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第四話 愚かな勇者は子供たちを救うためにお好み焼き屋に突入した
僕が仕事を休んでいる間に、永井さんと山田さんの警告を全く無視することにしたKAMEDA編集部は、最新号を発売した。陰謀論や煽り記事もそのままだし、この雑誌の記事はフィクションだ、と断りを入れることもなく、これまで通りに発行した。
仕事に行かなくなって六日目の晩、パソコンをつけ、インターネットのポータルサイトを開いた。・・・僕は、目を疑った。とんでもないニュース記事が目に入ってきたのだ。
宇都宮市内のお好み焼き屋店主、金属バットで殴られ重傷
二月二十三日午後九時頃、宇都宮市内でお好み焼き屋を経営する井村康隆さん(68歳)の店に男が押し入った。男は金属バットで井村さんの頭を強く殴った後、妻である井村雅代さん(64歳)の背中を殴った。その後、店内を荒らしているところを近所の住人が発見し警察に通報した。男は現場に急行した警官に取り押さえられた。男は「隠し部屋はどこだ」という意味不明な発言を繰り返していたという。井村さん夫妻は病院に搬送されたが、夫の康隆さんは意識不明の重体だという。警察は、殺人未遂の容疑で男を現行犯逮捕した。今後、動機について調べる方針だという。
読んだ瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。・・・最後の文末の
今後、動機について調べる方針だという。
という文字が何度も、何度も、僕の目の前で踊った。永井さんの言った通り、本当に大変なことになってしまったのだ。
KAMEDAが半年前から特集している『お好み焼き屋ゲート』という陰謀論がある。ストーリーは少し複雑だ。浄水場に毒を入れるとかいう陰謀論よりも話が入り組んでいる。
群馬県や栃木県、茨城県の悪口を言う事で愛埼者たちのアイドルになった政治家がいる。その中でも一番人気が高いのが、天田錦二という埼玉県議だった。この天田という政治家について語るべき事はほとんど無い。三つの事柄を述べれば、それが全てだと言ってもいいくらいだ。
世襲のボンクラで目立った学歴もなく、社会に出てから業績もぱっとしない。
郷土愛がどうとか、美しい埼玉を作ろうとか観念的で夢みたいな事ばかり言っていて、実務に疎い。
汚職と身内やお友達へのカネのばらまきに熱心で、地元メディアから常に疑惑の追求をされている。
マックス・ウェーバーは政治家を理想家と実務家の二つに分けたが、第三のタイプも作っておくべきだった。それは、
いない方がいい無能者
だ。汚職とカネの疑惑で始終追求されているくせに、自分の事は棚に上げて、郷土愛が大事だの、埼玉は美しい県だとかいう中身の無いことばかり話し、実務の上では何もしない政治家は、『いない方がいい無能者』に分類されるべきだ。・・・とにかく、この天田が・・愛埼者が埼玉を救う救世主として崇拝している政治家だった。
ここからが陰謀論になる。天田は常に汚職とお友達へのカネのばらまきで追求されていたが、実はそれは『影の埼玉県』と言われる悪の集団が、天田を罠にかけて潰そうという策謀だ、という。群馬県、栃木県、茨城県から来て埼玉県人になりすまし、埼玉を内部から崩壊させようとする『なりすまし埼玉県人』たちに操られた悪の組織『影の埼玉県』とたった一人で戦って埼玉を守ろうとしているのが天田だ、というのだ。すでに、『影の埼玉県』の息のかかった奴らが何十人も埼玉県上層部に潜り込み、絶望的な状況だという。
