとに焦慮に駆られていた。  帯刀はクランクアップのすぐ後から、また別の舞台で主演を務めていた。ますます人気を上げていく帯刀に対して、私の新作の方は今ひとつパッとしない。そして何より――自分自身、今の創作方法に限界を感じ始めていた。  恋愛小説が書きたい。恋愛小説しか書けない。けれど、どうしても相手役の男性に自分がどっぷりとのめり込まなくては書けない。果ては、自分の恋と、小説とを切り離して考えられない。  こういう言い方をすると身も蓋もないが、私は人をダシにして小説を書きたいわけではなかった。けれど、自分が生み出した人間にそれほどの執着を持てない――中身が伴っていなければ、どうしても。  こうしている間にも、数ヶ月前にスタートを切った仲瀬さんのコラムはぐんぐんと評判を上げていき、『アウフタクト』の宣伝にも一役買っている。今度、小説を書かないかという話も出ているらしく「いつもどうやってあんな素敵なお話を書いているんですか?」とこの間無邪気に尋ねてきた。  帯刀からは「新刊を買ったよ」という連絡を最後に一切のアプローチが途絶えた。舞台が忙しいのだろうと鷹を括っていたが、それは私の思い上がりだったらしい。  ――さすがに、初号試写に顔を出さないわけにもいかず、私は花栄社の人間のフリをして、久しぶりに顔を合わせた朝霧さんにくっついていった。 「ご無沙汰しております――」  仲瀬さんや石田さん、それから監督とも挨拶を交して、順繰りに帯刀へと朝霧さんが挨拶をする。  「いやあ帯刀さん、最近はますますのご活躍で。次の舞台も楽しみにしております」 「朝霧さん、その節はお世話になりました。よろしければご招待しますので遠慮なく言ってください」 「……帯刀さん」 「――どうも」  帯刀は伏し目がちに視線を外すと、知り合いでも見つけたのか「失礼します」と通り抜けていった。  映画『アウフタクト』は、小説とはまた違った作品の魅力を引き出していた。何より、劇中のしっとりとした音楽がいい――前半は緩やかだが、後半になって帯刀がめきめきと頭角を現して、前半のぎこちなさがそれをより際立たせていた。  雑誌のインタビュー記事で読んだが、監督は前半のヨリヒトを「まだヒロインに恋する男の顔になっちゃいけない」と何度もリテイクを重ねたらしい。それを知ってから改めて観ると、前半もなかなか悪くはないように思えた。  つまり――結果オーライ、終わり良ければ全て良し、だ。  しかし、肝心の帯刀に感想を伝えても、彼はひどく素っ気なくて――でも、多少なり『アウフタクト』が話題となっている今、ヘタに連絡を取るのが憚られるのも納得がいったし、元より帯刀はそういう部分において潔白だった。  ――もし、炎上騒ぎにでもなってしまったら。  彼に迷惑をかけたら――作家活動に影響が出たら――もし、見つかってしまったら。考えただけでも手のひらが湿って、脂汗が滲んでくる。  私の焦燥など鼻で笑うかのようにあっという間に二ヶ月が過ぎ、いよいよ映画『アウフタクト』の公開日が近づいてきた。  朝霧さんから舞台挨拶には絶対に参加したいと連絡をもらった私は、おろしたてのフォーマルなワンピースに袖を通し残暑の中、日比谷の劇場へと足を運んだ。 「小柴先生!」  エスカレーターの袂で朝霧さんが手を挙げていたので、小走りになって駆け寄った。しかし、沈み込むような絨毯にヒールを取られ、一瞬つんのめりかけてしまった。 「――っとと、危ない危ない」  咄嗟に朝霧さんが身構えてくれたが、なんとか自力で踏みとどまる。これからもう、彼には頼れない。私は一人で立たなければならないのだ。  関係者として控え室に通されたものの、廊下で朝霧さんがいきなり立ち止まった。 「先生、先にお手洗いに行っておかれた方がいいんじゃないですか?」  ――確かに。彼の言わんとする通り、館内は冷房が効きすぎなくらいだった。これは用心しておいた方が無難だろう。  トイレに入ると、途端に既視感に襲われた。この襲われた、というのは比喩でもなんでもなくそのままの意味で、文字通り私は襲われたのだ。 「――――っ」 「……う、あ」  まただ。また、トイレで口を塞がれたと思ったら帯刀だった。  帯刀は相手が私だとわかるや否や、すぐに手を離してくれた。 