第三話 フィクションならフィクションだと言うべきですよね

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第三話 フィクションならフィクションだと言うべきですよね

今年の二月のある日。僕は、メールを見て凍りついた。 「栃木県警察の永井という者です。事実確認のため、回答をお願い致します」 栃木県警察・・・?警察から?・・・なんだこれは・・?僕は、メールを読んだ。自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。 栃木と埼玉との県境、栃木県南端の古河市で、住民からの苦情を受けて、警察が捜査した・・・とあった。古河市と埼玉県の県境は利根川だ。その川沿いの散歩道を自転車での通勤や通学などに使っている古河の市民たちから 「最近、不審者がいる」 という通報が度々あったという。警察は、何度かパトロールをした。ある時、川辺の草むらの中や橋の下に男たちが潜んでいたので、職務質問をしようとしたが・・逃げられた・・ということだった。しばらくして通報が来なくなった・・・と思っていたところに、立て続けて二件の傷害事件があったという。 一人は四十代の全寮制の高校の寮母さんで、買い出しに行った帰りだった。自転車の前かごにペットボトルのお茶やジュースを積んで、自転車を転がしていたところ、川辺の草むらの中から突然三人の男たちが現れ、囲まれた。 「それは毒だな!・・・お前は毒を流そうとしているんだろう!」 と叫んで、寮母さんを突き飛ばし、ペットボトルのお茶やジュースの蓋を開けて、辺りに撒き散らした。寮母さんは突き飛ばされて地面を転がったところにコンクリートの地面に右腕をぶつけて骨折した。 もう一件は、三十代の男性会社員だ。休日に家で酒を飲もうと酒屋から日本酒の大きいボトルを買って川辺を歩いていたところ、男たちに囲まれ、殴られ、蹴られ、ボトルの酒を地面に撒き散らされたという。幸い、身体は打撲だけで済んだ。だが、メンタル面で問題を抱えリハビリ出勤をしていたところに突然の暴力を受けた結果、メンタルが悪化して会社に出勤できなくなってしまった。一度目の寮母さんの時は逃げられたが、二度目の会社員の時には犯人が現場に財布を落としていたので、それを手がかりに一人は捕まえたということだった。 ・・・・同じだった。最近、愛埼者が熱心に議論している陰謀論だ。埼玉の県境の利根川の浄水場で、栃木の工作員たちが埼玉県民の飲む水に恐ろしい毒を入れている。その工作員たちは、一般市民に偽装していて、毒をお茶やジュースのペットボトルに入れている(一般人には外見からは見分けがつかないが、愛埼者には工作員かどうかが分かる、ということになっていた)。この毒を飲んだ埼玉県民たちの何人かが発症し、栃木県民に脳を操られ、犯罪を犯してしまうという話だった。KAMEDAにも連続三号にわたってこの陰謀論を掲載していた。愛埼者の書き手は、今すぐにでも行動を起こして、毒を入れる栃木県の工作員を見つけて始末しないと、脳を操られた人たちの犯罪が多発し、埼玉全土が地獄になるだろうと煽りまくっていた。 変わりつつある「今」・・「行動」の先にある「希望」 特定関東・・・群馬、栃木、茨城の工作員たちのネットでの「弾圧」に対して「思い悩んで」いる「時間」は無くなりつつある。奴ら工作員の手によって、多くの「同志」たちのブログやサイトが「閉鎖」に追い込まれた。その「ダメージ」から、まだ、「完全に」我々は「回復」したわけではない。しかし、「今」は変わりつつある。 特定関東による「攻撃」が「激しさ」を増している。「危機」はもう、すぐそこまで来ているのだ。「卑劣で邪悪な」栃木の工作員たちの毒の脅威は、私は「真実」だと考えている。このまま、奴らの「毒」によって「脳を操られた」気の毒な多くの埼玉の人々が、自らの意志と「関係のない」犯罪行為を犯すようになれば・・・・想像もつかない戦慄の「未来」が待っているだろう。この重大な「犯罪行為」をマスコミは「決して」報じない。知っているのは「我々だけ」なのだ。 我々の「道」は二つに分かれている。・・・埼玉全土が「地獄の炎」に「包まれる」のを、「黙って見ている」か、それとも「立ち上がる」か、だ。