第一話 ネットで埼玉を守る戦士たち

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第一話 ネットで埼玉を守る戦士たち

会社に入る理由は人によってそれぞれ違うだろう。だが、やめる理由はだいたい同じだと僕は思う。給料が少ないか、人間関係でうまくいかないか、仕事の内容が納得できないか・・。 僕の場合は、三つが全部当てはまる。安い給料で働かされた。上司の振る舞いや態度は、納得できない事ばかりだった。仕事の内容も、ひたすら苦痛だったし、世間に向けて胸を張って説明できるようなものでもなかった。いつも僕は仕事について聞かれると言いよどんだ。 「地域の情報誌を発行している編集部に勤めていまして・・」 その後が、続かなかった。相手が興味を持った様子を見ると焦った。何か事情があるのだろう・・と察してそれ以上は聞かれないことが殆どだったけれど。どうにか相手が不審に思わない程度に答えられるようになったのは、ほんの半年前のことだ。 「小さい会社なので、大手にはかないません。ですが、大手が見逃してしまうような、ニッチな地域情報を集めて、お客様にお届けしています。そういった情報が必要なお客様もいらっしゃいますから」 ここで、軽く微笑。その後、無難で無害な豆知識・・埼玉に関するトリビアを二つ、三つ、披露する。それで、相手は納得する。ふうん・・という表情をしたあと、興味を無くす。 ・・・僕は、嘘はついていない。正直に言っていないだけだ。正直に言うと、大手が見向きもしない馬鹿馬鹿しいデタラメ情報を更正不可能と思われる程度までおかしくなってしまった連中に届けるのが、僕が勤めていた会社がやっていた事だった。 時計の針は午前十一時を指していた。木造、築二十年、六畳一間キッチン付きの部屋の窓は、電車が通るたびにガタガタと揺れた。窓を開けるとすぐ目の前は線路だ。僕の給料を考えれば、このアパートが家賃を払える限界だった。銀色に青のラインの車体。京浜東北線が走っている。僕が小学校に上がる前は、青一色の車体だったことを思い出す。さいたま新都心とソニックシティビルが見えた。その近くには、空にそびえる大型クレーンが何十とあった。タワーマンションが建設中なのだ。開発が進めば、このあたりの地区の家賃の相場も上がっていくだろう。こんな木造の建物の一室だって、それなりの家賃を払わないと住めないのだ。 いつかはこのアパートにさえ住めなくなるのかもしれない。噂話がある。この木造二階建ての古いアパートも近々取り壊されて、新しい四階建ての鉄筋のマンションに建て替えられるということだ。その新築のマンションには、今の僕の給料ではどうやっても入れないだろう。 いつまでこんな生活を続けるんだ・・と、僕はいつも焦っていた。いや、続けることさえできないかもしれない。このアパートを追い出されたら、次に住むところは見つけられるだろうか。わからない。どうすればいい。仕事を続けていた時でさえ、僕は将来への不安を抱えていた。今はもう仕事を辞めてしまっている。預金は少ないけどある。でも、何ヶ月もぶらぶらできる程の蓄えは無い。最低でも再来月までには仕事を見つけなければならない。 午後。七年前に中古で買ったパソコンで、インターネットの小説投稿サイトを眺めた。小説でも書いて、ネットに投稿して・・広告費を稼いで生活できないか・・と考えたこともあった。僕は文章を書く仕事に就きたかったのだ。だけど・・・ネット小説は、僕の嗜好とは大きく違うものが多かった。大冒険。大恋愛。世界を救う戦いの旅。美少女との甘い恋。素直に読んで、素直に楽しんで、作品世界の冒険と恋愛を体験すれば良いのだろうけど、僕にはそれができない。読んでいて考えるのだ。なぜか、と。この小説世界の住人たちは、なぜ、ごく一部の少年少女たちに世界を救え・・とか、巨悪を倒せ・・とか、重すぎる役割を負わせるのだろう。自分たちは、平和で安全なところにいながら、年端もいかない少年少女を戦いに駆り立てるのは、健全な魂の持ち主がやる事ではないだろう。登場するヒロインたちは、なんというか・・人形のようだった。