「先生……」  帯刀は「ダメじゃん、もっとちゃんと抵抗しなきゃ」とか的外れなことを言っている。 「俺じゃなかったらどうするの」 「……こんなことする人、他に知らない」  帯刀の前髪のあたりをぼんやりと見つめてから鼻筋まで視線を下げると、彼は僅かに瞳を震わせた。 「新作――『楽園の(ひたき)』、読んでくれた?」 「……うん、読んだよ」  ――まただ。帯刀は初号試写の時と同じく、伏し目がちに視線を外そうとする。あの時はてっきり、その時やっていた舞台の方の役柄に合わせていたのだとばかり思っていたけれど、いざ朝霧さんや仲瀬さんとお忍びで観に行ってみたら全然そんなことはなかったのだ。 「……じゃあ、そろそろ時間だから」 「あ――うん」  本当は引き止めたかったが、帯刀と女子トイレでいつまでも立ち話をするなんていうのもおかしな話だ。それに、舞台挨拶まで本当に時刻が迫っていたので、やはり引き止めることはできなかった。  廊下に戻ると関係者は既に移動しまったらしく、朝霧さんに控え室ではなく直接スクリーンへと誘導された。  ざわめきの漏れている重い扉をつぷりと開いた途端、割れんばかりの拍手が外気へと流れ出していく。舞台上には既に主演とヒロイン、石田さんと監督の面々が並んでいて、デカデカとタイトルの印字されたパネルまでもが用意されていた。  皆、最初は当たり障りなく完成の喜びと御礼を口々に述べて――監督のとりとめのない長話についぼうっとしていると、朝霧さんに肘で小突かれてしまった。  続いて、司会の女性が好きなシーンについて仲瀬さんに話を振る。仲瀬さんは浜辺で撮った独白のシーンを挙げ、泣き叫んで膝から崩れ落ちるカットを何度もリテイクした事を感慨深く話していた。石田さんは、撮影したシーンではなく現場での主演とヒロインのじゃれあいに茶々を入れて笑いを誘う。そして、当の主演は―――― 「実は僕、このお話を頂いてから原作を読みまして。最初はヨリヒトがどうしてヒロインのチカを好きになったのか、全然わからなかったんです。原作はヒロイン視点だし、ヨリヒトはかっこいいなあって思うんですけど、でもこいつ全然何考えてるかわからないなって――」  聴衆から低い笑い声が起こる。朝霧さんも喉の奥で笑いをこらえているようだった。突然自分の力量のなさが突きつけられたようで、なんだかとても恥ずかしい。 「でも――原作者さんとか、いろんな方に協力してもらって、だんだんとヨリヒトがわかってきて。気がついたら僕、チカの事がすごく可愛いなって思えてきたんです。はっきりとチカの事が好きだなって、ヨリヒトとして分かったのは、チカを後ろから抱きしめるシーンで。腕の中で少し緊張もして、ヨリヒトに《何も言わないで》って言われた瞬間、ひゅって小さく息を呑んで――ああ、この子スゲー可愛いって思っちゃったんです。あの時は完全に、僕はヨリヒトとシンクロしてました」  後にこのコメントはメディアによって括弧笑いが付加されてしまうのだけれど、ひとつひとつを愛おしげに語る帯刀の言葉にはちゃんと真摯の色が滲み出していた。 「――先生?」  舞台挨拶が終わっても、私は穴が空きそうなほどに帯刀のいた場所を見つめたままだった。朝霧さんの声で我に返った頃には他の観客が殆ど退場しており、イベントのスタッフが遠巻きに視線を向けていた。  そこからはなんだか覚束なくて、朝霧さんに手を引かれるまま、どこかに連れて行かれた。またトイレの心配をされて「いらない」と頭を振り、呆れる彼の背中を追ってどこかのホテルに入る――。  劇場よりも更に重厚な、布張りの扉が開かれると、中は煌びやかなグラスと人でいっぱいだった。  正面の一番奥の長テーブルには、先ほど写真撮影に使われていた題字のパネルがどっしりと置かれている。どうやら、打ち上げ会場らしい。  どうも、花栄社です――と、朝霧さんがスポンサーらしき人間に挨拶をしている。私はその横で突っ立って、ぐるりと会場を見回した。 「あ――」  一際大きな群れがあると思ったら、女性に囲まれている帯刀の姿があった。共演者やスタッフのみならず、おそらくスポンサーの特権を使って入り込んできたファンもいるのだろう。  特権って何だ――自分だって、原作者という特権を濫用したくせに。  