埼玉を救う救世主の天田を追い詰めている悪の組織『影の埼玉県』は、埼玉県の子供たちを密かに誘拐し、栃木県にある洗脳施設に送りこみ、埼玉を敵として戦う戦士になるように洗脳教育をしている。その施設では、虐待や拷問が日常的に行われている。誘拐されたかわいそうな子供たちは、一般市民に偽装した『影の埼玉県』の協力者によって密かに洗脳施設に送られている。その偽装した協力者の実態をつかむのは困難を極めた。だが、一部の愛埼者たちは、ついに協力者を見つけ出した。それは・・・宇都宮市内にあるお好み焼き屋だという。あるお好み焼き屋には隠し部屋があって、そこにたくさんの埼玉の子供たちが監禁されていて、ここから洗脳施設へ送られているというのだ。誘拐された子供たちが閉じ込められているお好み焼き屋を見つけ出し、洗脳施設の実態を暴き、悪の組織『影の埼玉県』を倒さないと、埼玉がいよいよ危ない。救世主の天田が『影の埼玉県』の手で葬られた後は、埼玉を救う者は誰もいない・・・これが、大体のストーリーだ。この陰謀論には『お好み焼き屋ゲート』という名前がついていた。栃木県民が浄水場に毒を入れている陰謀論と同様、その宇都宮市内のお好み焼き屋は、普通のお好み焼き屋に偽装しているが、愛埼者なら『影の埼玉県』の協力者だと見破れるということになっていた。
KEMEDAは半年にわたって、この『お好み焼き屋ゲート』の陰謀論を特集し、読者に行動を促すような煽り記事(永井さんの言葉に直すと栃木県民への無差別暴力の教唆)を何十本も掲載していたのだ・・。
「・・・というわけなんだ」
・・・美園は、ぽかーんという表情をしていた。
「・・美園?」
「・・ユウくん・・」
美園は唾を飲み込んだ。
「・・なんかもう・・色々と私の想像力を超えている」
想像力を超えている?
「そんな・・無駄に壮大で馬鹿馬鹿しいマンガみたいな話、現実にあると思って行動を起こしちゃう人がいるんだ・・。ついていけない。もう・・」
美園は一口お茶を飲んだ。
「・・・ここに来る前はさあ、なんでユウくんは仕事辞めちゃったのかなー、って思っていたけど、今は逆だよ。なんでユウくんは、そんな職場で仕事続けたの?もっと早くに辞めることは考えなかったの?」
「言ったじゃないか。就職難だしさ。次が見つかるか分からないし」
「それでも・・なんか・・ひどすぎでしょ・・」
ひどいのは分かっている。十分に分かっている。僕は下っ端とはいえ、そのひどい連中のやっている事に加担していたのだ。僕に何ができたか・・というと何もできなかっただろうけど・・・。
ニュースを見た後、ぼんやり曇った僕の頭は、一気に晴れ渡った。・・・これは、大変な事になってしまった。とにかく・・何かをしないといけない。僕にも責任があることなのだ。
正直、恐ろしかったけど、財布の中からメモを引っ張り出し、永井さんに電話をかけた。これは、嫌だとか恐ろしいとか・・・そんな事を言い訳にして逃げて済む話ではないのだ。
「もしもし」
「すみません。永井さんですか。市村ですっ」
喉が詰まった。だが、どうにか声を絞り出した。
「ニュースを見ました。宇都宮で、お好み焼き屋の店主が殴られて・・大怪我をして・・それで・・・それで・・・」
その後は言葉が続かなかった。しばらくの沈黙の後、永井さんが言った。
「・・・まあ、落ち着け。落ち着きたまえよ。市村君」
「・・・はい」
「電話してきてくれたことに礼を言うよ。これから君と会って話ができるか?」
「わかりました」
時計は午後十一時を回っていた。永井さんは、近所の深夜営業のファミリーレストランに来てくれることになった。僕は『お好み焼き屋ゲート』を特集しているKAMEDAのバックナンバーを持ってくるように永井さんに頼まれた。本棚からKAMEDAのバックナンバーを探してカバンの中に入れた。シャワーを浴び、着替えた。一時間後に永井さんは来る・・と言っていたが、僕は早めに家を出て、永井さんと待ち合わせたファミリーレストランに向かった。いろんな事が頭に思い浮かんだが、何一つ考えとしてまとまらなかった。
午前零時をすぎた頃、永井さんは来た。
「市村君。今回は助かった」
助かった・・?