「無気力」と「傍観」の先には、「絶望」がある。「行動」の先には「希望」がある。 ワシントン ・・・ワシントンはこう書いていた。他の書き手も同じような事を言っていた。今すぐにでも行動を起こし、浄水場に毒を入れる栃木の工作員を見つけてやっつけないと大変な事になる・・そんな事ばかり言っていた。KAMEDAはこういった煽りの文章を、かなりのページ数を割いて掲載していたのだ。 読んでいるうちに本当に恐ろしい気分になってきた。・・・僕は、その栃木県警察の永井さんという人からのメールを、読むのをやめようか・・と思った。だが、最後まで読んだ。目を背けて知らないふりで済ますわけにはいかない。なにしろ、怪我人が出ているのだ。 永井さんのメールには、捕まえた犯人の家を捜索したところ、KAMEDAという雑誌が見つかり、今回の傷害事件の動機としてかなり疑わしい記事が載っていた、とあった。そして、事実関係の確認のため連絡した・・という事だった。永井さんが確認したい事実は二点だという。 浄水場に栃木県の人間が毒を入れている、という話の根拠は何か。根拠があるなら、証拠となるものを提出してほしい。この件についても必要なら捜査をする。 KAMEDAに掲載されていた「行動しろ」あるいは「立ち上がれ」とはどういう意味か。これは栃木県民への無差別暴力を意味している、と考えてよいか。もしそうならば、犯罪教唆ということになるので、この件についても捜査が必要となる。 ・・・読み終わった時にはめまいがした。本当に大変ことになってしまった。どうすればいいのかまるで分からない。・・だから、亀田に相談した。 亀田は、メールを一読すると、手で何かを払いのける動作をした。軽い嘲笑を浮かべた。この反応に、僕は驚いた。そして・・ 「だから、何なんだよ。市村」 「・・・?」 ・・・亀田は、僕を嘲笑を浮かべたまま睨んだ。 「何をビビってんだ。お前。これだからお子様は困るんだよ!」 「しかし・・実際に、KAMEDAを読んだ人が栃木で、その・・傷害事件起こして警察に逮捕されていて・・」 「お前、バカか?」 「・・・・ええ・・?」 「自己責任だろ!自己責任!・・・KAMEDAを読んだ奴が勝手に事件を起こしたんだろ。自己責任だろ。俺たちには、なーんの関係もないだろ」 僕は、亀田の言った事が信じられなかった。自己責任?・・自己責任って・・。嶋田が亀田に聞いた。亀田がおおよその成り行きを嶋田に説明した。 「市村。編集長の言う通りだ。自己責任だ。俺たちには関係ない」 嶋田が言った。 「しかし・・」 「しかし・・じゃねえよ。いいんだよ。警察の言いがかりなんか放っておけばいいんだ」 「そうだそうだ」 正木が乗っかった。 「お子様もそろそろ卒業しとけ。警察が百パーセント正しいとかガキみたいな事言ってねえで、仕事しろよ」 僕は、警察が百パーセント正しいなんて言っていない。これは大変な事態なのではないか、と言ったのだ。だが、亀田も、嶋田も、正木も、我々には何の責任もないし、そもそも真面目に取るような問題ではない、警察の言う事なんか無視していればいい・・と言った。そして、亀田は栃木県警察の永井さんのメールを無視するように僕に言った。 ・・・これがどんな結果になるかと言えば・・・。 「・・・さっき、ユウくんの言っていた陰謀論が、そこに繋がるわけ」 美園は、何かを怖がるような表情をした。 「そう」 「・・・・警察から連絡が来ているのに、無視しろとか・・ほんっとに・・馬鹿じゃないの。やばくない?」 「やばいよ。その後が大変だったんだから」 美園は、怒ったような、怖がるような・・そんな表情をした。そうなるだろう。ネット上の言葉のやり取りではなく、現実の暴力事件にまで事態が発展してしまったのだ。 「本当にさ・・・最悪な奴らだね。愛埼者って」 「そもそもさ、こんな低級な陰謀論を雑誌に熱心に載せるべきじゃなかったんだよ」 「それで、散々、煽って・・今すぐになんとかしないと大変な事になるって言っていて・・それを信じた人達が事件おこしちゃったら自己責任って・・おかしくない?」 「僕もおかしいと思うよ。今でも納得できない」 美園は、フウーッ・・と大きなため息をついた。 