第二話 ガイドラインには勝てない

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第二話 ガイドラインには勝てない

僕の会社のメールボックスには、一日に十通以上もメールが来た。内容はどれもほぼ同じだった。職場を追われたから、KAMEDAの編集部で雇ってくれ、というものだ。自動送信なんて言う高級なシステムは会社にはない。テンプレートのお断りの文面を少しずつ変えて、僕は一人ひとりに送信していた。 送り主の受難の原因の一部はKAMEDAにある。だいたい、こういう話だ。送り主は、SNSでKAMEDAの記事を引用した文章を載せた。どこかの誰かが、職場に通報した。ある日、上司から呼び出された。ネットでこんな事を書いている人間は、うちの会社にいたら困るんだ、やめてくれ、と言われる。職場を追われる。 想像力がある程度あれば、そんな事にはならない筈だ・・と僕は思う。どんな会社でも、群馬県民の顧客もいれば、茨城県民の取引先があるかもしれず、栃木県に工場があるかもしれない。会社がイメージダウンとトラブルを避けるために、特定の地域を熱心に馬鹿にする社員を排除するのは仕方がないことだ。繰り返すけど、想像力を働かせてある程度考えれば避けられる事態だった、と僕は思う。 ・・・愛埼者というのは、そういう想像力が決定的に欠落した連中なのだ。自分の行動が、誰かを傷つけたり、不快な気分にさせたり・・という事に全く配慮が及ばないのだ。自分は『特定関東』から埼玉を守るという正義の側にいるのだから、自分の行動に制限がつくのはおかしい・・と本気で思っているようだ。それで・・ 「ちょっと待ってよ」 「美園?」 「ユウくん、話が飛びすぎ。なんでそんな事になったの?」 そうだ・・。話が飛びすぎた。考える。順序良く、美園にわかってもらえるように話すにはどうしたらいいだろうか・・。 話すのを忘れていた。インターネットの世界ではこの数年の間に大きな変化があった。この事を説明しないと、職場を追われた気の毒な連中がメールを送ってきた話をわかってもらえない。 「美園はSNSってやっている?」 「登録だけ。面倒くさいからやらない。友達とはメッセージアプリでやり取りしているし」 「僕もやってないんだけど、調べてみたんだ。それで・・」 ・・・少し前までは、インターネットは胡散臭いものだった。アンダーグラウンドのメディアだった。テレビで識者や芸能人がネットの悪口を言うこともあったし、ネットで書かれている事、というのは誰かの悪意ある嘘とほぼ同じ意味だった。愛埼者たちがネットの世界で、北関東の住人の馬鹿馬鹿しい悪口を書いて、それが世間一般の目に触れたとしても 「インターネットは怖いね」 で済んだ。それで許してもらえた。そうだ。それで『許してもらえた』んだ。インターネット空間は、まともな人達が忌避する世界だったのだ。だから、そのまともな人達と無縁な空間でどれだけ馬鹿馬鹿しい話が飛びかっていても、一般人には関係がない話だ、ということで黙認されていた。 SNSが登場してから、そういうわけにはいかなくなった。芸能人、政治家その他の有名人、様々な企業がSNSに参入するようになり、一般人もどんどんSNSの世界に入っていった。そして、現実世界の補完、延長としてインターネットを使い始めるようになる。そうなると、アンダーグラウンドな要素はネット空間で容認されなくなっていく。極端な主張や馬鹿馬鹿しい事、悪口を熱心に書く輩が許してもらえる時代は終わった。その言動に対して、相応の制裁を受けるようになったのだ。 愛埼者たちの大半はインターネットの世界で、匿名で活動していた。そして、内輪のサークル内だけで、群馬県民は野蛮だ、とか栃木県民は馬鹿だ、とか過激で悪意ある主張のやり取りをしていた。具体的には、カリスマ性のある書き手がホームページやブログで自説を発表し、それを集団内で共有することで、ネットの中でコミュニティを作っていた。僕がKAMEDAの編集部に入ってから一年半ほどすると、これが変わり始めた。 SNSの隆盛に伴い、この流れに乗ろうということでSNSプラットフォームに愛埼者たちは活動の場を移した。SNSを知っている人なら、これがどういう結果になるかは想像がつくだろう。