自我が希薄なのか、知性が足りないのか・・やりたい事と言えば、主人公に媚びる以外には、何もないように思えた。主人公との恋愛成就以外に、何の希望もないようだ。そんな事があり得るだろうか・・。 僕は、読むのをやめた。畳の上に寝転がった。天井を見る。部屋の中は薄暗かった。もう夕方だ。無駄に一日を過ごしてしまった。 抱えている問題は、仕事を辞めた事によるお金の不安だけではない。今日は金曜日だ。美園が来る。仕事を辞めた事を追求されるだろう。それに答えなくてはならない。彼女が納得するように。・・・・・どうすればいい・・・。 午後七時半。呼び鈴が鳴った。 「ユウくん?」 ドア越しに美園の声がした。開けた。スーパーの袋を持った美園がいた。 「なんだ。元気そうじゃない」 「うん」 美園は部屋に上がった。何となく・・感じる。多分・・怒っている。 美園は、洗面所で手を洗った後、スーパーの袋から焼きそばや唐揚げ、中華サラダのパックを出した。机に並べる。 「ご飯食べよう。買ってきたから」 「うん」 美園は、皿に惣菜を割り箸でうつしながら、僕をじっと見た。 「多分、そうなるんじゃないかな・・って思っていたけど」 「・・・?・・『そうなる』って?」 「ユウくんが、仕事を辞めるじゃないかって。いつかは」 そうなんだ・・。 「ユウくん」 美園は、また僕をじっと見た。気持ちが縮む。やっぱりだ。やっぱり・・怒っている。 「私さ、もう一年と半年経つと、三十歳になるわけよ」 美園は僕より一つ年上だ。前は、美園さん・・と『ミソノさん』づけで呼んでいた。よそよそしいからやめて・・と言われて、僕は彼女を美園と呼ぶようになった。 「うん」 「うんじゃないから。将来の事とか、いろいろ考えるわけ」 僕は、下を向いた。やばい。やばい展開だ。どうしよう。 「ユウくんのことは大好きだよ。結婚も考えているよ。本気で」 美園は僕に割り箸を渡した。 「でもさあ。仕事辞めて、無職になっちゃう甲斐性なしの男との結婚は、無理なわけだよ」 「ごめん」 「謝らなくていいよ。何かあったんでしょ」 「あった。ありました」 「話してよ。話してくれたら、許してあげる」 ・・・僕の心はまた縮み上がった。どうする・・どうすれば・・。 「面白い話じゃないよ」 「面白いとか、面白くないとかじゃないの。私は、それに対してもムカついているんだから」 「・・・『それ』・・って?」 「ユウくんさ。仕事の事を聞くと、はぐらかしてちゃんと答えてくれなかったよね。ずーっと、何か私に隠していたよね。仕事の事でさ」 ・・・ばれていたんだ。美園は、僕が仕事の話を避けていた事を、見抜いていたんだ。 「自分のパートナーがどういう仕事をしているのかって、私の中ではそれなりに大事な事なの。隠し事とかにされると嫌なんだよ。わかるよね」 「・・・わかる・・」 「わかったって言うなら、話してよ」 この現実世界は、インターネットのファンタジー小説や学園小説とは違うんだ。女の子が男の身勝手な都合にどこまでも付き合ってくれたり・・・とか、何か理不尽な事があっても黙って許してくれる・・・なんて事はありえない。いや、『女の子』ではなかった。この現実世界の住人は男女に関係なく、誰かの身勝手な都合に付き合う事もないし、理不尽な事を黙って許す事はない。美園の言う通り、僕はこれまで自分の仕事についていい加減に答えてきたわけだし、仕事を辞めてしまった理由も話していない。美園が僕の行動を不審に思い、黙ったままでいる事に腹をたてるのも当然だ。 できれば話したくなかった。黙っていたかった。だが、美園はそれが許せないと言っているのだ。僕がここで逃げたら、美園は僕のもとから去るかもしれない。それは嫌だ。・・・覚悟を決めなければならない。 「わかった。でも、最初に言っておくよ。聞いたら美園は嫌な気分になると思うよ。きっと」 「隠されるよりいいよ」 「わかった・・。まずは・・」 気分が重かった。僕は、割り箸を二つに割った。食欲は無かったけど、食べる事で間を持たせないと、到底話が続かない。僕は、唐揚げを一つ、箸でつまんだ。 