「ユウくんの行っていた会社の奴らってさ・・どこまでも腐りきっているんだね。本当に最低・・。いるんだ・・そんな最悪な人たちが・・」 ・・・亀田と嶋田と正木が、本当に最低な行動をとるのはこの後だ。 栃木県警察の永井さんのメールを無視して三日後の午前十時頃。吉木さんが、真っ青な顔をして仕事場に入ってきた。 「警察の方が来ています。栃木から来たとかって・・」 亀田は、僕を睨んだ。 「お前が対応しろ。市村」 「・・・?」 「お前が対応するんだ!いいな!」 返事を待つまでもなく、亀田は椅子を蹴って立ち上がった。そのまま、机の脇に置いてある上着とコートを掴むと、非常口に猛然と向かっていった。そのまま非常口の扉が開き、亀田は扉の向こうに消えた。 呆然としている僕の脇を嶋田と正木が通って行った。非常口のドアが開く音がして、嶋田も正木の姿は消えた。・・・意味が分からなかった。どういうことだ・・。 会社の玄関に行くと、三十代後半くらいの背の高い眼鏡をかけた、細身で髪を伸ばした男と、二十代後半くらいの、がっしりした背の低い坊主頭の男がいた。二人ともダークグレイのスーツを着ている。 「栃木県警察の永井です」 背の高い眼鏡の男が言った。 「・・・編集アシスタントの市村です」 すぐには返事ができなかったが、頑張って答えた。永井さんは、坊主頭の方を指して言った。 「こちらは山田です」 僕は、山田さんにも挨拶をした。 「・・・編集長から話が聞きたい。メールを送信したのだが、返ってこないものでね」 永井さんが言った。 吉木さんが、二人を応接室に案内した。僕は、亀田に電話をした。・・・電話がつながらない。 「編集長は不在なんですか」 「すみません」 「今日は休業日ですか?・・・なら出直しても良いが・・」 「違います」 「なら!なぜ編集長がいないんだ!」 「いま・・今、電話をしているところです」 僕は亀田に電話をした。何回かけてもつながらない。十回、十五回、二十回・・つながらなかった。僕は自分の足元が崩れていくような感覚に陥った。ものすごい恐怖だった。どうすればいい・・どうすればいいんだ・・。 「すみませんが、編集長は不在です。電話も繋がりません」 「なら、他の社員を呼んでください。編集長の代わりに話がわかる人を」 「他の社員も誰もいません。今、会社にいるのは僕だけです」 山田さんが永井さんを見た。顔をしかめている。永井さんは、僕をまっすぐに見た。眼鏡越しに見える切れ長の目が、僕を真っ直ぐに見た。僕は・・文字通りに震え上がった。 「市村君といったね・・」 「はい」 「あんまり我々を甘く見るなよ。君みたいな下っ端一人残して誰もいない・・なんてことが、平日のこの時間にあるわけないだろうが。普通の会社で・・」 ・・・少し永井さんは黙った。やがて・・。 「やまだああああ!!!」 建物全体に響き渡る大声だった。 「はいいいいい!!!!」 山田さんも大声で答えた。 「今日は木曜日だ!木曜日だ!つ、ま、り、平日だ!平日だよなあああ!!」 「はい!平日です!」 「時間は!時間は!午前十時、ご、ぜ、ん、じ、う、じ、だ!それで間違いないな!正確には午前十時十三分だ!!」 「はい!間違いありません!」 「普通の会社なら!!下っ端一人で!他に誰もいねーなんてこと!あるわけないよなああ!!えええええ!!」 永井さんは、山田さんの前襟を思い切りつかんだ。 「はいいいいい!!ありませんんん!」 山田さんが絶叫した。・・・冗談抜きで怖かった・・。こんな恐ろしい目にあったことは・・・これまでの人生で一度も無かった。そして・・ようやく分かった。亀田も嶋田も正木も・・・あいつらは全員・・・逃げたんだ。 その後も、僕は亀田、嶋田、正木に電話をしたが、全く繋がらなかった。 「もういい。座りたまえよ。市村君」 永井さんが言った。(来客が椅子に座ることを促すことが)変な感じがしたが、僕は、恐ろしくてたまらなかったので、永井さんの言うとおりにした。応接室のソファに机を挟んで永井さん、山田さんと向かい合った。 「コンプライアンスの問題があるから、我々は言葉には気をつけなければならない。だけどな・・」 永井さんは僕を見た。じぃっと見た。 「これだけは言わせてもらおう。