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第五話 この彼がカリスマであること自体、状況としてシュールすぎませんか
永井さんと会った後の三日間も、同じように僕は布団の上で過ごした。何もやる気がおきない状態は変わらなかった。僕はあまり早起きをすることはない。だけど、四日目の朝、午前五時に目が覚めた。この日の朝はとても爽快な気分だった。・・・この十日間でこれまで心に溜まっていた毒みたいなものが抜けたのかもしれない。
僕はパソコンをつけた。辞表の書式をインターネットで検索した。プリントアウトして、辞表を書く。職場に荷物は残していない。辞めると決めたその日に段ボールの中に入れて、全部運び出した。辞表を郵便で送ってもいいものだろうかと一瞬考えたけど、どうしても職場には行きたくないという結論になり・・結局、郵便で出すことにした。
久しぶりに読書をした。アーネスト・ヘミングウェイの小説「老人と海」・・この小説の結末が、この時の僕の気分と重なった。長い時間をかけたとてつもない労苦が全くの無駄に終わった時の失望の深さ・・・まさに今の僕の心境だった。前に読んだ時は、僕はこの小説をよく理解できなかった。だけど、この時は・・わかった気がした。
本を閉じ、コーヒーをいれようと台所に行こうとした時、電話が鳴った。職場からだ。出たくなかったので、出なかった。そうすると、二回目が鳴った。二回目も出なかった。三度目。僕は覚悟して出ることにした。
「もしもしっ。市村さんですか?」
事務員の吉木さんの声だった。
「そうですけど。・・吉木さん?」
「お願いです。今から来てください。市村さんが仕事を辞めるって話は聞いているんです。でも、ダメなんです。私ではダメなんですっ」
「ダメって・・何がダメ・・なんですか?」
吉木さんの声と混じって、男の声がした。怒鳴り声だ。
「私では、分からないんです。そう言っても聞いてもらえないんですっ」
「あの・・編集長とか・・嶋田さんとか他の人は・・?」
「皆いないんです!ここにいるのは、私一人だけですっ。どうしたらいいか、私、分からないんです!」
よく分からないけど、まずい事態らしい。吉木さんは完全にパニック状態だ。男の怒鳴り声がまた聞こえた。行きたくないけど・・僕は行くことにした。辞表をカバンに入れる。どうせ職場に行くなら、辞表を持って行こう。郵便代がもったいない。
職場に着くと、応接間に男がいるのが見えた。上はスウェットシャツ。下はジョガーパンツにサンダル。眼鏡をかけて、小太りだった。うろうろと歩いている。吉木さんの言う通り・・・誰もいなかった。亀田も、嶋田も、正木もいない。吉木さんは給湯室にいた。小声で話した。
「ありがとうございます。市村さん」
「何があったんですか」
「あの・・なんか変な人が来て、話があるとかなんとか言っていて・・」
吉木さんは、ものすごく嫌な顔をした。
「突然、わけがわからないことを怒鳴りだしたんです。私、すごく怖くなって編集室に行ったんです。そしたら、亀田さんも嶋田さんも・・あと、正木さんも非常口から走って逃げて行ったんです。その後、いくら電話しても繋がらないんです」
・・・あの時と同じだ。永井さんと山田さんが来た時と、全く同じだった。
「私じゃ分からないから、後でまた来てくださいってお願いしても、あの人帰ってくれないんです。私は、もう・・どうしたらいいか・・」
僕は応接間に行った。・・・嫌だけど、仕方がない。吉木さん一人を残しておくわけにはいかない。何とか説得して、帰ってもらおう。
「すみません。市村と申します。今月で退職になりますが、事務の吉木から電話があって来ました。用件はどういったことでしょう」
男は、振り向いた。眼鏡の奥の目が怒りで燃えている。
「お前らだな。俺を警察に売ったのは。そうだろう!」
「・・・すみませんが、どういった・・」
「警察から連絡が来たんだよ!・・俺はな・・『ワシントン』だよ!」
その男・・ワシントンはソファにどっかと腰を下ろした。僕も向かいに座る。こいつがワシントンか・・こいつが・・。嫌悪感がこみ上げてきた。
「栃木のお好み焼き屋のジジイがさ、金属バットで殴られるとかいう事件があっただろ」
ワシントンはにやついた。
「ええ」
そのにやけ顏とまるで他人事のような口調にかちんときた。なんだその態度は。お前が散々に煽り記事を書いたせいで、馬鹿なKAMEDAの読者が暴走してこんなことになったんだろうが。
「それでさ、警察の奴らからメールが来たんだけど。迷惑なんだよな。はっきり言って」
迷惑?