「KAMEDA編集部に何度連絡しても相変わらず無視されている状況でね。あの後、山田と二回行ったのだが、吉木さんという事務員さんしかいない。事務員さんに話を聞くのは無理だ。KAMEDAの編集の仕事には全く関わっていないということだったし、午前中しかいないっていうからな」
「そうだったんですか・・」
・・・亀田も嶋田も正木も・・・僕のことをビビリだの、臆病者だの、死んでしまえ・・とか言ったくせに、あの後も永井さんと山田さんが来たら非常口から逃げていたんだな。警察にビビっているのはお前らの方じゃないか。
「一昨日の事件のことで確認作業をしようにも、協力が得られないんでどうにもならないんだ。市村君」
「一昨日・・?」
「あれ・・?宇都宮でお好み焼き屋店主が襲われた事件のことで、私に電話してきたんだろ。君は」
僕は、携帯電話の画面を見た。二月二十五日・・あれは・・あれは・・一昨日の事件だったのか・・・。
「すみません。曜日の感覚が・・その・・一週間くらい仕事を休んでいたんです」
「そうか。・・だいぶお疲れのようだな」
永井さんは僕と向かいの席に座るとカバンからクリアファイルを取り出した。中から紙を取り出す。
「お疲れのところすまないが、先に用事を済ましておきたい。確認したいんだが、これは本当のことかね」
栃木県警察 担当者様へ
今回、栃木県内でお好み焼き屋店主が襲われた事件について、当社の発行する雑誌KAMEDAとの関係を疑う様な事が言われておりますが、当方としては大変心外に思います。
確かにKAMEDAには『お好み焼き屋ゲート』という案件に関する記事を掲載していました。しかし、これらの記事は編集アシスタントの市村雄一が独断で掲載していたものであり、編集長である亀田及び編集スタッフの嶋田も正木も全く感知していません。繰り返しますが、『お好み焼き屋ゲート』の関連記事については、取材から掲載まで全て市村がやったことであり、他のスタッフは一切関わっておりません。
被害にあわれた方には申し訳ありませんが、当方KAMEDA編集部の意見としては、『お好み焼き屋ゲート』の関連記事の掲載は、市村という編集スタッフの独断、暴走の結果でしかありません。したがって、今回の件については市村個人の責任に帰するもの考えております。雑誌KAMEDA及び市村以外の社員に何ら責任は無い事を、ここに明言します。
KAMEDA編集部 亀田義人、嶋田光一、正木恒雄
永井さんが僕に見せたのは、プリントアウトしたメール文だった。一読したが・・・本当に最悪の気分になった。亀田も嶋田も正木も、三年間は毎日職場で顔を合わせていたわけだけど・・・ここまで最低の事をする奴らだとはこの瞬間までは思っていなかった。そうか。僕一人に『お好み焼き屋ゲート』の責任をおしつけ、自分たちは逃げようというわけか。事件が起これば下っ端の僕に全部責任をおしつけて逃げる気なのか。もう少し元気だったら、怒りが湧いてきたのかもしれないけど、精神的に疲れきっていた僕の心に湧いてきたのは・・・圧倒的な虚しさだった。
・・・こんなクズみたいな奴らに関わって、僕は三年間も無駄にしたんだ・・。