繰り返すが・・我々を甘く見るなよ。我々の仕事は遊びでも冗談でもないんだ。メールも無視され、こちらから出向いたら、もぬけの空・・っていうのは、いくらなんでもねえ、ふざけすぎだよ。私もあまり経験がない。ここまで甘く見られるのは」 ・・・僕は何も答えられなかった。 「市村君。君はまだ若いから教えてあげるよ。何か問題がおこった時に、自分のやったことを正々堂々と言わない奴は、『俺は何か悪いことをしたが、それをあんたらに隠している』って、言っているのと同じ事なんだよ」 「そうですか・・」 「そうだよ。こちらの印象は最悪だ。二回も逃げられたんだから。・・これはクロだなって思ってしまうよ。それにね・・個人の感想・・と断りを入れておくけど、君の会社の・・このKAMEDAという雑誌は本当に最悪だな。生まれも育ちも栃木県の私としては・・・はっきり言って、許せないね。この雑誌の書いてある事は」 永井さんは、カバンから雑誌を取り出すと、前の机にばさっと投げ出した。・・・栃木県の工作員が浄水場に毒を入れている、という陰謀論を特集した号だ。 「市村君。この雑誌に書いてある、栃木の人間が浄水場に忍び込んで、埼玉の人たちが飲む水道の水に毒を入れている話は本当かね」 「・・・・わかりません・・」 「わからないとはどういう事だ。君たちが出している雑誌じゃないか」 「うちの雑誌の記事は・・・ネットで書いているライターの記事をそのまま載せているんです。事実関係はチェックしていません」 山田さんが、クスリと笑った。永井さんが山田さんを睨んだ。 「何がおかしいんだ?山田?」 「・・・永井さん。・・事実関係なんてチェックできるんですかね。こんな、くっだらねえ・・超絶アホな話を」 山田さんは、フハハハハ・・と笑い出した。膝を手で打つ。永井さんは黙って山田さんを見ている。 「そもそもですね・・永井さん・・この話、パクリです」 「パクリとはなんだ。山田」 「二十年前に流行った怪奇オカルト漫画に、これとほぼほぼ同じ話があるんですよ。悪い奴が浄水場に毒を入れて、それを飲んだ市民が脳を操られて、互いに殺し合いをするとかいう話が。・・・殺し合いのところは、微妙〜に変えていますけどね・・フハハハハハ」 ・・山田さんは、すいません、すいません・・と何度も言いながら、笑い続けた。 「ククク・・・いや・・この・・個人的にはですよ・・殺し合いのところが、『犯罪を犯してしまう』っていう風に微妙〜に変えてあるところがまた・・」 山田さんはブーッと吹き出した。・・・知らなかった・・・僕はプライドを傷つけられた気分になった。落胆する。・・僕の仕事は・・見る人から見たら笑い者にされるようなものだったんだ。 「すみません。市村さん」 山田さんが言った。 「いえ・・そんな・・」 「うちで市村さんの会社の雑誌・・KAMEDAを分析しました。陰謀論みたいな記事のほとんど全てが昔の都市伝説の改変か、マイナーなアニメや漫画、B級特撮物のストーリーのコピーです。失礼ですけど、こんな馬鹿な話を、よくぞここまで集めたものだと感心しましたよ」 山田さんは、ようやく笑うのをやめた。永井さんは全く笑わない。氷のような表情のままだ。そして・・僕はまた、プライドを深く傷つけられた気分になった。僕だって、このKAMEDAという雑誌が馬鹿馬鹿しい話ばかり載せている雑誌だってことは知っている。だけど、それを山田さんに言われると こんな雑誌を作っている会社にいるお前も、どうしようもない馬鹿なんだよ。 ・・と言われたような気分になった。 「山田は笑っているけどな、これは笑い事じゃないんだよ。市村君」 永井さんは、KAMEDAを手にとって、ページをめくった。 「一人目の被害者の寮母さんはね、昔、若い頃に就職した工場でひどい暴力を受けたんだ。その後、PTSDで十五年も病院通いをして苦しんだという話だ。体のあちこちに傷を負ったことが負い目になって、結婚もできなかったし、まともな就職もできなかった。ようやく、五年前から高校寮の寮母さんに雇われて、静かに暮らしていたんだ。それが・・」 永井さんは、KAMEDAの紙面を人差し指で叩きながら言った。 「突然、川辺で男たちに襲われた。