「俺には関係ないじゃん。栃木のジジイが金属バットで殴られて死のうがさ。なあ?」
「でも・・失礼します・・あなたは『お好み焼き屋ゲート』の記事を熱心に書いていましたよね」
「こんなことになるって知っていたら、俺は、ああいう記事は書かなかったなあ」
・・・・・?
「聞こえなかったのかよ。お好み焼き屋のジジイが、金属バットで殴られるって知っていたら、俺はああいう記事は書かなかったんだよ」
「意味がわかりません」
「お前、バカなのか?もう一度言うぞ。お好み焼き屋のジジイが襲われるって知っていたら、俺は『お好み焼き屋ゲート』の記事なんて書かなかったんだ。だから、俺には責任は無い。理解できたか?このバカ」
何を言っているんだ。こいつは。・・・バカはお前だろ。
「あなたの言っていることは・・・『テストの答えを事前に知っていたら、自分は百点を取れたんだ』・・・って事と全く同じですよね」
「やかましいんだよおおお!」
いきなり怒鳴った。別に怖くなかった。何度も脅迫まがいの電話の対応をさせられたおかげで、無駄に度胸がついたようだ。
「とにかく、困るんだよ。『お好み焼き屋ゲート』の記事を読んでさ、本当にお好み焼き屋のジジイを襲いに行く馬鹿が行くなんて事は、こっちは想定してないんだよ。警察とか来られても迷惑なんだよ」
僕は、イライラしてきた。どうせもう愛埼者なんていう連中に関わる事はないんだ。言おう。言ってしまえ。
「そう言えばいいじゃないですか」
「はあ?」
「だから、そう言えばいいじゃないですか。警察に」
「なんだそれは」
「言えばいいでしょうよ。あなたの言葉の通りに。『自分は、お好み焼き屋の主人が襲われるって知っていたら、KAMDAの煽り記事なんて書かなかった。これは想定外の事態だし、あんたらに来られても迷惑なんだ』って警察に言えばいいじゃないですか。なんで言わないんですか?」
ワシントンは、しばらく黙った。僕をにらんでいる
「・・お前・・」
「はい」
「俺を誰だと思っているんだ。俺は『ワシントン』だぞ」
・・・だったら何だ。愛埼者とかいう迷惑な馬鹿どもの間でカリスマになっていようが、僕にとってはただの変質者でしかないんだ。お前は。
「・・・話に戻りましょうか。用件は何でしょう」
「おい!人の話を聞いているのかよ!・・・お前!・・俺は『ワシントン』なんだぞ!その態度はなんだよ!」
「用件がないなら、お引き取りください」
「お前はあああ!」
「これ以上、用件がないままここにいてもらっても業務妨害です。迷惑です。警備会社に連絡しますが、いいですか?」
「・・・」
ワシントンは、肩で息をしていた。相当に頭に来ているようだが・・僕には関係ない。こいつの八つ当たりに、僕はつき合うつもりはない。
「・・・本当にふざけんなよ。お前ら・・・」
ワシントンは、両手の拳を握りしめた。
「このビルの駐車場にさあ・・外車がとまっていたんだけど。あれは何だよ」
・・・亀田の外車だ。一千万円近くはするはずだ。
「外車だけじゃねえよ。この会社の中も・・コーヒーメーカーやら空気清浄機やら・・テレビだってこんなにでかいだろ。おかしいだろ。経営が厳しくて、自転車操業しているんじゃなかったのかよ。カネが無かったんじゃなかったのかよ」
・・・亀田の嘘に騙されていたことに怒っているようだ。
「KAMEDAの経営が厳しいって言うから、原稿一つ二百円だか三百円で我慢していたのに、蓋を開ければこれかよ。儲かっていたのに嘘をついていたんだな。お前らは」
亀田は確かに嘘つきだ。だが、お前だって嘘つきだ。嘘つきのくせに、他人の嘘を許せないとか言うな。
「その件については亀田編集長に確認してください」
「その亀田編集長はどこにいるんだよ」
「今日は帰りました」
「平日の昼間だろ?何でいないんだよ!」
「とにかく、編集長はいません。後日、メールで確認してください」
「おい・・人を騙していたくせに、それはないだろ。なあ」