繰り返すけど、愛埼者は、人目のつかないところで、変な奴らが変な事を言っているという事で、世間から大目に見られてきたのだ。世間に認知されていないから、存在が許されていたのだ。 愛埼者を最初に攻撃したのは、都内の私立大学の写真サークルだ。栃木県足利市に『あしかがフラワーパーク』という所がある。藤の花が見頃の時期に足を運べば、かなり良い写真が撮れる。彼らは五月の連休に『あしかがフラワーパーク』に行って、撮った写真をワイワイ楽しくSNS上で共有して楽しんでいた。栃木って思ったよりいい所だねえ、またどこか行こう。栃木のいい所って他に無いかなあ、探してみるか・・おそらくは、こんな流れでSNS内を検索したのだろう。そして、愛埼者のコミュニティを見つけてしまったわけだ。 彼らが愛埼者の存在を知った時の衝撃は、SNS上での書き込みを引用すれば十分だろう。 「・・・見てはいけないものを見てしまった気がする」 「無駄に豊かな想像力に脱帽。屁でガス攻撃して埼玉の店を潰したとか書いてあるけど。馬鹿じゃん。こいつら」 「ネットは広大だわ・・ってセリフを思い出した。ここのプラットフォーム、おかしくね?こんな変質者集団を飼っているとか。・・運営に通報すべき?」 「・・・・地元が馬鹿にされてすごく悔しい。納豆風呂って何?十八年茨城に住んだけど、そんなの聞いたことないよ。それに『水戸黄門』くらい昔かから茨城でも放送されているし、勘違いして街で暴れる爺ちゃんだっていないよ!」 SNSの世界で愛埼者の存在を知った大学生たちは、熱心に愛埼者を攻撃するようになった。嘲笑と義憤が彼らの動機だったのだろう。大真面目に狂った主張をしている奴らがいたらからかってやりたくもなるし、地元を馬鹿にされたら腹が立つに決まっている。地元じゃなくても、特定の地域をデタラメな根拠で馬鹿にする行為自体に怒りを覚えた者もいるだろう。 最初は愛埼者たちの狂った主張をSNS上に晒しあげるとか、愛埼者のページに攻撃的な書き込みをするといった方法だけだった。だが、そのうち決定的な攻撃方法を思いついた。書き込み内容から愛埼者の身元を割り出して職場に通報する方法だ。 はじめこの大学生サークルだけだったが、徐々に愛埼者を攻撃する連中は増えていった。群馬、栃木、茨城の住人が怒って愛埼者への攻撃に参加し始めたのだ。・・・・誰だって自分の地元には愛着がある。地元をひどく馬鹿にされれば、腹が立つのは当たり前だ。攻撃への参加者はどんどん増えていった。そして、SNS内でかなりの規模での愛埼者叩きが始まった。 「・・・話が繋がった。なるほど」 「今の話でわかった?」 「わかった。・・・つまり・・SNSで変な事を書いて、それに怒った人たちに職場に通報されて、クビになっちゃった奴らが、ユウくんの会社で雇え、ってメールしてきたと」 「そう」 「何を考えているのかなあ。・・・完全に自業自得でしょ。自分でやったことくらい自分で責任とれよ」 美園は白けた顔をした。 「ユウくんが責任感じることなんてないのに」 「・・・そうなんだけど・・」 愛埼者のやっていた事は、根拠もなく北関東三県の住民を野蛮で下品な犯罪者集団だと決めつけ、嘘やデタラメな話を量産してネット上に掲載するというものだ。仲間内だけでデタラメな話をでっち上げて楽しんでいるだけなら良かった。部外者が見てどう思うかという事は考える必要はない。つまり、愛埼者は部外者から文句や批判、攻撃を受けるという事態は想定していなかったのだ。 そういうわけで、愛埼者はSNS内で一方的な袋叩きにあった。叩かれて馬鹿にされた愛埼者たちは、勿論、反論した。しかし、反論内容はその主張に劣らず馬鹿馬鹿しい物だったから、反論すればするほど馬鹿にされた。ムキになった連中が、挑発に乗って身元を明かしてしまい、職場に通報されることも何度もあった。その度に、やっぱりこいつらは馬鹿なんだ・・とますます馬鹿にされた。 愛埼者たちは、袋叩きにあっただけではなく、SNSの世界からも叩き出された。 SNSを運営する会社は、極端な主張をする連中のページを、規約違反ということで予告なく削除することがある。愛埼者の書き手やコミュニティのSNS内のページは運営会社によって容赦なく削除された。書き手やコミュニティのアカウントも停止となった。SNSを使うにはこの規約に従え・・とあらかじめSNS運営会社は断りを入れている。