「僕の勤めていた会社は・・地域向けの情報誌を出しているんだけど・・」 「それは知っている」 「実はそれ・・愛埼者向けの雑誌だったんだ」 美園は、んん・・?・・と言う表情をした。 「聞き取れなかったけど。なんて言ったの?」 「アイサイシャ」 「アイサイシャ・・ってなに」 「埼玉を愛する者と書いて、愛埼者」 美園は、軽く笑った。 「なにそれ・・。へええ。埼玉が大好きな人向けの雑誌って事?」 「そうだよ」 「わからないなあ。それ。ユウくんがなんで、隠していたのか」 「愛埼者がなんだか、美園は知らないからだよ」 ・・・愛埼者は、埼玉県を熱烈に愛している集団だ。彼らは、埼玉県が日本一、いや・・世界一素晴らしい地上の楽園のような所だと信じていた。・・・それだけなら良かった。それだけなら。 愛埼者が持つ埼玉への愛が・・・例えば、大宮にある氷川神社が壮麗で美しいと思う・・とか、浦和のサッカーチームを応援しよう・・とか、行田のゼリーフライが美味しい・・といったような、健全な形で表現されていたとしよう。もしそうだったのなら、何の問題もなかっただろう。だが、不幸なことに愛埼者の埼玉への愛は、他県の住人への憎悪と侮蔑という形で表現された。 愛埼者の憎悪する県は、茨城県、栃木県、群馬県だ。この三つの県を、愛埼者の用語で『特定関東』と言う。茨城、栃木、群馬から来る野蛮で汚い田舎者たちが、埼玉の洗練された文明と文化を破壊する、と言うのが愛埼者たちの主張だ。愛埼者は、自分たちはその野蛮な『特定関東』出身者と戦って埼玉を守る使命があり、自分たちがいなくなれば、埼玉は『特定関東』出身者に蹂躙されて滅亡するのだと本気で考えていた。・・・とにかく・・これが愛埼者の基本的な主張であり、世界観だ。 愛埼者の起源は、二千年代初めにあった日韓サッカーワールドカップにあるというのがほぼ定説だ。さいたま市にある『さいたまスタジアム2002』でワールドカップの試合が行われることになった。一部の埼玉県民は、地元ということで優先的に『さいたまスタジアム2002』で行われる試合のチケットが手に入るはずだと信じ込んでいた。勿論、ただの根拠の無い思い込みだ。実際は、全都道府県から平等に抽選が行われることになった。・・・これが発表されると、一部の埼玉県民の怒りが爆発した。自分たちを差し置いて、自分たちより遥かに劣等な田舎者である茨城県民、栃木県民、群馬県民がチケットを手に入れるとは何事だ・・というわけだ。この事件をきっかけに愛埼者は覚醒した。愛する埼玉県を、野蛮で下品な北関東出身者から守るために立ち上がるべきだ・・という思想が生まれた。はっきり言って、なんでそうなるのか僕には意味がわからないけれど、そういう事になったのだ。ちなみにワールドカップのチケット抽選会が全都道府県で開かれると発表された日は、埼玉全土から愛埼者がネットコミュニティに集結する「愛埼決起集会」が開かれる重要な記念日となっている。 「ユウくん」 「・・・美園?」 「なんかさあ。私、もうすでにユウくんの話についていけないんだけど」 「そんなこと言ったって、本当のことなんだけど・・」 ワールドカップ後、インターネットの普及に伴い、ネット空間に掲示板やフォーラムという形態で、愛埼者のコミュニティは作られていった。書き込まれる記事は、根拠の乏しい茨城県民、栃木県民、群馬県民への悪口だ。暴力犯罪が報道されると茨城県民の仕業ということになった。性犯罪は栃木県民、経済犯罪は群馬県民の仕業だと決めつけられた。これを愛埼者の用語では、『茨城認定』、『群馬認定』と呼ぶ。 やがて、ネットコミュニティの中にカリスマ性のある書き手が現れ始める。ワシントンというハンドルネームの書き手は、こういう主張を始めた。茨城県出身者、栃木県出身者、群馬県出身者が、埼玉県の中に入り込んで、『なりすまし埼玉県民』として埼玉を貶める活動をしている。『なりすまし埼玉県民』を見つけ出し、茨城、栃木、群馬に全員強制送還すべきだ・・というのだ。この主張は画期的だった。フランスの偉い学者の説によると、特定の集団がアイデンティティを確立するには外部からの敵の襲来というストーリーだけでは不十分で、内部に敵がいるというストーリーも必要となるという。