「残念ですけど、僕にはとりつげないんです。僕は下っ端だし、この会社を辞める人間ですから。それに、ここにも警察が来ましたけど、その時も編集長は帰りました。今回と同じです」
「逃げたってことかよ」
「そうかもしれないですね」
ワシントンは呆然とした表情だった。
「・・・なんなんだよ。お前らは・・」
ワシントンの表情はこわばったままだった。僕の言葉が引っかかったようだ。
「じゃあ、ここの編集長は警察に話はしてないのかよ」
「僕はしました。編集長はしていません」
「他の奴らは?」
「警察と話はしていません」
「・・・で、お前は辞めるんだよな」
「辞めます」
「お前・・警察に何を話したんだ」
「KAMEDAの編集部の業務内容と『お好み焼き屋ゲート』のストーリーがどういったものなのか、だけです。警察の質問内容はこの二つだけでした」
「・・・どうなっているんだよ。この会社は・・」
こいつが何をしに来たのか、僕にはだいたい分かった。
「話を戻しますが、ご用件は何ですか」
「・・警察に言え。俺は無関係だとな。『お好み焼き屋ゲート』には、俺は一切関わってない、全くの無関係だ、って警察に言うんだ。そう言え」
やっぱりな。そう来たか。
「・・・あなたのところにも警察から連絡が来たんですよね」
「来たよ。だったら何だ」
「ご自身でそう言うのは駄目なんですか?」
「俺が自分で無関係だって言っても意味ないだろ!バカなのか!お前は!」
「KAMEDA編集部が、あなたが『お好み焼き屋ゲート』に関係していないって言えば、警察はそういう方向で納得するだろうって考えているんですね。でも・・」
僕は、一息入れた。
「・・・警察が納得しなかったら、どうしますか?」
「やかましいんだよおお!」
ワシントンは怒鳴った。憐れみに近い感情が僕の心に湧いてきた。その男から出ているオーラは・・・圧倒的とも言えるかっこ悪さだった。ものすごくダサかった。この瞬間、世界一かっこ悪い男はこいつなんじゃないかと思えてきた。
要するに、こいつ・・ワシントンが言いたい事は・・
・・・自分の煽り記事に騙されたKAMEDAの読者が暴力事件を起こしたことに責任を取りたくない。警察にも自分が無関係だってことにして見逃してもらいたい。だけど、自分で警察に言うのが怖いから、KAMEDA編集部にかわりに警察に言ってもらいたい。
・・という事だ。情けないにも程がある。こんな事を頼みに来て・・恥ずかしくないのか・・こいつは・・。やたらと怒鳴るのは、警察に怯えている事を隠すためだろう。
「とにかく、コミュニケーションの行き違いって事もあるじゃないですか。伝言ゲームみたいに。我々が警察の方に話をして、それであなたが本当に無関係だと向こうが信じない場合だってあるわけです。逆に、我々がそう主張した事によって、間違ったメッセージが伝わることだってあります。・・・だから、結論としては、あなたご自身で直接、警察の方とやり取りする方が良い、と僕は思います」
「それじゃ、困るんだよおお!」
ワシントンは足を踏み鳴らした。小さい子供みたいに。
「なんとかしてくれよおお!お前らがああ!!」
「今言った事は、僕の意見でしかありません。後日、編集長・・亀田と連絡を取ってみて、確認してください」
「なんとかしろよおお!」
ワシントンは顔を真っ赤にして、体を揺すぶった。駄々をこねている子供の動作だ。あまりの見苦しさに僕は目をそむけた。四十歳くらいの眼鏡の中年男が、人前で駄々をこねているのを見るのは、心地よい体験ではないことは確かだ。
だんだんと、腹が立ってきた。このワシントンは、ネット上の愛埼者のコミュニティではカリスマなのだ。埼玉を守るだの、敵対する群馬県、栃木県、茨城県の工作員と命がけで戦ってきただのと勇ましいことばかり言ってきた(美園の言葉に直すと、ネットで他県の住民の悪口を書き込んでいるだけだが)。それが・・・現実世界では、実際にトラブルが起これば、自分じゃ怖くて対処できないから他の誰かにやってくれと泣きついてくる奴なのだ。まるで大きい赤ん坊だ。僕は、愛埼者という連中は軽蔑しきっていた。だけど、連中の崇めるカリスマがこんな奴だったと知って、少しだけ気の毒な気持ちになった。こんな男に騙されてきた奴らこそ良い面の皮だ。