その規約の中に、特定の団体や個人への悪口、中傷だけを目的とした利用はできないと書いてある。規約に従わない場合の措置も書いてある(ページの削除とアカウントの停止だ)。そういうわけで、事前に決めたルール通りに、運営会社は粛々と愛埼者をプラットフォームから叩き出した。 ・・・これで終わりではなかった。愛埼者にさらなる受難が待っていた。 様々な事件があった後、大手のネット関連企業が批判にさらされた。反社会的、あるいは潜在的な反社会的なグループの主張や嘘がネット上で拡散することを助けている、さらにはそういう連中のウェブサイトに広告を出すことで資金を供給している・・という批判だ。この批判に各国の司法機関が動いた。こうなると、各社とも対応に動かざるをえない。 検索エンジンを運営する会社は、極端な主張をする連中や反社会的な連中のウェブサイトを表示しないようにアルゴリズムを変えた。ブログやウェブサイトのレンタルサーバーの運営会社も怪しい主張をする連中のブログやサイトを容赦なく削除していった。広告会社は、広告を出す際の審査を厳格にして過激な事を言う迷惑な連中の運営サイトに広告を出すことをやめていった。 SNS運営企業が愛埼者を叩き出したのは、単独の動きではなく、この流れの一部だったのだ。多くの愛埼者が巻き込まれた。無茶苦茶な中傷や罵倒を書き散らしている愛埼者が睨まれないわけがない。カリスマ性のある書き手のブログやウェブサイトは残らず削除された。ほとんどの書き手は別のサーバー(怪しい連中でも受け入れてくれる会社のサーバー)に移ることで発表の場を確保したが、前と同じように広告費でお金を稼ぐことができなくなった。コミュニティのウェブサイトは存続したが、検索サイトに引っかからないので参加出来る人数も限られていく。 愛埼者たちは、ネットの世界でも地下の住人となったわけだ。 「まあ・・そうなるよね」 美園は、少し機嫌がなおったようだ。地元の群馬を馬鹿にした愛埼者の苦境を聞いて、少し溜飲が下がったのかもしれない。 「ユウくんは、どう思ったの?」 「世の中の流れだから、仕方がない・・・というか当然の結果かなあ・・って思ったけど」 「それだけ?」 僕は憂鬱な気分になってきた。・・・美園はそれを察したようだ。 「・・・何かあったんだ」 「あった。もう・・やってられないくらい」 「何が大変だったの?」 「愛埼者ってさ・・もともとおかしい連中だったけど、この後、本格的におかしくなってくるんだよ。会社で僕がそいつらの対応をしないといけなくなったんだ」 「さっきのメール対応とか?」 「それは一部。もっと色々あった。これから説明していくけど・・」 僕は、立ち上がった。本棚からKAMEDAの昨年の五月号を取り出した。これに書いてあるはずだ。 特定関東の工作員の「仕業」か。「続出」するネット弾圧。愛埼者の「今」を考える。 神の国である埼玉の空に今日も太陽が昇る。太陽の光が、聖なる埼玉の大地に降り注ぐ。天空の彼方から雲間を通して差し込む光が、足下の草むらの朝露を照らす。・・・私は確信するのだ。やはり、埼玉は「神の国」なのだと。大地の「鼓動」と自身の「鼓動」が共鳴する。この聖なる土地と「一体化」するのを感じる。声が聞こえてくる・・・。 ・・・・埼玉を守るのだ!・・・ 埼玉を守る・・この尊い「使命」を果たす事・・・それだけが「今」の私の心にある事だ。十年の永きにわたって、私は戦い続けてきた。特定関東・・群馬、栃木、茨城の奴らが埼玉の土地を「汚し」、その「劣った下品な文化レベル」で埼玉を「貶める」のを、ネット言論の世界で「戦う」ことで幾度となく私は阻止してきた。 断言する。埼玉には色々な「問題」がある。だが、それらの「原因」を辿れば、結局は、群馬、栃木、茨城から来た野蛮で知性の劣る「特定関東人」に行き着くのだ。断言する。埼玉の「すべての問題」の原因は、群馬、栃木、茨城の奴らの仕業である。埼玉は聖なる土地であり、神の国であるから、問題など「起こるわけがない」のだ。問題が起こるとしたら、「外部からの攻撃」以外には「考えらない」。そして、埼玉を「攻撃」するとしたら、群馬、栃木、茨城の奴ら以外にない。ごく常識的な推論で、簡単に辿り着く「結論」だ。 私は十五年前に、マスコミが決して「報道」する事がなかったこの「真実」に気が付いた。