エピローグ 埼玉はいいところじゃないか

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エピローグ 埼玉はいいところじゃないか

翌朝。目を覚ますと午前十一時だった。隣には美園がいる。結局、寝たのは午前五時頃だった。・・・美園はまだ寝息を立てていた。起こさないように、そっと僕は布団から出た。 コーヒーを入れ、パソコンのスイッチを入れた。会社の荷物の入った段ボールの中からファイルケースを取り出す。中に入っているのは資料だ。捨てる前に、いくつかスキャンしておこうと思ったまま、今日まで放っておいたのだ。 スキャンする資料を選んでいるうち、なんとも言えない気分になってきた・・。 三峯神社・・・奥秩父にある神秘的な神社だ。狛犬の代わりにあるのは精悍なオオカミの像。杉の巨木が何百とある森。壮麗な門。果てしなく続く石灯籠。こんな山奥に、こんな巨大で荘厳な神社があることに、行けば誰もが驚くだろう。 比企郡にある森林公園。時期を選べば、どこまでも広がる色とりどりの花畑の絨毯を楽しめる。花畑を囲むのは緑の草原と彼方の森。まるでヨーロッパのどこかの風景を見ているような気分になる。 行田にある古代蓮の里。蓮の花が咲くのは早朝だ。水面を埋める緑の葉の間をピンクと黄色の花が天を指す。見渡す限り咲き乱れている。本当にここは楽園なのではないかと思う。 大宮にある鉄道博物館、幸手にある権現堂堤、川越の小江戸・・・。KAMEDA編集部がカムフラージュのために季刊で出している観光案内に使った資料だった。採算は取れない。あくまでカムフラージュのために発行しているのだ。資料を見て思った。・・・いいところじゃないか。埼玉は・・・・いいところじゃないか。 東京のような大都市に比べれば、埼玉は田舎だろう。姫路城や富士山のような全国から人が来るような観光スポットもないだろう。独自性を主張できるほどの文化もないだろうし、住人の大半は埼玉にそれほど愛着があるわけでもなく、ただ、なんとなく埼玉に住んでいるだけだろう。それでも・・荘厳な三峯神社の社殿の写真や、ヨーロッパと見紛う森林公園の花畑の写真、古代蓮の里の写真を見て、僕は思った。いいところだろう。いいところじゃないか・・埼玉は・・。十分じゃないか。少しでも埼玉をいいところだ、と思う気持ちがあるだけで・・・それだけで十分じゃないか。どうして、他県の人間を馬鹿にして優越感にひたる必要があるんだ。なぜ、群馬や栃木、茨城の人たちを馬鹿にしなければならないんだ。そんなことをしなくたって・・・・特別な何かがあるわけじゃないけれど、埼玉はいいところだっていうことを、わかる人がわかっていれば・・それで十分じゃないか。 三年間つきあった愛埼者という連中が、僕に残した教訓は、一つだけだ。それは・・何かを守るとか、何かのために戦うとか言っている連中がいて、その『何か』が、例えば・・兄弟や友達、恋人といった具体的な人間ではなく抽象的な物であるならば・・・・そいつらは、無責任で知性が足りず人の迷惑を考えられない奴らである可能性が高い、ということだ。 愛埼者は埼玉を愛していたのかもしれない。だが、その結果といえば、こんなに馬鹿で恥ずかしい連中が埼玉にいるんだ、という事を知らしめる事で、埼玉を貶めていただけだ。大も小も漏らしながら土下座して泣きわめいているワシントンを、山田さんと桑原君が見下ろしている情景が思い浮かぶ。あの場面は、象徴的だった。なぜなら、あの場面こそ他県民から見たら愛埼者がどう見えるかをそのまま示した物だからだ。 資料の整理が終わったら、再就職の準備をしよう。美園は、僕が仕事を辞めた理由を分かってくれた。僕との結婚も真剣に考えている、と言ってくれた。いつまでもぶらぶらとしているわけにはいかない。美園の気持ちに応えなくてはいけない。 そして・・・思った。今度こそ、誰か人のために役に立てるような仕事に就こう。三年間も人に迷惑をかけて金儲けをする会社にいた分を、どこかで埋め合わせるんだ。今度こそ、僕は誰かの役に立つんだ。 窓を開けると、京浜東北線が走っているのが見えた。銀色の車体に青のライン。線路脇の歩道を、親子連れが歩いていく。遠くに見える建設中のタワーマンション。上にそびえ立つクレーンから、カン、カンという音が聞こえてきた。 不安はある。自信もない。だけど、僕は、自分の力の限りなんとかやって行こう、と思った。 たいしたことはできないかもしれない。特別な何かにはなれないかもしれない。でも、たいした物もなく、特別な物もないこの埼玉という土地は、七百万人の人々を静かに支えているのだ。埼玉という土地は、大きな事を成し遂げられなくても、特別な存在になれなくても、人は皆、胸を張って生きていけるのだと言っていた。これまでも、これからも、なんとなく埼玉に住んでいる人々を、多くを語る事なく静かに支え続ける事によって。 「了」
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