それで、せっかく手に入れた静かな生活も終わるかもしれないって話なんだよな。骨折した上に、PTSDの再発もあるって話だ。職場復帰ができるかどうか分からない。・・・私は思うんだ」 永井さんは天井を見た。 「・・・・なんで、この寮母さんは、こんな理不尽な目にあったんだろうか・・となあ・・」 ・・・少し和らいだ恐怖が戻ってきた。静かな話し方だったが・・明らかに永井さんは怒っていた。よく見ると眼鏡の横の静脈が、はっきりと浮かんでいる。 「もう一人の会社員の男性も同じだよ。中学高校といじめを受けていて、それでもどうにか高校卒業後は就職して、真面目に働いていたってことだ。職場のハラスメントや業績悪化のあおりを受けてメンタルを病んでしまった後に離職を余儀なくされた、って本人は言っていたな。だが、自立しようという意志が強い方でね、程なく再就職してリハビリ出勤をしていたんだ」 永井さんは眼鏡を直した。 「・・・それが、殴る蹴るの暴行を受けて・・・幸い打撲だけで済んだんだが・・・メンタルの問題が悪化して、また出勤できなくなってしまったんだよ。この人が、一体、何の悪い事をしたっていうんだろうか・・私は考えるわけだ。市村君」 「・・・そうだったんですか・・」 「そうだったんだ」 永井さんは、眼鏡をまた直した。 「それで・・その・・我々は、どういった事をすれば良いのでしょうか・・」 山田さんは、またクスリと笑った。 「永井さん。私の方から言いますよ。市村さん。このKAMEDAという雑誌に書いてある記事は・・・・あなた方は本当のことだ、と考えているわけですか?」 「ネット上での書き手から記事を買って書いているので、事実確認はしていません」 「では、本当のことではない・・という、ことで良いですか?」 僕は、なんて答えたらいいのか分からなかった。 「本当のことではない・・つまり、作り話であるなら、『この雑誌の記事はフィクションであり、実際の地名や団体、個人とは何の関係も無い』と明記してあるべきですよね。このKAMEDAという雑誌には、その断り書きが無いですよね」 ・・・山田さんは、表情を崩したままだ。 「市村君」 永井さんが言った。 「はい」 「メモしたまえよ。これが一番大事なことだ」 僕は、ジャケットのポケットからメモ帳とペンを出してメモをした。 「つまりですね・・・市村さん。もし、何かトラブルがあったとして、このKAMEDAという雑誌編集部のスタンスが問われるわけですよ。この雑誌記事の書いてあることが事実だ、本当に起こったことなんだ、とあなた方が仰るならば、しかるべき場で、証拠を提示しないといけません。そうでないなら、フィクションだ、作り話だ、ただの嘘っぱちなんだ、と宣言すべきです」 「・・・なぜ、それが大事なことなんですか?」 「推理マンガで起こった出来事を議論している人たちが、実際の殺人事件の被害者や加害者について何か間違った事を言った・・と言って罪に問われる事はありえませんよね。『金田一の読み通り、犯人はあの糞野郎だった』ってネットに書き込んだら、『あの殺人事件のことを言ったのか』と因縁つけられて逮捕されるなんてこと、ありえますか?ないですよね。・・ところが、実際の被害者や加害者を根拠もなく『外国人の仕業だ』とか『被害者はどこどこの政治家の愛人だ』と言った場合に、それが明確な嘘だったとしますよ?・・そうなると場合によっては罪に問われる・・って事は理解していただけますよね。この例えでわかりますか?」 ・・・僕にはわかった。しかし、これは・・まずい・・まずいだろう。記事はデタラメなんだから証拠を提出することはできないし、かと言って、全部作り話だって宣言したら、ビジネスモデルが崩壊してしまう。KAMEDAの記事は、何から何までデタラメのファンタジーでしかない。でも、愛埼者たち向けには、一応は現実世界で起こっていることなんだ・・ということにしてある。そういうことにしていないと、読んでもらえない。作り話だけど、作り話じゃないんだ、と信じ込んでくれる連中がいるから、KAMEDAみたいな雑誌が商売になるんだ。だけど、実際に被害者が出ているならば、商売がどうとか言っている場合ではない。KAMEDAの煽り記事ときたら、栃木県民を殺せと言わんばかりの論調のものもあるのだ。 