とにかく『なりすまし埼玉県民による内部からの攻撃説』の登場により、愛埼者はアイデンティティを確立した。愛埼者コミュニティは、この後に拡大の一途を辿るのだ。そして・・・。 「ちょっと待ってよ」 「・・・美園?」 「私はさ、そういう・・なんていうの・・個性がとっても豊かな人たちとは距離を置きたいって思っているの。はっきり言えば、関わりを持ちたくないっていうか。まさか・・まさか・・ユウくんが・・」 美園は、不審そうな目で僕を見た。焦る。そうじゃないんだ・・。そうじゃない! 「誤解しないでよ。僕だってそうだよ!関わりたくないよ!」 「じゃあ、なんで、ユウくんは・・」 「だまされたんだ。僕は」 「だまされた?」 「そう」 「具体的に、どんな風にだまされたの?」 「どういう風にだまされたのかを分かってもらうには、まだ説明が要るんだよ」 ・・・愛埼者のコミュニティが拡大するにつれ、二つの流れが出てくる。愛埼者たちが勝手に持ち上げたのが先か、それとも愛埼者からの支持を狙ったのが先かは分からないが・・とにかく、愛埼政治家という連中が現れるのだ。ネット空間ほど言葉が暴力的ではないけれど、特定関東・・茨城、栃木、群馬に対して厳しい言葉をぶつける連中だ。例えば、群馬県出身者の自動車のマナーがなっていないとか、栃木県出身者の電車内での事件が多いとか・・。性犯罪者を栃木県民だと決めつけるのが『栃木認定』だ。愛埼者にとっては、何が言いたいのかは明らかだった。そういった類のコメントを一部の政治家が出す。そうすると、ワーッ、と愛埼者が喜ぶ。群馬県民と栃木県民の悪口を言っただけなのに、『この人は、埼玉県のことを本気で憂い、真剣に考えている志の高い人だ』ということになり、愛埼者たちに祭り上げられるのだ。特に天田錦二という埼玉県議会議員が、愛埼者のアイドルだった。 もう一つの流れは、愛埼者向けのコンテンツを作れば金になると考える連中が出てきた。どう考えても間違っていると思うけど、資本主義とはそういうものらしいのだ。いい加減な根拠をもとに、茨城県、栃木県、群馬県の出身者を馬鹿にして、中傷して、下品な言葉をぶつけるような連中が喜ぶコンテンツを作って、売って、金儲けをしたとしても・・・・それがビジネスモデルとしてなりたつのであれば、ビジネスになってしまうのだ。二千年台後半に、KAMEDAという月刊誌が創刊された。愛埼者の中でこの雑誌を知らない者はいないだろう。一応は地域情報誌ということになっているが、その内容といえば、茨城、栃木、群馬県民への罵詈雑言が殆どだ。『埼玉はこんなにすごいんだ』という記事がたまにあるが、圧倒的に多いのは茨城県民、栃木県民、群馬県民への悪口だ。 唐揚げも焼きそばも中華サラダも、残りは少しになっていた。美園は、グラスにペットボトルの烏龍茶を注いでくれた。二口ほど飲む。美園も自分のグラスで飲んだ。 「長い前置きだったねえ・・」 「予備知識が無いと、わかってもらえない・・と思ったから」 「・・・そんな話、私、今、初めて聞いた」 「だよね」 世間の大多数の人々は、愛埼者なんていう狂った連中がいることは知らないだろう。 「なんとなく・・話が読めたわ。ユウくんの行っていた会社って・・」 「・・・実は、その・・KAMEDAっていう雑誌を出している会社なんだ」 美園はため息をついた。 「それで・・ユウくんは、どんな風にだまされたの?」 「会社がカムフラージュで、普通の情報誌を出していたんだよ。埼玉県の観光案内みたいな感じの」 「・・・それで・・『ここは普通の会社なんだ』って、ユウくんは思ったんだ」 「そう」 「それで、入ってみたら・・全然違ったと」 「そう」 「あちゃあ・・・それは・・」 ・・・美園は、分かってくれた。僕がだまされた事だけではない。だまされたと分かっても、仕事を続けなければいけなかった事情を、だ。美園は病院薬剤師だ。薬剤師は専門職・・・国家が資格免許を発行している。何の資格も持っていない僕みたいな立場とは違う。