ワシントンが駄々をこねるのをやめるのを待って、僕は話しかけた。
「これも、僕の意見ですが、今回の事は・・もしかしたら人が死ぬかもしれないんです。宇都宮のお好み焼き屋の店主は、頭を殴られて生死の境をさまよっているって話なんです。責任とかどうかは司法関係者が判断するとして・・我々としては、誠実な対応をすべきなんじゃないでしょうか」
ワシントンは笑い出した。
「なにその、誠実な対応って?」
「僕の意見と断っておきます。正直になにがあったのか、どういうことだったのか隠さずに開示することが、誠実な対応だと思います」
「はははははは」
ワシントンはまた笑った。
「お前さ・・」
ワシントンは、右手で鼻をこすった。
「ははははは・・・お前・・仮に、ジジイひとり死んだらって・・それがなんだって言うの?」
「どういうことですか」
「栃木の田舎のお好み焼き屋のジジイが殴られて死んだから・・なんだってんだ。俺の中では単なる笑い話でしかねえよ。それは。ははははは」
笑い話・・・?笑い話だって・・?
「何、辛気臭いツラしてんだよ・・・・このバカ。よく聞けよ。ジジイひとり死んだら、なんだってんだよ。ガキみたいなこと言ってるんじゃねえ!」
「・・・・・」
「いいか。よく聞け。このガキ。この社会ってのはな、厳しいところなんだよ!お前みたいなお子様の言い分なんか通用しねんだよ!どこの誰だか知らねえジジイひとり死ぬくらい、どうってことはねんだ!ジジイが殴られて死ぬくらいのことで、いちいちグダグダ言うお前みたいなガキは、この厳しい社会じゃ生き残っていけねえんだよ!わかったかよ!このガキが!」
「・・・・」
「それとな、俺は確かに『お好み焼き屋ゲート』の記事を書いたよ!・・だけどな!・・お前はバカだから何度でも言ってやるが・・こんな事になるって知っていたらな、『お好み焼き屋ゲート』の記事なんて書いてねえよ!だから、俺に責任はない!俺には関係ない!迷惑なんだよ!・・・警察とかなんとか!お前らが何とかしろよ!」
・・・お好み焼き屋の店主が死にかけている事を、この男は平然と『笑い話だ』と言い放った事に、僕は軽く戦慄した。どうなっているんだ。こいつの頭の中は。・・・それに言っていることがおかしい。・・・僕は考えた。論理的に考えた。
まずは、背理法で行こう。起こった事象が、仮に起こっていないとする。
(A)『お好み焼き屋ゲート』という嘘話が存在しないとしよう
(B)そして、この嘘話を煽る輩もいないとしよう。
(C)当然ながら、お好み焼き屋の店主を襲う動機だって存在しない。
(D)したがって、お好み焼き屋の店主を金属バットで襲う馬鹿もいない。
この論理を転倒すれば、KAMEDAが『お好み焼き屋ゲート』なる嘘話を煽ったから、お好み焼き屋の主人が襲われた、ということになる。この因果関係がある限り、KAMEDAもKAMEDAの関係者も責任を免れることはできないはずだ。僕は、KAMEDAの社員だったことで責任を感じた。だが、このワシントンという男は・・KAMEDAに煽り記事を何度も載せていたのに、自分に責任はないと言い張り、お好み焼き屋の主人が殴られて死んでも、それは『笑い話』であり『どうってことはない』というのだ。
それに、僕が『事前にテストの解答を知っていれば、百点を取れたんだ』と同じ事だと指摘したのに、また同じ事を言っている。『お好み焼き屋の店主が襲われるって知っていたら、煽り記事を書かなかった、だから自分に責任は無い』と。これは・・・おかしいだろう。
(A)宇都宮市内のお好み焼き屋を見つけ出し、閉じ込められている子供たちを救えとか、極悪な『影の埼玉県』の共犯者を倒せとかいう煽り記事を、こいつは書きまくっていた。
(B)その記事を信じて、本当にお好み焼き屋の店主を襲った奴がいた。