僕が仕事をした三年の間・・群馬県や栃木県、茨城県の人たちを馬鹿にして、中傷して嫌な気分にさせただけではなかった。読者を陰謀論や煽り記事で騙し、扇動して警察沙汰の事件まで起こさせてしまったのだ。結局、得をしたのはうまく金儲けをしたKAMEDAの編集部の奴らだけだ。その奴らと言えば・・・扇動記事を読んで読者が事件を起こせば自己責任だと逃げ、警察が事情聴取に来れば非常口から逃げ、自分たちのせいで殺人まがいの暴力事件が起こってしまったというのに、今度は下っ端の僕に責任をなすりつけて逃げようとしているのだ。
永井さんは眼鏡をなおした。
「常識的に言えば、ありえないことだけどな。普通の雑誌で、編集長が下っ端に独断で記事を掲載させて、しかもそれを把握していないなんてことは」
「ここに書いていることは・・事実じゃありません」
「記事の掲載を決めていたのは、誰だ」
「編集長の亀田です」
「君は、どの記事を載せるべきだとか意見を言ったことはあるか?」
「一度もありません」
ウェイトレスが注文を取りに来た。深夜だから来るのが遅い。僕も永井さんもコーヒーをホットで頼んだ。永井さんは、緑色の罫線が入った紙と万年筆を取り出し、書き始めた。
「市村君の具体的な業務は何かね?」
「記事にある細かい項目のチェックです」
「繰り返すが、KAMEDAのなんの記事を載せるか、について何か意見を言ったことはないんだな」
「ありません。そもそも、何か意見を言って聞いてもらえるような雰囲気は、働いていて一度も感じたことはないです」
「なるほど」
永井さんはその後、KAMEDA編集部の業務内容などを僕に質問した。僕は正直に答えた。ネットの記事を買い叩いている、記事のほとんど全部がデタラメであり、編集長の亀田もそれを分かっている・・・といった事も永井さんに言った。永井さんが次に聞いたのは『お好み焼き屋ゲート』についてだった。僕は、KAMEDAのバックナンバーの記事を見せながら、『お好み焼き屋ゲート』がどういった話なのか説明した。
「ようやく理解できた。つまり・・・この犯人の動機というのは、お好み焼き屋の主人が埼玉の子供たちを誘拐して監禁している、と信じ込んだからなんだな」
「そうだと思います」
「なるほど」
・・・僕の行動を見て、仲間を警察に売った、という人がいるかもしれない。だけど、『お好み焼き屋ゲート』の責任は全部僕にある、という嘘のメールを亀田、嶋田、正木は警察に送ったのだ。こいつらを仲間だと思う気持ちも、守る気も、僕は全くおこらなかった。それよりも気になることは・・何の関係もないお好み焼き屋の店主が金属バットで頭を殴られて生死の境をさまよっていることだった。僕は、どうしても永井さんに協力しなければならないと思った。KAMEDAの陰謀論や煽り記事は『お好み焼き屋ゲート』だけではない。KAMEDAの記事を信じ込んだ馬鹿どもがまた栃木県や群馬県、茨城県の無関係な人たちを襲うようなことになれば・・・本当に大変なことになる。永井さん・・いや、警察の力でそれをとめることができるなら、僕はとめて欲しかった。本当にとめてくれ、と思った。あらためてKAMEDA編集部のやっていた事の極悪さを痛感した。KAMEDA編集部の金儲けと引き換えになったのは、群馬、栃木、茨城の人たちの身の安全だ。KAMEDAの煽り記事にだまされた馬鹿な読者が、無関係な群馬や栃木、茨城の住人をまた襲って・・場合によっては人が死ぬかもしれないのだ。
「お好み焼き屋の店主は、三ヶ月前から我々に被害届を出していたんだ」
被害届・・?
