無我の境地

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 無我とは掻い摘んで言えば、俗世に生まれながらにして俗世の価値観や倫理観や世間体を払拭し、這般に侵されながら構築した自分を無とし、更には俗世自体を捨て去って無とし、一切バイアスが掛からず明鏡の如く澄み切ったオリジナルの自分を取り戻すことである。したがって我がなくなるのではなく形而上的な自分の実体を真実の自己として探求することによって精神のルネサンス革命を起こし、煩悩の束縛から解き放たれ、解脱し、または身心脱落し、本来の我を復興させ、無我の境地に達するのである。そうなれば、自ずと知行合一の哲理により倫理を実践し、功徳を積む自分を持った人間になるのである。仏も昔は凡夫なり、皆、仏性があるのだから精進を重ねれば、純真な子供の心こそが仏の心であると良寛が言った様にその過程に於いて本心に、それも穢れのないまっさらな童心に立ち返るのである。謂わば究極の自分探しであり自分らしい生き方であって何にも囚われず執着せず自由無碍に我が道を唯我独尊の精神で驀進するのである。唯我独尊とは歪曲した解釈によれば、自惚れを意味するが、決してそうではない。名声だの財産だの地位だの栄達だの、そういった俗世に於ける名誉に当たるものが何一つ備わっていなくても天上天下に唯一の掛け替えのない我が命、これこそが尊いということであってオンリーワンを誇るのである。  しかし、大半の人間は俗世に於ける名誉に当たるものを尊び、自分を誇るには足らないのである。何故と言うに朱に交われば赤くなるで俗世の影響をもろに受けることによって作り出された自分に囚われ、執着し、周囲にも囚われ、執着するからである。よって我が道どころではなくなり、本当の自分の考えを失い、本心を失い、真実の自分を見失っている。そして迎合したり妥協したり付和雷同したりして自分を持たない同調者の儘、只管、俗世に順応しようと揉まれ塗れ穢れ生き続けるのである。  その典型的な俗物である保浦啓信は、自分の対極にある野原健一に敵愾心を燃やし、矢鱈に我が強いだの自己中心的だの独善的だの自意識過剰だのと言って統率を乱す存在だとして彼を非難する。他の連中も野原健一に対して差別的になり排他的になり、朝霞訓練場に於ける観閲式中、機械的で規律正しい束縛の権化たる行進が去った後、彼の足跡なき足跡だけが横に虚しく逸れていた。キリストの言うストレイシープを思わせるが、野原健一の表情は今の今まで皆と同じく自分をる為に身に付けていた重い甲冑を脱ぎ去ったように解放感と爽快感が漲り、迸り、晴れ晴れとしていた。何でこんなバカげたことをさせるのかと疑問を抱かせること、つまり大東亜戦争中の陸軍の真似を命令通りする愚かしい自衛隊の束縛を打し、そこから脱したのだから然もありなん。正に芸道武道の言う「守、破、離」である。  今、野原健一はニーチェの言う駱駝、獅子を経て幼子となった。であるから元々飲酒、肉食、女犯をする戒律無視の風狂の破戒僧、一休宗純のように俗世を修行場とし、煩悩の束縛をも悟りの糸口、材料、原動力として禅の何たるかを心得た彼は、今後も孤高の道を歩み続け、偉大なる足跡を残し、ニーチェの言う超人になるやも知れない。
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