(C)実際に行動を起こす馬鹿が本当に出てくるとは、『お好み焼き屋ゲート』の記事を書いていた過去の時点では予測していなかった。
(D)予測ができなかった過去の時点での行為は、責任を問われないはずだ。だから、自分に責任はない。
・・・どう考えても(C)と(D)が繋がらない。仮にこの論理が成り立つならば、これらも成り立ってしまうことになる。
(P)テストで悪い点を取った小学生:テストで悪い点を取ることを知っていたら、自分は勉強したはずだ。だから、自分は悪くない。
(Q)殺人犯:相手が死ぬって分かっていたら、銃で撃たなかった。だから、自分に罪はない。
・・・・成り立つわけがない。すでに起こった事象を過去の自分が知らなかったから自分に責任は無い、という論理が成り立つなら、この世界の道徳律は全て崩壊するだろう。・・・要するに、こいつの言っていることは論理的におかしい。その事に全く気がついていない。
底知れない闇を感じた一方、致命的な知性の欠如も気になった。・・まあ・・わかっていたことだった。こいつの書く文章は、例の鉤括弧を多用する方法でごまかしていたけど、首尾一貫性も論理性も無かった。知性の足りない奴が精一杯自分を賢く見せようとする、痛々しい文章の典型だった。
「・・・・あなたの話はわかりました。しかし・・」
僕は、どうにか喉の奥から声を出した。こんな品性下劣で知性も足りないクズみたいな奴と話をするのも嫌だったからだ。だが、この場の決着をつけないといけない・・・つまり、帰ってもらわなくてはならない。
「何度も言っていますが、僕はこの会社を辞める人間なんです。話は編集長に通してください」
「その編集長はいつ帰ってくるんだよ?」
「分かりません」
「分かりませんじゃねえよ。帰ってくるまで、俺はここにいるからな。話をつけないと困るんだよ」
僕は立ち上がった。応接間の出口に向かった。つきあいきれるかよ。勝手にしろ。いつまでも気がすむまで待っていればいいだろ。
「おい・・どこに行くんだよ」
「この建物は午後十時に閉まりますから。その後も人が残っていると、警備員の方が施錠に来ます。建物から出るようにと言われたら指示に従ってください」
「おい!逃げるのかよ!・・・このガキ!待てよ!」
僕は、返事をしなかった。ドアを開け、音をたてて閉めた。
「市村さん。すみません。それで・・」
吉木さんが近づいてきた。
「どうなりましたか?」
「ダメですね。話が全然通じない人です」
僕は、ため息をついた。
「編集長が帰ってくるまでここにいるって言っています。好きにさせるしかないと思います。午後十時に警備員が施錠にくることは伝えておきました」
「・・・市村さん・・」
吉木さんが渋い顔をした。
「私、帰っていいですか?」
「いいんじゃないですか。前と同じなら、今日は誰もここに戻ってこないでしょうから」
「それと・・私、もうこの職場やめようと思います。市村さんが来なくなってからも、警察から何度も電話があったんです。そのことを言っても、亀田さんも誰も・・真面目に答えてくれないんです」
吉木さんは、少しおびえたような、怒ったような顔をした。
「市村さんは辞めるから言っちゃいますけど・・この会社・・何か悪い事をしているのかもしれないって思うと怖くって。今日みたいな事があっても、私ひとり残して、みんな逃げちゃうし」
「その方がいいかもしれません」
変質者が入ってきたのに女性ひとりを残して全員逃げ出すような連中のいる会社に残るのは・・・吉木さんにとっては危険な選択肢だ。やめた方がいいに決まっている。僕は、辞表は後日郵送で送ればいいだろうと言い、吉木さんを見送った。僕も帰ろうかと思っていた時に、来客を告げるブザーがあった。
「おや・・市村さん」
山田さんだった。後輩と思われる・・まだ高校生みたいな雰囲気のある青年を連れている。二人ともスーツにコート姿だ。青年は頭を下げた。
「こちらは桑原です。市村さん。お辞めになったと聞いていましたが」
「今日はその・・残った仕事があったので・・」
「そうですか。それで・・編集長かどなたかはいますか」