「山田の言ったことはわかったか?市村君」 永井さんが言った。 「今回の案件は、非常に微妙な案件なんだよ。だから事情聴取に来たんだ。・・・私はね、愛埼者という連中がいること自体知らなかったわけだが・・・彼らの議論が全くの架空のもので、現実世界と全く無縁な、仮想世界での『群馬県』や『栃木県』、『茨城県』のことを話しているのであれば、今回の事件は現実と夢の世界が区別できなくなった奴の仕業、ということで片付けられる」 永井さんがまた眼鏡を直した。 「だが、現実世界のことを話しているのであれば、このKAMEDAという雑誌がやっていることは、風説の流布と破壊活動の計画、無差別暴力の教唆ということになるんだ。・・・メールにも書いたけど・・・」 永井さんは、KAMEDAを広げて、パラパラとページをめくった。そして、僕の前に、あのワシントンの文章を見せた。 我々の「道」は二つに分かれている。・・・埼玉全土が「地獄の炎」に「包まれる」のを、「黙って見ている」か、それとも「立ち上がる」か、だ。「無気力」と「傍観」の先には、「絶望」がある。「行動」の先には「希望」がある。 「・・・この文章の『立ちあがる』とはどういう意味だ。これは、栃木県民への無差別暴力を示唆しているのか、それとも違うのか・・」 「・・・わかりません」 「質問が難しかったかな?・・・なら、簡単に言おう。『栃木県の人間に、暴力を振るうべきだ』と言っているのか?・・それとも違うのか?」 ・・・僕は、何も答えられなかった。頭が回らない。軽いパニック状態だ。永井さんが口を開きかけた時、 「・・・市村さん。きちんと答えた方が良いですよ。あなたが答えられなくても、会社としては答えた方が良いと思います」 山田さんが言った。 「理由を言いましょう。永井さんの言う通り、これは微妙な案件なんですよ。言論の自由も絡む話ですから。でもですね、もし、黙って何も言わないなら、検察や被害者の言い分がそのまま通ることだってありえるんです。つまり、これは、あなたの会社が嘘を広めて、読者に栃木県の人間を襲え、とそそのかして、その結果として、被害者が傷害事件に巻き込まれた。このストーリーで罪状や賠償額が決まってしまうこともありえます」 山田さんがまた、クスリと笑った。 「もちろん・・市村さんの会社がそれでも良いというなら、我々としてもそれで構いませんよ。『KAMEDAという雑誌は、特定地域の住人への誹謗中傷を繰り返したのみならず、無差別暴力を強く教唆した結果、甲と乙の傷害事件が発生した』・・報告書にこう記載するだけですから」 ・・・僕は、シャツの背中が冷や汗で濡れていくのを感じた。 「市村君」 「はい」 「メモしたまえよ。これも大事なことだ」 「わかりました」 僕は、震える手で、どうにか山田さんの言ったことをメモした。 「山田の言ったことは分かっただろうね。・・・とにかく、編集長が帰ってきたら、我々が言ったことを話すんだ。その上で、しかるべき回答と対応をしてもらいたい」 永井さんが、また眼鏡を直した。少し何かを考えるような目で僕を見た。 「山田は脅かしたが、結局、被害者はなんだかんだで、軽症だからな。今回に限っては大事にはならないと思う。だがな・・次は無いぞ。もし次に、重傷者や死亡者が出る事件が起これば・・・・どうなるか覚悟しておけよ」 永井さんは、スーツのラペルを直した。ソファから立ち上がった。山田さんも立ち上がった。僕も、腰を上げた。 「今回のことは、警告だと思ってもらいたい。このまま、市村君の会社が、我々を無視したまま、我々の質問にも答えず今まで通りの事を続けて・・・それで事件が起これば」 永井さんは、僕をじっと見た。震えが来た。冗談抜きで怖かった。 「どういう事になるか、本当に覚悟しておけよ」 ・・・美園の顔は青白かった。 「・・・ユウくん」 「・・・美園?」 「そんな大事になっていたなんて知らなかったんだけど。なんで教えてくれなかったの」 「まだ大事にはなってないよ。ここで永井さんと山田さんの警告通りにうちの会社が動いていれば、まだ良かったんだよ。