「その店主は『全く身に覚えがないのに、子供を返せとか、誘拐犯は死ね、というような電話やメールがひっきりなしに来て困っている』と言っていた」
「・・・そうだったんですか・・」
「この店主に怪しい経歴は一つもない。恨みを買うようなこともしていないし、もちろん、子供の誘拐なんてやるような人じゃないんだよ。私は店にも行った。山田と一緒にな。お好み焼きを食ったんだが、キャベツは地元農家の誰々さんから・・卵は誰さんからもらいました・・とか言いながら焼いてくれてね。うまいんだ。店主の人柄が、そのまま料理に出ているような感じなんだ」
永井さんは眼鏡を直した。
「・・・なんかな・・なつかしい味がしたんだ。何か・・大事なことを思い出させてくれるような・・なつかしい味なんだよ。地元の常連客にも、この店主はよく気を配っていた。誰々さん・・お孫さんは小学校に上がったんだね。誰々さん・・娘さんの結婚式はどうだったんだい。こんな風に一人一人のお客さんを覚えていて、一人一人に温かい言葉をかけていたんだ。なぜ・・」
永井さんは、言葉を切った。眼鏡の奥の目が悲しそうだった。
「なぜ・・こんな人が・・・金属バットで殴られて・・状況によっては死ぬかもしれない目にあうんだろうか・・。なぜだ・・私は思うんだ。なぜなのか・・と」
僕の喉元を罪悪感がせり上がってきた。
「・・・すみません」
「市村君が謝ることはない。これは、どちらかと言えば・・不幸な事故と言ったところだ。ただな・・事件に巻き込まれて新聞に載るような被害者の方というのは、名前だけの存在じゃないんだ。一人一人が実在する人間で、その人なりの人生なり幸福があるんだ。暴力事件に限らず犯罪に巻き込まれるということはな・・そういった人たちの人生や幸福が、理不尽に奪われるという事なんだよ。よく覚えておいてくれ」
「わかりました」
・・・永井さんは見た目も雰囲気も恐ろしいけど・・・実際は話を良く聞いてくれる人情家だった。僕の話も、真剣に、遮る事なく聞いてくれた。
永井さんが、KAMEDAの記事を指して言った。
「この記事についてなんだが・・」
『影の埼玉県』の「陰謀」を阻止せよ。最後の「チャンス」を逃してはならない。
いよいよ『影の埼玉県』による「埼玉焦土化作戦」が始まりつつある。埼玉全土が「地獄の炎」に焼かれるのをただ、「指をくわえて眺めている」だけでいいのだろうか。そんなわけがない!
知ってのとおり、我々、愛埼者にとっての「最後」の「希望の星」である天田綿二県議が、「腐れ左翼」の野党により「汚職」の「追求」をされている。マスコミは「報道」しないが、我々は「すでに」真実を知っている・・・この「腐れ左翼」の野党の正体は、実は埼玉を「内部から破壊しよう」とする『影の埼玉県』だ。たった一人で『影の埼玉県』と戦ってきた天田県議が奴らの「毒牙」にかかって倒れたら、埼玉の「崩壊」は確実となる。だが、「希望」は残されている。何としても『お好み焼き屋ゲート』の「真実」を暴き、『影の埼玉県』に「一撃」を加えてやらねばならない。
この瞬間にも、天田県議を追い詰めるための奴らの「謀略」は「シナリオ通りに」進んでいる。そして、埼玉県の子供たちも「奴ら」によって誘拐され、監禁されて「洗脳施設」で虐待と拷問を受けているのだ。運良く、我々は『お好み焼き屋ゲート』を探り当てることに「成功」した。だが、残されている「時間」はわずかだ。『影の埼玉県』が、我々が『お好み焼き屋ゲート』に気づいたことに察知して、子供の誘拐ルートを「変えて」しまったら・・・真相は永遠に「闇の中」となる。
この「状況」を知って、まだ「傍観者」でいようという気がある諸君に伝えたい「言葉」がある。
「無気力」と「傍観」の先には、「絶望」がある。「行動」の先には「希望」がある。
・・・今、我々は立ち上がる時だ。「傍観者」でいることは、もう「許されない」のだ。
ワシントン
「・・つまらないことを聞くけどな・・市村君」
永井さんは眼鏡を直した。
「このワシントンという奴の記事の・・やたらと出てくる鉤括弧にはどういう意味があるんだ」
「意味はないと思います」