私が瞳を濁らせている間に一瞬だけ帯刀と目があったような気がしたが、やはり彼はふいっと視線を外してしまった。  それからしばらく製作陣に最後の挨拶まわりを行って、監督が注いでくれたシャンパンをちびちびと飲んでみたが酔うこともできず――私はついに帰ろう、と決め込んで朝霧さんの姿を探した。彼には一応、ひと声かけておくべきだろう。 「え、もう帰られるんですか?」  勧められるままビールを飲んでいる朝霧さんは、ほんのりと赤くなった顔で私を振り返った。もう、というが既に三十分は経過している。私にしてみれば十分すぎる時間だった。  朝霧さんからクロークの札を受け取って、一人出口へと向かう。慣れないヒールなんて履くものではなくて、ホテルの柔らかな床に何度も足を取られそうになった。  扉を押した瞬間――やけに手応えがないと思ったら、入れ違いに入ろうとした誰かが扉を引いていたらしい。おかげで私は勢い余って、毛足の長い絨毯にヒールが引っ掛かり、大きくバランスを崩した――。 「――千夏(ちか)さん」  前に倒れ込みそうになった私を受け止めたのは、平服に身を包んだ帯刀だった。  取っ手を離された扉はぶらぶらと反動で揺れ、やがて振れ幅が狭まって呆気なく閉じた。帯刀は会場には戻ろうとせず――そして、私から離れようともせずに立ち尽くし、やがて私の手を引いて誰もいない廊下へと連れて行った。 「――《キャラをとことん落とし込む》って、ヨリヒトが劇中で受け答えしているシーン。昔――あれと全く同じ受け答えをした記憶がある」  帯刀は立ち止まると、私の手首を両手で持ち上げた。 「それから――ちなつ先生の本当の名前。千夏って書いて、チカって読むんだよね」  頷く代わりに、手首へと視線を落とす。これは、個人的な連絡先を教えた私の落ち度だ。 「俺は――ヨリヒトは本当に、俺なの?」  今度は、首を横に振った。  あれは、本当は佐伯くんだった。帯刀を通して見た、大人になった佐伯くん。その中に帯刀が溶け込んでいて――けれど、朝霧さんに出会って、ブラッシュアップをしていくうちに、ヨリヒトの中には朝霧さんの片鱗も含まれるようになった。  そして、ヨリヒトは私だった。  私の内側から生まれて、唯一、私を愛してくれる存在。私に「生きてもいいよ」って、掛け値のない愛を惜しみなく与えてくれる人。私の弱さと願望が真綿のように詰まっている。 「新作の『楽園の鶲』を読んで、千夏さんが今、朝霧さんへの思いを募らせているんだって気づいた。読んですぐは、主人公の思いで頭がいっぱいで――千夏さんからこれを読んでって言われたのが答えなんだって、そう思い込んでた」  ――つまり、あの時帯刀は『楽園の鶲』の主人公を自分の中に落とし込んでしまっていたのか。 「でも――それでも俺は、千夏さんが好き。好きなんだよ――」  帯刀は震える指で、強く手首を握った。暗がりでも少し光って見えて、私はようやく彼の目が濡れていると気がついた。 「……私ね、帯刀さんや舞台役者さんが羨ましかった。特に、2.5次元の舞台って、少年漫画原作のものが多いから――何度でも、きらきらした輝かしい青春を繰り返し味わえるんだなって。私は、あんまりいい青春時代を送れなかったから――」  自分の中の、無かった事にして閉じ込めてしまいたい、いくつものページ――それを掘り返されたくなくて、私は覆面作家の道を選んだ。でも、本音を言えば帯刀や仲瀬さんのように顔を出して、その上でいろんな人に認められて、好きって言ってもらえるのがどうしようもなく羨ましかった。 「多分私は――何かこれになりたいって職業とかがあったわけじゃなくて、ただ、人気者になりたかったんだと思う」  たとえ、作家じゃなかったとしても。 「でも――でもね私、今どうしても書きたいの。あなたの話が」  あなたに、もう一度恋をする話を。 「書きたい――」  私でも、朝霧さんでも、そして佐伯くんでもない、百パーセントの帯刀依斉を。私以外の人間の、その内側を私の中に落とし込んで。 「千夏さん――それはさ」  相手を知りたいって思うのはさ、 「俺のことを、好きだって事だよ」
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