ここで引き返しておけば・・」 「でも警察が来たんだよね」 「うん」 「警察が来ただけでも私の中では大事なんだけど・・」 「警察が来たって言っても、別に、逮捕するとか告訴するとかそんな話じゃないんだよ。永井さんも山田さんも・・後から分かったことだけど・・善意で警告をしに来てくれたんだよ。このままKAMEDAが陰謀論とか煽り記事を載せるのをやめないと、重大事件が起った時に本当に大変なことになるからやめておけ、ってさ」 具体的には、KAMEDAの記事は全くの嘘なんだ、フィクションなんだと宣言して、KAMEDAの煽り記事を信じ込んで行動を起こしている馬鹿どもをとめろ・・と永井さんも山田さんも言っていたのだ。 「・・・それでユウくんの会社の人は、その警察の人の言った通りにしたの?」 「しなかったよ」 「聞いている私でもこれはやばい、って思うけど、やめなかったんだ。ユウくんの会社」 「やめなかった。やめておけばよかったのに・・・」 ・・・そうだ。ここでやめておけばよかったんだ。引き返しておけば良かったんだ。引き際という言葉を知らないのは、迷惑なメールやら電話をよこす馬鹿どもだけじゃなかった。亀田も、だ。 永井さんと山田さんが帰った後、その日は亀田も嶋田も正木も編集部に姿を現さなかった。僕は、夜の九時まで編集部で待ったが、諦めてその日は帰った。 翌日、三人とも来た。僕は、亀田に報告した。ほぼ、永井さんと山田さんの言った通りのことを亀田に伝えた。だが・・。 「お前、バカもいい加減にしろよ。この低脳が」 亀田はまた、嘲笑を浮かべた表情で僕を睨んだ。 「警察ごときにビビったのか。お前は。・・・わけが分からない事を言うな!」 「しかし・・」 「いいか。昨日も言っただろ。自己責任なんだよ。KAMEDAを読んだ奴が、どこで何をしようが、それは読んだ奴の自己責任なんだよ!何回も言わせるな!この馬鹿が!」 「でも・・待ってください・・!」 「うるさい!黙れ!・・この臆病者のネズミが!警察ごときにビビるような根性無しが、この俺に話しかけるな!」 嶋田が、会話に入ってきた。 「編集長の言う通りだ。市村。それはな、警察の横暴だ。お前みたいなビビリな臆病者は、すぐそうやって警察の言うことを信じ込むからダメなんだよ」 正木も入ってきた。そして、警察の横暴だ、言論の自由の侵害だ、腐った警察も政治も改革が必要だとかなんだとか、グダグダと言った。そして・・・ 「市村。お前は、本当にビビリのチキン野郎だな」 「そうだ。臆病者が」 「何、ビビってんだよ。恥ずかしくないのかよ」 「死ねよ。腐れチキンが」 「そうだ。死ね。お前みたいなビビリのネズミ野郎はな、死ねばいいんだよ」 「なんで警察の下っ端の奴らごときにビビってんだよ。お前。市村」 「そうだ。なにビビってんだ。バカじゃねえの」 それっきり、その場は沈黙となった。僕は、ひたすら白けていた。臆病者?チキン?・・・お前ら三人とも警察が来たって分かった瞬間、非常口から逃げたじゃないかよ。それで、強面の刑事二人をたった一人で相手にした僕を臆病者だのチキンだのと罵倒するのか? そして・・また亀田は同じことを言った。自己責任だと。KAMEDAの陰謀論や煽り記事を信じ込んだ読者が、関係ない人たちを襲ってもそれは自己責任だと。そんなわけがない。そんなわけがあるか。おかしいだろう。どう考えても。 僕は、なんか・・もう・・いいかな・・という気分になっていた。やめるか。こんな職場、本当にやめてやるか。やってられないよな。こんな仕事。こんな職場。 ・・・・認知科学では、今の時点での状態やこれまでの積み重ねが、客観的な評価以上に良く見えてしまい、なかなか現状を変えられない事を サンクコストにとらわれる と表現するらしい。サンクコスト・・つまり、海に沈んでいく無駄になってしまったお金や労力のイメージだ。これは、認知の歪みとして様々な実験やデータで裏付けられているらしい。嫌だと思っていてもなかなかKAMEDA編集部に勤めていた僕は、まさにサンクコストにとらわれていた状態だった。 ・・・・しかし、維持するに値しないほどに現状がひどいものになれば、沈んでいくお金や労力が汚らしいゴミに見え、沈め、さっさと沈んでしまえ、二度と浮かび上がってくるな、という心情になるようだ(この比喩には環境活動家からは文句が来そうだが)。