「・・・・いません・・僕だけです」
「んふふふふ」
山田さんは笑った。
「まあ、いいですけどね。・・・ここだけの話にしておいて頂けると助かりますけど、私は永井さんみたいな熱血タイプじゃないですから。私は、永井さんをとても尊敬しているんです。あの熱意と人間力には、誰もかなわないと思います。でもね・・なんというかな・・私はああいう風にはなれない。少しアプローチが違う」
「そう・・なんですか・・」
「ええ。今日の用件は、二つです。前と同じですけど、雑誌KAMEDAの記事がフィクションかそうでないかはっきりしてもらいたいのと、あの雑誌の記事に書いてあることが本当だと主張をするなら証拠を提示していただきたい。これがまず一つですけど・・・」
山田さんは表情を崩したままだ。
「・・・社員が市村さんだけなら、今回も無理ですか。市村さんは、編集長にこの質問に答えないと大変なことになる・・と伝えたんですよね」
「伝えました」
「でも、今日の今日まで何の回答もありません。来てみたらこれです。今日も編集長もいないし、社員はあなただけです。この会社の状況ですけど・・例えて言うなら、ブレーキの効かない車で崖に向かって坂道を下っているようなものです。前に言いましたよね?何の申し開きも対策もしなければ、検察や被害者の言い分が全て通りますって。起訴有罪はほぼ間違いないかもしれないし、被害者への賠償額も億単位でしょう。永井さんは、崖に向かっていくブレーキの壊れた車に乗っている人間に車を降りろ、と警告したんですけど・・」
山田さんは、ふぅっと息を吐いた。
「でも、警告を聞かずに車から降りないのなら・・その後の結果については、自己責任ですかねえ」
「そう・・ですか」
「ええ。私と永井さんのスタンスの違いはそこです。永井さんなら、まだどうにかしてこのKAMEDA編集部の人たちを救おうとするでしょうけど、私はしません。なぜなら、こういうケースで手助けをしても感謝もされず恨まれるだけですから。それに、破滅に向かう状況だとわかっていても、あえて助かろうとしないならば・・・それはそれで、その人の選択として尊重すべきです」
山田さんは、亀田や嶋田、正木が今の状況が大変なものである事を知っているという前提で話しているが・・・それは間違いだ。連中は状況の深刻さを全く理解していなかったと思う(だから、警察から連絡が来ても無視したり、会社に来ても非常口から逃げていたんだ)。でも・・まあいい・・。僕には関係ない。永井さんに見せてもらったメール文を思い出した。奴らは『お好み焼き屋ゲート』の責任を、僕になすりつけて逃げようとしていたんだ。あんな奴ら・・・刑務所に入ろうが、賠償金で破産しようが、どうでもいい。それこそ自己責任だ。
「それともう一つ」
山田さんは人差し指を上げた。
「KAMEDAのバックナンバーをいただきたいのですよ。令状がないんで押収はできません。そちらの随意で・・ということになりますが」
「僕がその・・許可していいものかどうかは、わかりません」
「そうでしょうね。仕方がない。ですが、見るのは構いませんね。ここに来るのは、市村さんと会った時を除けば三回目なんですよ。出直してもいいですけど、さすがに三回も手ぶらで帰ると色々と・・」
「わかりました」
山田さんと話している間に応接間のドアが開いた事に、僕は気がつかなかった。気配がした。振り返ると・・・・そこにいたのはワシントンだった。
「何をグダグダさっきから話してんだよ。うるっせえなあ」
「・・・・」
僕は眉をしかめた。こいつの言動が神経に触った。いきなりなんだ。いきなりこの態度はないだろう。山田さんを見ると、山田さんも少し表情がこわばっている。
「来客ですか。市村さん」
「ええ・・」
「なんなんだよ。話すなら外で話せよ。うるさくてしょうがねえ」
「そういうわけにはいかないんです。これは仕事ですから。捜査の一環なので」
山田さんが言った。ワシントンが固まった。『捜査』という言葉に反応したのかもしれない。