その美園でさえ、就職した後に仕事の不満はたくさん出てきたけど、転職なんてどうなるか分からないし考えたこともない、仕事を辞めようと思ったこともない、職場の嫌なことの大半には目をつぶって働いている、と言う。資格免許があったって、就職先を自由に選べるわけではないし、今の職場について贅沢を言う事だってできない、と美園は言っていた。 就職活動は本当に大変だった。どうにかこうにか、僕は就職先を見つけたのだ。せっかく入った会社だ。業務内容に問題があったとしても、辞めることは考えられなかった。少なくとも、入った後のしばらくの間は。 「そうだよね。ユウくん、大学で勉強したのが、日本の近代文学だもんね」 「うん」 「なんか・・・文学部でも、英文科とかさ、将来のことを考えて学科を選ぶとか・・できなかったの?」 「できなかったよ。就職を考えながら、何を勉強するかを選ぶなんてさ。大学にいる間って、一生に一度だけ巡ってくる、自分が本当に好きなことを勉強できる時間でしょう。僕はそう思ったんだ」 「そういうところが・・ユウくんなんだよなあ・・。大変だったんじゃない?ユウくん。そんな、特殊で個性的な人たちに混じって働くの・・」 ・・仕事は午前九時に始まって、午後六時には終わった。夜遅くまで残業・・という事もない。体力的な意味では、楽なほうだろう。問題は、仕事の内容だ。仕事の内容に、精神的に確実に何かを病んでいくような面があったのだ。 愛埼者はインターネット空間を情報のやり取りの場としていた。膨大な数の書き手が、個人のホームページやブログを介して、様々な主張をしていた。KAMEDA編集部は、その中でもカリスマ性のある人気の高い書き手に連絡を取り、記事を買い集めて、加工して、雑誌を発行していた。記事一本につき、高くても三百円だった。紙媒体の雑誌だけど、書店には並ばない。インターネットでの販売のみだ。 「三百円って・・小学生の小遣いじゃあるまいし」 「でも、三百円だったよ。最高額が」 一ヶ月につき、雑誌を一号発行するのに必要な記事は、だいたい、二十本か三十本くらいだ。原稿料の総額が一万円以下。信じられないけど、とにかく原稿料の総額が一万円以下で月刊誌ができてしまう。取材もしない。自分たちで記事も書かない。ネットで活動している書き手に記事を書かせて、安く買い叩いて、雑誌を作る。これが業務の流れだ。雑誌は一部二千円。合計一万部が売れる。編集部員が編集長を入れて四人だ。人件費を考えても相当に濡れ手に粟の商売だ。 僕は、『編集アシスタント』なる肩書きを与えられ、手取り月十二万円の給料で働いた。仕事は、記事の事実確認だ。会社の資料室や図書館に行って、記事に書いてあることに誤りがないか、一つ一つチェックする。 「・・・ちょっと待ってよ」 「美園・・?」 「その記事ってさ、デタラメなんだよね」 「デタラメだよ。記事の根拠って、書き手の妄想としか思えないものばっかりだよ」 「じゃあ、何の事実確認をするわけ?」 「地名とか、細かい年代の確認とか。因果関係とか。そういう細かいところで裏を取っておくんだ。中身はデタラメ記事でも、細かいところは本当の事を書いておかないと、読者の支持が得られない。具体的にどういう事かっていうと・・例えば・・・『京浜東北線沿線の武蔵浦和駅近辺で・・・』とか書いたらまずいんだ。こいつは埼玉のことが分かってないな・・って事で読者が離れる。KAMEDAって雑誌を買う連中は埼玉が大好きなんだ。基本的な事実を外すと致命的なんだよ」 「それで・・出来上がった記事って・・どんな記事なの」 「・・・見ない方がいいと思うよ」 「見せてよ。どんな事が書いてあるの。気になる。あ・・!」 ・・・僕は凍りついた。美園の視線が、僕の本棚にとまる。まずい・・まずい・・って・・それは・・。僕が制止する前に、美園は素早く立ち上がり、僕の本棚からKAMEDAを取り出した。発行年日は二年前の六月号だった。ああ・・なんていうことだ・・・。こんな呪われた雑誌なんか、さっさと捨ててしまえば良かったんだ。もう遅い。もう遅い・・。美園は、ページをパラパラとめくった。・・・ ソニックシティビルに向けて絶叫する群馬の女。迷惑だ、と医師は語る。 「はぎゃあああああああ」 混雑する土曜の午後。