その後は、この「真実」を伝えなくてはならないと思い、ネット言論の世界で、命がけで戦ってきた。多くの「埼玉の人々」が、群馬、栃木、茨城から来た馬鹿な下層民の「犯罪行為」や「迷惑行為」の犠牲になっている事を広く知らせることで、多くの「過ち」を未然に防ぐ事が出来たのだと私は信じている。 しかし、状況は変わった。ネット言論の「脅威」を目の前にした「特定関東人」たちは、「かなりの規模」で工作員を投入してきた。これが・・私の「読み」だ。卑劣な群馬県民、栃木県民、茨城県民はスクラムを組んで、ネット空間で我々を「攻撃」してきたのだ。この「攻撃」によりネット言論の世界で「多くの」我々の同志、仲間のサイトやブログが「閉鎖」に追い込まれている。それが「今」である。 我々の戦いは、新たな「局面」を迎えている。群馬、栃木、茨城の馬鹿どもはネット言論の場で工作員を使い、我々の語る真実を「封殺」しようとしているのだ。多くの仲間が、同じ「思い」を抱えていると思う。「特定関東人」の犯罪行為や迷惑行為といった「不都合な真実」が闇に葬られるならば、何も知らない多くの「埼玉の善良な人々たち」が、群馬、栃木、茨城から来た悪党どもの「犯罪行為」に巻き込まれ、「地獄」を見ることだろう。そうだ・・埼玉は地獄の炎に包まれるのだ。 ・・・・・私には見える。愛する故郷、埼玉が、卑劣な敵である群馬県民、栃木県民、茨城県民に「蹂躙」され、「業火」に包まれるのを。・・・止めなければならない。何としてでも、止めなければならない。真実を知った我々にはその「義務」があるのだ。埼玉が「地獄の炎」に包まれる前に、愛埼者である我々は、立ち上がらなければならない!・・・これが、私が諸君に伝えたい「今」のメッセージである。 ワシントン 「・・・・なにこれ・・地獄の炎とか・・なに言ってんの、この人・・」 美園は笑い出した。・・・まあ、普通の反応だ。これがワシントン・・カリスマ性のある愛埼者の書き手・・の文章だ。自己陶酔がギャグの域に達しているのと、やたらと鉤括弧を多用するのが彼の文章の特徴だ(鉤括弧を使うのは何か意味があってのことではなく、二流の言論人の文章の真似だろう。鉤括弧をたくさん使えば、無理な論理展開やおかしな比喩が、なんとなく通ってしまう文章になる。僕の大学時代の教官は、学生が鉤括弧をたくさん使った文章を書くと、こんなものは日本語の文章ではない、と言って本気で怒った)。 「ユウくん、さっき、SNS内で、この愛埼者とかいう人たちが馬鹿にされていた、って言っていたよね」 「馬鹿にされていたよ。だって、言っている事の殆ど全部がこんな調子なんだもの」 「わかるわ〜。なんかさ、少年漫画の世界だよね。これ」 そうだ。愛埼者たちの基本的な世界観は、少年漫画や男の子向けのライトノベルにありがちな黙示録的な世界観そのままだ。 「・・・特にこの地獄の炎とかさ・・・初めの方の、大地と一体化とかも・・本当に何なのこれ。漫画とかゲームにはまりすぎて、どうにかなっちゃった人の言いそうなことじゃん。こんな文章を人前に出して恥ずかしくないの?・・この人」 ・・・美園は、今日初めて愛埼者のことを知った。でも、愛埼者の病的心理の一端を正確に言い当てた。・・・絶望的な世界で救世主となって戦うとかいう少年漫画みたいなストーリーを、現実世界(というより、ネット空間で)で再現しようというのが、愛埼者の目指すところなのだ。愛埼者の語ることの殆ど全てが、少年漫画の世界とストーリーを現実に移しただけの妄想にすぎないのだ。その妄想の中では、愛埼者たちは敵である群馬県民、栃木県民、茨城県民と命をかけて戦っている戦士でいられる。だけど、その妄想の外にいる人たちにとっては、幼稚で馬鹿馬鹿しい話に夢中になっている変な奴らでしかない。 「で・・その戦いってさ、具体的に何をやるのかと思えば、ネットに群馬とか栃木とか茨城の人たちの悪口を書き込むことなんでしょ」 「そう」 「終わっているね。この人たち。色々と」 僕もそう思った。本当に終わっている。だが、『終わっているね』と他人事で済ませられることではなかった。黙示録的世界の戦士であるという自己意識をこじらせた結果、もともとおかしかった愛埼者たちは決定的におかしくなってしまうのだ。僕もその流れに巻き込まれていく。 