「私は栃木県警察の山田と申します。栃木県内で発生した暴力事件とKAMEDA編集部との関連が疑われています。それで捜査をしていますが、今日は、KAMEDAのバックナンバーのうち、我々が持っていない号をこれから参照する作業があるんです」
桑原という青年が、山田さんに白手袋を渡した。山田さんは手袋をはめる。その動作を見ながら、ワシントンは後ろに下がっていった。
「警察・・・?警察かよ・・」
「ええ。お邪魔はしませんよ。桑原、カメラを出せ。署のスマホも用意しろ」
桑原君はカメラとスマートフォンをカバンから出した。・・・ワシントンの顔は真っ青だった。何か嫌な匂いがしてきた。そして・・。
「ウワアアア」
甲高い絶叫が響き渡った。
次におこった光景を見て、僕も山田さんも桑原君も一瞬、唖然とした。床にワシントンが這いつくばっていた。土下座のポーズだ。
「ウワアアア」
山田さんが目を見開いた。僕を見た。何がおこったのか・・というように。その後、ワシントンの方を見た。
「どうしましたか?大丈夫ですか?」
「逮捕しないでください!お願いです!逮捕しないでください!」
「いや、逮捕も何も・・」
「僕は関係ないんです!逮捕しないでください!お願いします!ウワアアアア」
ワシントンは号泣していた。嫌な匂いの正体はすぐに分かった。小便だ。こいつは小便を漏らしたんだ。
「フフフ・・ククク・・うっ」
山田さんが桑原君の肩を叩いた。
「笑うな。桑原」
「すみません」
こうしたやり取りの間も、ワシントンは土下座をしたまま、大声で泣いていた。
「お願い・・・です!逮捕・・・しないで・・・ください!・・ウワアアアア。僕は・・・関係ないん・・・です。KAMEDAの・・・編集部が・・全部・・悪いん・・です!ウワアアアアア」
「市村さん」
山田さんは、これはどういうことなのか・・というような目で僕を見た。
「実は・・」
僕は小声で、この小便を漏らしながら土下座して泣いている中年男がワシントンだと山田さんに告げた。
「あのKAMEDAによく文章を載せている・・」
「ええ・・彼です」
「ここに来た理由は・・・」
僕は、言うのを迷ったが、言うことにした。
「KAMEDAの編集部から、警察の方に自分は関係ないって言ってくれと頼みに来たんです」
「それはおかしいですね。市村さん。ご自分で直接そう言えばいいじゃないですか。なぜ、わざわざ・・?」
・・・桑原君が笑い出した。理由が分かったからだろう。山田さんが桑原君の肩をバンバンと叩いた。
「笑うなと言っているだろう。桑原」
「すみません・・山田さん」
桑原君が、顔をふっと横に向けて小声で言った。
「ビビリだから、自分で言えなかった・・って事じゃないですかね。この人」
山田さんは僕をじっと見た。
「もしかして、市村さん、今日の『残った仕事』っていうのは・・」
「この人が来て、大声で叫んで暴れているって事務員の吉木さんから電話があって・・」
「それで来たんですか」
「ええ」
「編集長とか上の人がいない理由っていうのは・・」
「・・・彼が来たからです。非常口から出て行って・・そのまま帰りました」
「それは・・逃げたってことですか?」
「・・そう取られても仕方がないですが・・」
山田さんは大きくため息をついた。
「いやいやいや・・。私も下っ端の頃にはいろいろ理不尽と感じる事もあったけど・・市村さんみたいな経験はしてないなあ。ひどすぎですね。この会社は。上の人は何をやっているのかと。純粋に怒りを覚えるなあ」
山田さんとの話をしている間も、ワシントンは土下座したまま、泣きわめいていた。山田さんは、また、ワシントンを見た。首を横に振る。表情を歪める。また、小声で言った。前と同じように、ワシントンには聞こえない距離だ。
「ネットであれだけ勇ましい事を言っている彼が、現実にはこのザマってのも、情けない限りですね。あの彼をカリスマとしてネット上で崇めている連中がたくさんいるっていう事も、状況としてシュールすぎませんか?」