就職難だからとか、お金の心配がとか、当面の生活の安定が・・といった思案自体が、不潔で邪悪なもののように僕には思えてきた。亀田を見て思った。こんな腐った奴のもとで働いた金で生活を維持することは・・絶対に間違っている。・・やめよう。やめるべきだ。こんな仕事。もういいだろう。つきあいきれるかよ。こんな連中に。 その日の夕方、永井さんから電話があった。 「どうなったんだ。市村君」 「ダメでした」 永井さんは、ふんっ・・・と鼻を鳴らした。 「どういう意味だ。ダメだった・・とは」 「永井さんと山田さんの言った通りのことを編集長と先輩に伝えましたが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした」 「・・・市村君」 「・・・はい・・・」 「よくよく・・いーい度胸をしているよな。君の会社の上司は」 背中がゾクゾクとしてきた。電話口からでも永井さんが怒っているのが分かった。 「市村君」 「はい」 「・・・厳密にはこれもコンプライアンス違反になるが、言っておいてやる。前科者になりたくなければ、その職場から離れることだな」 「・・・実は・・・」 「・・・実は、なんだ?」 「この仕事、やめようと思います」 「その方がいいぞ。君の身の安全のためには」 「・・・すみません。永井さん」 僕は、どうして謝ったのか分からなかったが、永井さんに謝りたい気分になった。 「君が謝ることはない。市村君はやるべきことはやったんだし、君は下っ端だからな」 「ありがとうございます」 その後、永井さんは、何かあればここに電話するように、と言って電話番号を教えてくれた。僕は、メモをして、大事に財布の中に入れた。 ・・・翌日から何がどうだったのか、記憶が曖昧だ。二週間、仕事を続けたけど・・・何をやったかほとんど覚えていない。とにかく・・二週間仕事に行った後、やっぱりもう仕事を続けるのは無理だという結論は変わらないことに気づいた。その二週間が終わると、僕は仕事に行かなくなった。 仕事に行かなくなってから六日間、僕は風呂にも入らず、トイレと軽く何かを食べる以外はずっと布団で寝ていた。何もやる気が起こらない。テレビすらつける気がしなかった。このまま十日くらい仕事を休んで、気持ちが持ち上がったら辞表を書いて、郵送で送るか会社のポストに入れておくか・・そんな事を漠然と考えていた。どうやっても、何があっても・・僕は二度とKAMEDA編集部に戻る気は無かった。 色々と精神的に限界だったようだ。群馬県と栃木県と茨城県の人を馬鹿にする記事を作るも疲れたし、KAMEDAの編集部で雇え、と脅しのようなメールや電話をよこす馬鹿どもの相手をするも疲れた。品性下劣で尊敬できない亀田のもとで働くのも疲れた。僕を相手にせず、口を開くのは罵倒する時だけの嶋田と正木の存在にも疲れた。KAMEDAの読者を嘘の煽り記事で騙しておきながら、それを信じて行動を起こしても自己責任だ、という亀田の理屈にも納得できなかった。もっと納得できないのは、亀田も嶋田も正木も、警察が来た時に自分たちは逃げたくせに、後で僕のことを臆病者だのチキンだの散々に馬鹿にしたことだ。 もう一つ。後で効いてきたのは、山田さんの存在だった。僕より一つ、二つくらい上だろうか・・と想像していたが・・とにかく僕と同年代だ。同年代なのに、僕とは何もかも違う。理路整然と話し、先輩にも意見を言い、それでいながら物腰も柔らかだ。そして、何というか・・全身からプロフェッショナルな空気が出ていた。焦りを感じた。そうだ。しっかりした職場で、しっかりしたトレーニングを受けて、プロとして現場で働いている同年代の人たちは皆、山田さんのように立派に社会に貢献し、知識と経験を積み上げているのだ。それにひきかえ・・僕は、変質者向けの雑誌編集部で働いていて、人の役に立つどころか人の迷惑になるような事ばかりやってきた。その上、ろくな知識も技術も身についていない。僕と山田さんの差は、とんでもなく大きなものなのではないだろうか。・・・考えれば考えるほど、やりきれない気分になってきた。
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