「意味がないのに、なぜ鉤括弧を使う?」
「真似です。これが二流の言論人の文章の書き方で・・その真似だと思います。鉤括弧をたくさん使うと、なんとなく賢い事を言っているような文章になるんです」
「なるほど」
永井さんは、また緑の罫線の入った用紙と万年筆を用意した。
「確認になるが、KAMEDAの記事というのは、ネット上で活動している連中に書かせているんだな」
「そうです」
「この連中にコンタクトを取る方法を探していたんだが・・・検索サイトにも引っかからないんだ。どうしたらいい?」
「ネット検索には引っかかりません。サーチエンジンの運営会社が検索結果を表示しないようにしていますから。このKAMEDAの号に、書き手のウェブサイトのリンク一覧があります」
KAMEDAは隔月ごとに愛埼者の書き手のリンク一覧を掲載していた。メールアドレスもだ。眼鏡の奥の永井さんの目が輝いた。
「・・・これは・・ありがたい・・。助かった・・市村君」
「・・僕は、お役に立てたでしょうか・・」
「ああ。KAMEDA編集部にいくら連絡を取ろうとしても・・完全に無視されているからな。そうなると、記事を書いている奴に直接コンタクトを取るしかない。ところが、いくらインターネットで探しても、連中のサイトが見つからなかったんだ。本当に助かったよ。市村君」
永井さんは、書き手のリンク一覧とメールアドレス一覧を、時間をかけて紙に書き写した。そして、携帯電話のカメラで五回、そのページを撮影した。
「永井さん」
「なんだ。市村君」
「今回のこと、本当にすみませんでした。僕は・・」
僕は、一瞬ためらった。だが、勇気を出す。
「僕は・・こんな大変なことになっていて、自分もそれに加担してしまったのに、何もできません。本当に無力です。でも、すごく責任を感じているんです。KAMEDAの記事を信じた連中が、栃木の人たちをまた襲うなんてことがあれば・・」
僕は唾を飲み込んだ。
「・・・栃木の人たちをまた襲うなんてことがあれば・・僕は・・本当にどうしたらいいか分かりません。永井さん。お願いです。止めてください。奴らの暴力から栃木の人たちを守ってください。僕は・・僕は・・」
うまく言葉が出てこない。やっとの思いでこれだけ言ったけど・・その後が続かなかった。
「・・・市村君の気持ちはよくわかった」
永井さんが、眼鏡を直した。その後、スーツのラペルを直した。
「こういった案件だと・・・暴力事件を未然に防ぐというのは難しいこともある。すまないが、栃木の市民を必ず守るという約束はできない。だが、我々は最大限の努力をする。次の犠牲者を生まないように、あらゆる手を使うつもりだ」
「ありがとうございます」
「礼を言いたいのはこっちだよ。市村君が捜査に協力してくれたおかげでなんとかなりそうだ」
・・・この時、僕はやるべきことをやった・・と思った。自分の行動が間違っていたとは、その後も思わなかった。時計を見ると午前三時半だった。その後少し話をした後、僕は永井さんと別れた。
美園は、なんとなく怒ったような雰囲気だった。
「・・・それってさあ・・」
美園は一呼吸置いた。
「それって、ユウくんがやることなの?会社の上の人がやることなんじゃないの?」
美園の言う『それ』は、警察の人と会って話をすることだろう。
「さっきも言ったじゃないか。上の人は警察が来ても無視して逃げていたんだって。それに、僕が勝手に『お好み焼き屋ゲート』の記事を載せたって嘘のメールを警察に送ってさ・・・僕に全部責任をおしつけて逃げる気だったんだ」
「・・・最低・・・」
美園はイライラしたような表情をした。
「・・・本当に最低だね・・・」
本当に最低だ。幸いなことに、僕は仕事を辞めると決意したことで、その最低の奴らとは縁が切れた。亀田、嶋田、正木・・・こいつらとは二度と会うことはないし、会ったとしても僕は他人のふりをするだろう。これで終わりになれば良かった。・・・だが、そうはいかなかった。もう一人の最低男が、最後の最後に登場するのだ。
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