「・・・・ええ・・・」
「これは、全くの個人的な意見ですが、インターネットというのは、人々の役にたつテクノロジーだ、とは言えないと思うんですよね。有益性より有害性の方が大きい、と私は思います。インターネットというのは・・・はっきり言えば、バカのおもちゃです。バカの遊び場です。ネット上で何かの活動をしている連中を、全部まとめてバカだと言ってもハズレではないでしょう。ネットというのは、ほどほどに距離を置いてつき合うメディアだと思います。・・・・まあ、これが共通認識として広まってくれていば・・・今回みたいな、こんなに苦労して捜査するような事件もなかったんでしょうけどねえ」
・・・そうだ。確かにそうだ。インターネットなんていう技術が無ければ・・いや、あったとしても、愛埼者のようなバカな連中が、ネットを遊び場にしていなければ、今回みたいな事件だっておこっていないのだ。・・・教訓があるとするなら・・山田さんの言う通り、ネットはほどほどに距離を置いてつき合うべきなのだ。
ワシントンは小便だけじゃなく、糞も漏らしていた。耐え難い臭気が辺りに充満していた。山田さんと桑原君は、事件についてはまだ捜査中で、今日はあなたを逮捕に来たのではない、と言い、ワシントンを立たせ、そのまま建物の外に連れて行った。僕は、部屋の窓を全部開けた。窓の外から吹きつける冷たい風に当たると、うんざりした気分が少しだけ和らいだ。
しばらくすると、山田さんと桑原君が帰って来た。山田さんは右手に鍵を持っていた。
「警備の方から鍵をお借りしました。市村さんは帰っても大丈夫です。資料を見た後、我々はここを施錠して帰りますから」
「そうですか・・」
「あの彼は、歩いて帰ると言っていました。大丈夫みたいです」
あのワシントンは、小便と糞を漏らしたまま歩いて帰るのか・・。まあいい・・。僕には関係がない話だ。僕は、山田さんと桑原君を資料室まで案内した。
「では、僕は失礼します」
「ええ。帰り道、お気をつけて。市村さん」
「ありがとうございます」
僕は、亀田の机に辞表を置いた。そして、KAMEDA編集部を後にした。ようやく終わった。やっと全てが終わった。建物を出た。空を見上げる。よく晴れている。深い青い空がどこまでも広がっていた。冬の太陽が、白く輝いている。真っ白な雲がゆっくり流れていく。この先どうなるか分からない。不安はある。そして、何の達成感もない。だけど、僕は、暗いトンネルの出口にようやくたどり着いたような気分になった。冬の空と太陽を見ていると、僕の心の中の暗い部分が晴れていくような気がした。
「・・・そういうわけで、僕は仕事を辞めたんだ」
時計は午前四時を回っていた。ようやく全てを話し終えた。美園は、僕をじっと見ていた。
「どうしたの。美園?」
「・・・なんか・・ごめん」
「どうして謝るの?」
「ユウ君がそんなに大変なことになっているって・・気づいてあげられなくて」
美園は、少し悲しそうな表情をした。
「でもさ。もう、全部終わったことだから」
それよりも・・僕には不安なことがあった。
「それより、これから仕事を探さないといけないんだ。そっちの方が、僕には不安だよ」
「大丈夫だよ」
美園は、目に力を入れて言った。
「ユウ君レベルのタフな経験した人なんて、世間にそうはいないから」
「そうなの」
「そうだよ。絶対大丈夫だよ」
美園は慰めてくれているのだろう。だが、僕は、簡単には就職できないだろう。実際・・・次の就職の時の面接で職歴を聞かれたらどう答えればいいんだ。KAMEDAなんていう変質者向けの雑誌編集部に勤めていたと正直に言って、雇ってくれるところがあるだろうか・・・。
「仕事を辞めた理由・・美園はわかってくれたんだ」
「わかるも何も、よくそんな所で三年間も働いたよね。ユウ君は」
美園は、納得してくれた。わかってくれた。これだけでも十分だ。正直に話した甲斐があった。
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