すさまじい絶叫だった。いつもの週末と変わらず買い物を楽しむ客や、喫茶店のスタンドに並ぶ予備校帰りの学生たち、行楽帰りの人々が大宮駅西口の立体歩道橋を歩いている。衝撃が走る。まるで食べる物が無くなって野山から下りてきたイノシシのような叫び声が響き渡ったのだ。百万都市であるさいたま市の交通の要所である大宮駅で、だ。 叫び声の主は、気を失って倒れていた。上下はジャージ。何ヶ月洗っていないのか分からない長く伸びた髪。黄ばんだ布袋に泥だらけのスニーカー。一目でわかる群馬の女だった。まるで石器時代からタイムスリップしてこの時代にやってきた原始人か・・と思わせる雰囲気を醸し出している。 救急車のサイレンが鳴った。青のジャケットに白の作業服にヘルメット姿の救急隊員が手際良く、倒れている群馬の女を担架で運び、救急車内に収容した。女は大宮駅近くの医療機関に運ばれていった。我々は、その医療機関を取材した。 「今月に入ってもう五件目です」 診療にあたった救急センターの医師が取材に答えた。群馬から来た女が、大宮駅西口にある三十一階建てのソニックシティビルの大きさに驚き、奇声をあげながら卒倒して意識を失い、病院に運ばれる案件が後を絶たないということだった。群馬県民の住居は二十一世紀になってもほら穴や掘っ建て小屋が殆どだ、という報告がある。ビルどころか生まれてから一度も二階建て以上の建物を見たことがないのが、群馬県民である。彼らが三十一階建てのソニックシティビルを見て驚くのは当然なのだ。 「命に別状はありません。倒れて病院に運ばれても、休めば回復して歩いて帰る方がだいたいです。しかし・・」 医師は顔をしかめる。 「こういった事で病院に搬送されるケースは正直やむをえないとは思います。でも、これから多くなってくると、当院の収容能力を超えてしまう事も想定しないといけない。もしそうなると、治療が必要な地域の患者様が収容できない、といった事もあると思います。対応部署での対策を考えていただければ、と私どもは思います」 ノコノコと埼玉に越境してきて、倒れて運ばれる群馬の馬鹿女のせいで、医療機関が麻痺したら大変な事態である。群馬から埼玉への越境には関門を設けて群馬県民の流入を阻止することを筆者は提案したい。本当に迷惑である。石器時代と変わらない後進地帯である群馬の住人が、文明地帯である埼玉に自由に入れる今の状況は、誰がどう考えてもおかしいのだ。 ・・・もともと色白の美園の顔色が紙のように白かった。僕に読んでいたKAMEDAの記事を広げて見せた。よりにもよって・・その記事を読んでしまったのか・・。 「・・・『はぎゃー』じゃ、ねっから」 「・・・・」 「・・・『はぎゃー』じゃ、ねえよ」 「・・・・」 僕は、なんて答えたらいいのか分からなかった。 「確かにさ・・私の地元は、どこを歩っても畑と山ばっかの田舎だけんど、こくまで馬鹿にされる筋合いは無いんだいね」 ・・・怒ると美園は故郷の言葉が出る。美園の出身は、群馬県の富岡の西にある小さい町だ。・・・だから嫌だったんだ。美園に僕の仕事のことを話すのは・・。 美園は僕を睨んだ。僕の心は縮み上がる。 「ユウくん」 「はい・・」 「この記事を書いたの、ユウくんじゃないよね」 「違うよ。さっきも言ったでしょう。デタラメなネット記事を買い叩いているんだってさ」 KAMEDA 編集部は原稿を書かないし、取材もしない。埼玉県民が読んで不自然だな、と思われないように瑣末な事柄のチェックはする。でも基本事実のチェックは全くしない。きっと大宮駅西口のソニックシティビルを見て奇声をあげて倒れる女の子も架空の存在なら、救急隊員も架空の存在だ。医療機関の医師だって書き手の妄想の産物だ。何から何まで、全くの嘘、デタラメだ。これがKAMEDAに載る記事だ。 「なんなのこれ。ありえねっから。」 美園は僕をじっと見た。 「・・・あるから。群馬にも。高い建物くらい。前橋にあるでしょ!群馬県庁が!ユウくんと一緒に去年行ったよね。前橋に」 ・・・昨年の六月に美園と一緒に前橋の敷島公園に遊びに行った。赤レンガの歩道の両脇には無数の薔薇が咲いて居た。