「ユウくんって、昔からそうだよね」 美園は言った。 「昔から・・って?」 「最初に結論を言わないで、時間軸に沿って順番に話すでしょ。それで、結論は最後に言う」 ・・・気がつかなかった。そうだったのか・・? 「話がとっても長いんだけど・・つまり・・ユウくんは・・」 美園を見た。話が長いとは言ったが・・退屈している様子はない。 「この愛埼者とかいう変な人たちと関わりたくない、っていうのが仕事を辞めた直接の理由じゃなくてさ・・・他にも色々と積み重なって、仕事を辞めた・・って言いたいんでしょ」 「そう」 「それで・・このワシントンとかいう変質者が書いた文章が、どう関わってくるわけ?」 「・・・これを読んだ愛埼者の連中が、この後、陰謀論に熱中するんだよ。それで、事件を起こしてしまうんだ」 カルト的な信条を持つ集団が、何かの挫折を味わった時にやることは古今東西変わらない。陰謀論をひねり出すことだ。 愛埼者のその時の状況をまとめると・・SNS世界で壮絶な袋叩きにあい、そのうちの何人かは職場への通報という形で社会的な死を迎え、ネットのプラットフォームからも検索エンジンからもブログサイトからも排除され、カリスマ性のある書き手は広告収入を絶たれてネット上での言論活動が難しくなっていた。・・・愛埼者たちのコミュニティは、最大の危機を迎えていたと言って良いだろう。 自分たちは正しい。絶対に正しい。その正しい自分たちが、うまくいかないのはおかしい。どこかの誰かが隠れて悪いことをしているのだ。その悪者を見つけ出して倒さないと、状況は前にうまくいっていた頃に戻らない。良くならない。・・・これが陰謀論にはまる人間の思考回路だ。 困難な事態が起こった時に、自己を客観化し、情報収集し、状況分析をすることで打開策を探ろうとすれば、こんな歪んだ思考回路に陥ることはない。自己の客観化もできない、情報収集もできない、状況分析もできない連中が、怠惰に溺れて考えることを放棄した結果にたどり着くのが陰謀論だ。陰謀論者は知性が足りない奴だという意見は、決めつけではない。本当のことだ。 ・・・とにかく・・迷惑で狂った主張をする連中を大手インターネット企業が排除した一連の流れを全く知らない馬鹿な愛埼者たちは(こんなことくらい自分で調べろよと僕は思うけど)、北関東からの工作員が大量に押し寄せ、今にも埼玉を侵略しようとしているとかいうワシントンの扇動をそのままそっくり信じ込んでしまった。そして、この扇動が引き金となり、愛埼者の連中は猛烈な勢いで陰謀論を生み出していくのだ。僕の勤めていたKAMEDAの編集部はこの流れに乗って、せっせと陰謀論を掲載した。・・・・そして最後は大変なことになってしまう。 仕事を辞める理由は三つある、と最初に書いた。給料が安いか、仕事の内容に納得できないか、人間関係が厳しいか・・・。給料が安いのと、仕事に納得ができない事についてはもう話した。最後は人間関係だ。 KAMEDAの編集長兼社長は亀田義人という。・・・はっきり言うけど、亀田以上に品性下劣な人間を僕は見たことがない。 まず病的な嘘つきだった。KAMEDAの記事はネット上での書き手から百円、二百円で買い叩いてくるわけだけど、その理由が、 「愛埼者の皆様に非力ながらも尽力したいと思い、非常に厳しい経営ながらもこの雑誌を発行しているのでございます」 ・・・という口上なわけだ。実際は、月刊誌で原稿料総額が月一万円以内、月の利益が一千万以上の濡れ手に粟な商売だ。亀田は浦和の一等地に家を建て、外車を三台持っていて、いつも似合わない外国製のスーツを着ていた。それでいながら、記事の書き手には、貧しい、苦しい、経営が厳しい、どん底生活の中でも自分の使命を果たすために雑誌を発行しているのでございます、と嘘を並べ立て、記事を買い叩いていた。記事の買い叩きの交渉は、メールのやり取りを介してやっていた。だから、気の毒な書き手は亀田の嘘に騙され続けた。メールの文面からでは、亀田が高級外車に乗っているとか、何十万もするスーツを着ているとかいう事は分かるわけがない。 「埼玉を守るのは、高い志と清廉な心なのです。我々は、先祖から受け継いだこの埼玉の地を、より良くして次の世代に渡す義務があります。お金や物では決して代わりにならないのが、心であり、志です。