三メートルくらいの円筒の形に整えられた薔薇の塔を通り過ぎると、薔薇の花のトンネルがあった。美園の手はひんやりとしていた。二人で薔薇の花のトンネルをくぐった。軽い向かい風が吹いていた。薔薇の香りが前から後ろへと流れていく。美園を振り返る。美園は笑った。僕も笑い返す。僕と美園の間を薔薇の香りが運ばれていく。赤い薔薇と白の薔薇が僕たちのまわりを取り囲んでいた。 トンネルを出ると、頭上に青い空が姿を現した。夏の雲がかかっている。オレンジ色の高い建物が姿を現した。建物の下の方は敷島公園のヒマラヤ杉に隠れている。夏雲の白。空の濃い青。前橋県庁のオレンジ色。ヒマラヤ杉の濃い緑。それが、薔薇の花のトンネルをくぐった後に見た景色だった。・・・美しかった。その瞬間は、この景色さえ見る事が出来たのなら、他に何も望むものはないとさえ思った。美園も同じだったのかもしれない。美園も、しばらくは黙ったまま・・その景色を見つめたままだったのだから。 「・・・うん。そう・・だね・・」 「でしょう。ユウくん・・」 美園は、だいぶ落ち着いていた。敷島公園で見た群馬県庁の景色を思い出して、気分が和らいだのかもしれない。 「・・・遠くから見ると、ぽつーん、って群馬県庁が建っているのが見えるんだよ。群馬県庁しか高い建物が無いから。前橋には。県庁所在地なんだけど」 美園は微妙な表情をした。 「確かにさあ、埼玉の・・大宮とかに比べれば群馬はのどかだなあ・・て思うよ。でも、この記事は酷いでしょ。なにこの、『群馬県民は二階建て以上の建物を見たことが無い』って。私の実家は、普通に二階建ての家だけど。それに、ほら穴に住んでいる人なんて群馬にいないよ。いるわけないでしょ。バカじゃないの」 それはそうだ。いるわけがない。 「書き方もさあ、なんか嫌味だよね。『食べ物が無くなって野山から下りてきたイノシシみたいな叫び声』って・・なにこれ。あとさあ、『タイムスリップした原始人』とかって・・これ書いている人って、どれだけ群馬のこと馬鹿にしているの」 「・・・ごめん・・」 「ユウくんが書いたわけじゃないんだから、謝らなくていい。でも・・なんか・・・」 美園はなんとも言えない表情をした。いや・・これは・・・幻滅の表情だ。美園はきっと僕の仕事を知って、がっかりしたのだ。僕は恥ずかしくなってきた。こんな仕事をしていたこと・・こんな記事を載せる雑誌の編集部で働いていたことが、恥ずかしくなってきた。 「・・・こんな怪しい雑誌、私、これまでの人生で一度も見たことないよ。今度はなに・・この記事とか・・」 水戸で荒れ狂う高齢者。有名時代劇が原因か? 茨城県で時代劇が放送されることは、最近までほとんど無かったという。茨城県には民放がたったの一つ、それもローカル局しか無い。テレビのチャンネルをひねっても、視聴者の目に時代劇の剣劇シーンがうつることはこの何十年もの間、一度も無かったのである。 状況は変わった。最近になってローカル局がいくつか有名な時代劇の再放送を始めた。その後である。茨城県の県庁所在地、水戸で奇妙な高齢者の暴力事件が続くようになったのは・・。 市民からの通報を受け所轄の警官が現場に赴くと、そこには異常な光景が広がっていた。路上を三人、通行人が倒れている。七十歳くらいの高齢男性が杖を振り回していた。 「貴様らのような奴らはこのワシが成敗してやるんじゃ」 警官は、またか・・という顔をする。こういった案件は初めてではないようだ。杖を天高く振り上げている高齢の男を、警官が取り囲む。すると・・次の瞬間、その男は驚くべき行動をとったのだ。 「控えい。控えーい。これが目に入らぬかああー」 男は、ズボンの財布から運転免許証を取り出した。そして取り囲む警察官に向かって、これを見ろ、と言わんばかりに免許証を振り回し始めたのだ。 「これが目に入らぬかあああ。ものども。控えーい」 その男は取り押さえられ、傷害罪で現行犯逮捕された。それにしても・・・運転免許を振り回す男の行動はなんだったのか・・。茨城県の暴力事件に詳しい埼玉県警所属の犯罪心理学分析官、田中淳氏に話を聞いた。 「原因は『水戸黄門』です。茨城県民は、あの時代劇の・・水戸黄門が印籠を出して『これが目に入らぬか』・・っていう場面があるじゃないですか・・その場面を誤解したんです」 誤解とはどういうことだろうか? 「・・・わざわざ説明する事でもないですが・・・『水戸黄門』の締めは、『懲らしめてやりなさい』って黄門様が言って、チャンバラをやって悪党を痛めつけるシーンがあって・・・その後に『これが目に入らぬか』と言いながら黄門様が印籠を見せるっていうシーンですよね。印籠には徳川家の紋章が入っています。悪党どもは、それを見て『この老人は、実は徳川幕府の偉い人なんだ』・・って分かって、ひれ伏すわけです」 田中氏は苦笑した。 「・・・茨城の人は、それが分からなかったみたいなんですね。『痛めつけてやりなさい』と言って悪党に暴力を振るう。身分を明かす。それで、相手はひれ伏す・・・それを見た高齢の男性の殆どが、暴力を振るった後に自分の身分を明かして『これが目に入らぬか』と言えば、相手がひれ伏すものだと思ったらしいんですよ。だから、免許証を振り回すんです」 ・・・迷惑な話である。いや、茨城県民の民度、知的レベルを考えれば、こんな馬鹿馬鹿しい誤解をするのも不思議はないのかもしれない。茨城県民に『水戸黄門』は早すぎたようだ。 「・・・・はあ?・・」 美園は、KAMRDAの記事から目を上げると、細めた目で僕を見た。 「なにこれ。これ書いた人、頭、大丈夫なの?」 ・・大丈夫ではないだろう。大丈夫だったら、こんなくだらない事を思いつく事もないし、書いて発表する事もない。・・・まだこの記事はましな方だ。馬鹿馬鹿しい話にも一応は理由づけをしているからだ。ひどいのになると書き手が本能のおもむくままに、何も考えないで書いたとしか思えないものもある。 埼玉県内の飲食店で異臭テロ。栃木県から来た集団客の放屁によるものと判明。 昨年十一月、馬鹿な栃木県民がまた埼玉県で馬鹿な事件を起こしていた。迷惑なことではあるが、今回はなんと 美園は目を上げた。その記事をもう読みたくなかったようだ。 「もういい。・・・わかったから」 僕は、美園と目を合わせるのが辛かった。美園は、本当にうんざりした表情だった。嫌悪感が全身から出ている。持っていたKAMEDAの二年前の六月号を汚い物のように右脇の床に投げ出した。 「ユウくん」 「・・・はい・・」 「この雑誌を作っている人たちって・・何がしたいわけ?」 「お金儲けだよ。さっきも言ったじゃないか」 「お金が儲かれば、何をしてもいいとか思っているの?・・・なんか悲しくなってくるよね。こういう誰かの悪口ばっかり集めた記事で雑誌をつくって、お金儲けをしている人たちがいるって事自体がさ」 「・・・僕が仕事を辞めた理由は・・・美園は分かってくれたんだ」 「とてもよく分かった」 「僕がこれまで仕事の事を正直に言えなかった理由も・・」 「分かった。・・・私、怒っていたけど、これじゃ仕方がないよね」 僕は床を見た。美園は許してくれたし、分かってくれた。でもなんだか・・・自分がとても惨めに思えてきた。KAMEDAを読んだ美園の反応は・・・きっと世間一般の普通の人たちのものと全く同じだろう。僕は世間から非難されるような事をして給料をもらって生活していたんだ・・と思い知らされたような気分だ。 「誰かの役に立ちたい、って・・言っている人は、なんか偽善者っぽくて嫌だな・・ってずっと思っていたんだけど・・」 僕は床を見たまま言った。 「僕には、今回の事で、やっとその人の気持ちがわかったんだ」 『誰かの役に立ちたい』・・というのは、誰の役にも立てない、場合によっては人に迷惑をかけて生活しなければならない厳しい立場の人達が思う事だったんだ。実際、僕がこの三年間でやった事は、誰のためにもなっていないし、誰の役にも立っていない。群馬県、栃木県、茨城県の人達を馬鹿にして喜ぶ愛埼者という連中のためにはなったか・・というと、それも違う。 「なんで?」 「これも話すと長いんだけど、いろいろあったんだよ」 「・・どういうこと?」
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