自分は非力ながら、この心でもって、この志でもって、この身に代えても、埼玉を守っていこうと決意しています」 KAMEDAの最後のページに書いてある『編集長からのたより』というコーナーで、毎号、奴はこんな調子の事を書いていた。よくまあ、ぬけぬけとこんな事を言えたものだ。高い志と清廉な心の持ち主の人間は、特定の地域の住人を根拠なく罵倒する事もないし、下品な中傷をする事もない。その罵倒と中傷をネタに金儲けをする事だってないだろう。 亀田の下に、嶋田、正木という社員がいた。嶋田も正木も、四十代くらいで、独身の男だった。なんていうか・・人生に疲れ切っていて、全身からやる気の無さがにじみ出ていた。彼らの気持ちはなんとなく分かる。僕と同じように、こんな職場で、こんな仕事をしていることに相応の不満があったのかもしれない。見ていて嫌な気分になるのは、これだけやる気がなく不満もあるにもかかわらず、亀田に調子を合わせ、お世辞を言うこともある場面だ。そうかと思えば、亀田のいないところでは、熱心に亀田の悪口を言っていた。 嶋田も正木も、僕の事はまるで空気のように扱った。何かのチェックを指示する時も、無言で、ばさっと紙の束を置いて 「何時まで」 と言って終わりだ。それ以上の会話はない。チェックが終わって資料を持っていくと、僕と目を合わせずにひったくるように資料を取る。一言も喋らない。入社してからずっとこんな感じの関係が続いていた。 僕が職場で会話をするのは吉木さんという五十代の女性の事務員さんだけだった。午前中だけ出勤して、諸々の雑用を終わらせると昼には帰ってしまう。吉木さんと話すのは軽い世間話程度だ。それも、五分か十分かくらいだった。それでも吉木さんと話をする時だけが、僕にとっては職場にいて気持ちが軽くなる時間だった。 まとめると、僕の職場の人間関係と言えば、全く尊敬できない上司がいて、僕を無視して話もしない先輩二人がいる・・といった状況だ(他にも色々とあったが、たいしたことではないから省略する)。快適な職場とは言えない。だけど、これだけの事で辞めることを考えられるほど、僕は自分の能力に自信がなかった。贅沢は言えないのだ。正社員で雇われて安いけど給料が出るだけマシだ。 前に言ったSNSでの愛埼者への袋叩きから始まり、愛埼者が大手ネット会社プラットフォームから一斉追放されたことで終わった一連の流れの後、三ヶ月くらい経った頃から、僕の仕事はストレスフルになっていった。 僕の肩書きは『編集アシスタント』だ。記事の細かいチェックが主な仕事だ。それに加えて、読者や雑誌の購買者からのコメントやメッセージに返信したり、マニュアルに沿って回答したりする仕事もあった。前であれば、来るメールはせいぜい月に数件だった。じっくりマニュアルを見て、貴重なご意見をありがとうございました、というようなメールやメッセージの返信をしていれば、それで良かった。何も起こらなかった。 ところが、困ったメールを送ってくる奴が急に増えだしたのだ。ネット上で愛埼者のグループに参加していて、ネットで群馬県民や茨城県民、栃木県民を馬鹿にする書き込みをしていたことが職場に知られ、クビになった奴がKAMEDAの編集部で雇えというメールを送ってくるようになった。 僕の職務の範疇を越えているので、亀田に相談した。亀田は半日かけて断りのメールテンプレートを作成し、これを適当に変えるなり工夫するなりして、返信しろ、と僕に命じた。言われた通りに返信した。ところが、返信しても返信しても、こいつらはメールをよこしてきた。何度断っても、雇ってくれと言ってくるのだ。 僕は、この頃には、愛埼者という連中は軽蔑しきっていたし、何の共感も持てなくなっていた。まともに話を聞いてやるだけの気力もろくに無かった。だから、奴らのしつこいメールの相手をするのは本当にしんどかった。 送ってくる奴のうちの何人かのメールには、KAMEDAの記事を真似たような文章が添付されていた。その文章の後に、 「自分にもKAMEDAの記事を書ける。これがその証明だ」 というような意味のことが書かれていた。もうなんというか・・馬鹿もいい加減にしろというような内容だった。栃木県民が餃子の食べ過ぎで全身から異臭がする「餃子人間」になってしまったとか、群馬県民がほら穴で怪獣と住んでいるとか、茨城県民は年をとると「納豆じじい」という妖怪になるとかいう 「・・何を言っているんだ、こいつは・・」 と思うような幼稚でくだらない文章が載っていた(亀田のことは尊敬できなかったけど、それなりの質の文章を拾い上げる編集能力だけはあったということが、この一件で分かった)。こんなくだらない文章を書いてお金をもらおうなんて、こいつらは・・・本当に・・・何を考えているんだ。 引き際、というのは美しい日本語だ。この言葉の中に、思いやりや日常生活の知恵、人生の妙味が含有されている。誰かを尊重できる距離をたもったり、自分の身を守り、仲間を危険な目に合わせたりしないようにするため、この引き際、という言葉が生み出されたのだろう。これ以上は踏み越えてはならないというラインを意識する言葉が、引き際、なのだ。 ・・・何回も断られているのだったら、どこかで引き際だと思ってあきらめるのが普通の感覚だろう。このあたりが引き際だ、と思ってやめる感覚が誰にでもあれば、この世界の殆どの人たちはたいした迷惑を受けず余計な苦労もせずに平穏に過ごせるのだ。 とにかく、僕が言いたいのは、断っても、断っても、引き際をわきまえずに同じ事を言ってくる奴は、人の迷惑をまるで考えてない奴だ、ということだ。こいつらのせいで・・この雇ってくれと何度もメールを送ってくる馬鹿どものせいで、一日のうちに何時間もとられるようになった。メールだけではなく、電話もかけてくるようになった。その対応まで僕がしなくてはならなくなった。あの「納豆じじい」の話を書いた奴との電話は、まだ記憶に残っている。 「先日、メールを送りましたが、どうでしたでしょうか」 「貴重なご意見、ありがとうございました」 僕は事務的に答えた。愛埼者という連中に共感が持てない僕は、話すだけでもしんどくなってくる。 「そうじゃなくて・・送った話はKAMEDAに載るんでしょうか」 「失礼ですが、送った話・・とは?」 「メールで送ったじゃないですか!『納豆じじい』の話ですよ!」 いきなり、怒った口調で話す。 「すみませんが、雑誌掲載の件については編集長の亀田が承っております。亀田からメールをお待ちいただけたらと思います」 「いつ来るんですか、それ。今日?明日?三日後ですか?」 永遠に来ないよ。来るわけないだろう。載るわけがないだろう。あんな幼稚園児でも思いつかないようなくだらない話を送ってきやがって。僕は心の中で毒づいた。 「とにかく、お待ちいただけたらと思います」 「代われ」 「・・・?」 「代われよ。お前じゃ話にならないから。その亀田さんに代われ!今すぐにだよ!」 「編集長は、今は留守中です。申し訳ありません」 これは本当だった。亀田はこの時に留守だった。 「あのさあ。こっちは雇ってくれって何回も、何回も頼んでいるんだよ。普通、これだけの熱意を見せれば、雇うもんでしょ。ねえ。違う?」 僕のイライラは限界に近づきつつあった。切れそうになる自制心をどうにかつなぎとめる。お前の理屈だと、ストーカー的な振る舞いをする奴はどこの会社にでも就職できることになるな。 「ご意見はわかりました」 「ご意見はわかりました、って何がわかったんだよ。とにかくさあ、俺の『納豆じじい』を読んだのかよ。傑作でしょ。誰が読んでも面白いと思うでしょ」 『納豆じじい』のストーリーだが・・・茨城の男は年をとると『納豆じじい』という妖怪になり、手で触った人間は納豆になってしまうというものだった。KAMEDAは三流雑誌だ。変質者向けの雑誌と言ってもいい。だが、そのKAMEDAのクオリティをもってしても、この『納豆じじい』の話の掲載は無理だ。絶望的なレベルで話が幼稚な上、少しも面白くないからだ。面白いと思っているのは、書いた本人だけだ。 「繰り返しにはなりますが、編集長は留守です。当社で働くご希望、あるいは雑誌掲載の件については、編集長との相談が必要です。こちらからの連絡をお待ちいただけたらと思います」 「だから、その連絡はいつ来るんだよ!!!」 ・・・僕は、とにかく編集長からの連絡を待てと言って押し切った。そうしているうちに、相手がいきなり電話を切って終わった。こんな調子の電話のやり取りもうんざりしたし、やっても、やっても終わらないメールの返信にもうんざりした。勤務中、途中途中でこう言うやり取りがあるものだから、僕の通常業務は、だんだんと遅れるようになっていく。先輩の嶋田と正木がそれに文句を言い始めた。 「何をやってんだよ。市村(今更だが、僕の名前だ)。なんでチェックができてねんだよ!」 「すみません。ですが・・」 「電話なんか、適当に流しておけばいいだろ」 適当に流せるのだったら、とっくの昔にやっている。 「あなたの要求には答えられない」 という、小学生でもわかる日本語を理解できない奴を相手にして、どうやって流せばいいっていうんだ。編集長の亀田がいない時に一度電話を無視することを嶋田が提案した。そうしたら、一日中電話が鳴り止まない。 「これじゃあ、仕事にならんだろ・・」 結局、僕はその後、電話とメールで馬鹿どもの相手を続けて、時間内に終わらない仕事は残業でこなした。僕はこの一件で、愛埼者が決定的に嫌いになった。もともと嫌いだったけど、親の仇というものはこういうものかというくらいのレベルで嫌いになった。 このメールと電話を繰り返す馬鹿どもの相手をしなければならなくなった時期に、KAMEDAの発行部数は五割増えた。愛埼者たちは、検索エンジンに引っかからない地下サーバーのサイトで交流を続けた。情報のやり取りはできたが、以前ほどの勢いは無い。亀田は愛埼者コミュニティの危機をうまく利用した。愛埼者コミュニティは『特定関東』の工作員たちによって危機に瀕している。愛埼者がいなくなれば、埼玉を守る者は誰いない。そうなれば、埼玉は奴らの破壊活動の前に灰燼に帰すであろう・・それを食い止める希望の星が、雑誌KAMEDAだと宣伝した。亀田は、実に巧妙に雑誌KAMEDAが危機を乗り越える鍵になるんだ、希望の星なんだと読者に訴えかけたのだ。そして、危機なんだから仕方がない・・とかなんとか言いながら、ちゃっかりと値上げをした。値上げと発行部数五割増しで、亀田は大儲けした。火事場泥棒もいいところだ。 「いいじゃん。別に」 美園は言った。私は今、ものすごく馬鹿な話を聞いた・・みたいな表情だった。 「いいのかな」 「いいでしょ。好きでお金使っているんだから。そいつらがさ。騙されていようがなんだろうが、好きで買っているんでしょ。その雑誌。だったら、いいじゃん」 ・・・僕はそういう風には割り切れなかった。なぜかと言えば・・自分は誰の役にも立っていないという感覚に、誰かの不幸を利用しているという感覚が加わったからだ。この嫌な感覚は・・うまく言葉で言い表せない。似たような経験をした人がいたなら、分かってもらえるかもしれない。 「それで、ユウ君の給料は上がったの?」 「上がらなかった。臨時で五千円もらったけど」 「五千円って・・」 美園は、明らかに不満げな顔をした。 「なんで?・・儲けたのに社員に還元しないんだ。その社長」 「そんなもんでしょう」 そんなもんだ。亀田は、自分の才覚で金を儲けたと思っているのだ。しょっちゅう自分の手腕はどうだ、と自慢していた。自分の力で金を手に入れたと思っている人間が他の人間に金を与えることがあるとするならば・・・恵んでやってもいいという気分の時だけだろう。たまたま亀田の気分がいい時に、たまたま僕に五千円を恵んでやった・・ということでしかないのだ。きっと。 「そんなもんねえ・・。とにかく、ユウ君が変な罪悪感を感じることないんじゃない?その愛埼者って奴ら、どうしようもない連中なんでしょう」 「そうなんだけど・・なんか・・とにかく嫌な気分だったんだよ」 何かが引っかかる。はっきり説明できないけど・・あえて言うならば・・。 「こんな火事場泥棒みたいな事をするような会社にもういたくない・・っていうか・・」 美園は、少し何かがわかった・・・という顔をした。少しは僕の気持ちが伝わったのかもしれない。 ・・・僕は、この時期にはまだ会社を辞める事を考えていなかった。確かに、自分が何のために働いているのかとか、誰の役に立っているのか・・というのは大事なことだ。でも、もっと大事な事がある。当面の生活の維持だ。会社を辞めれば、収入が無くなる。今のささやかな生活も成り立たなくなる。再就職だって上手くいくかどうか分からない。僕は、もうこの会社にいたくない・・と思い始めていたが、本気で会社を辞める事を考えていたわけではなかった。だが、最後の打撃がやってきた。
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