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「人間って見た目じゃ全然わからないものですね」
デスクでスマートフォンをいじっていた古崎が、ぽつりと言った。
櫻場は「能力と一緒だよ。蓋を開けてみるまで中身は見られない」と返し、熱いコーヒーをゆっくりと飲んだ。温かいものが体の中を流れるのと同時に、全身から力が抜けていく感覚がする。
古崎がスマートフォンを置き、デスクにうつ伏せになった。
「笹口さん、悪い人に見えなかったのになぁ。駒橋さんを守ってくれって、すごく必死そうだったのに」
「警察を巻き込むための演技だったんだろうね。俺もすっかり騙されたよ」
「勝手に好きになって、勝手に裏切られたと思って殺すなんて、ホントに許せない。そんな極悪非道人にお茶なんか出すんじゃなかったなぁ」
古崎は爪で机の表面を引っかき、「利用された梅下さんもかわいそう」と言って、唇をぎゅっと引き締めた。
梅下のスマートフォンは笹口のジャケットから見つかったそうだ。自分との関係を隠蔽するため、梅下殺害後に笹口が盗んだのだろう。駒橋のスキャンダル写真も、笹口が第三者を騙り出版社へ送ったことが判明している。
梅下が自身の能力を笹口へ詳らかにしなかったのは、警戒心を捨てきっていなかったからだろう。梅下が駒橋を憎んでいたのは真実かもしれないが、最期に笹口の逮捕へつながる証拠を遺したのは、えん罪の回避よりも駒橋への想いが勝っていたためだと、櫻場は勝手に思っている。
懸垂マシーンでひたすら筋力を鍛えていた上倉が、肩にかけたタオルで汗を拭きながらデスクへ戻ってきた。すかさず古崎がブーイングを鳴らす。
「カチョー、また汗臭くなってる。ちゃんと拭いてください」
「拭いてるだろうが」
「タオルじゃなくて汗ふきシートでです。私から見えないとこで、ほら早く」
古崎が猫でも追い払うかのように手を振る。上倉は「それが上司に対する態度かよ」と文句を言いながらも、デスクの引き出しから黒いパッケージの袋を取り出し、ロッカーのほうへ姿を消した。
悲惨な事件が起こっても、櫻場たちの日常は普段と同じように流れていく。その中で新入りだけが、自ら仲間はずれを志願していた。特課へ戻ってからというもの、真島は神妙な顔つきで黙りこくっているのだ。時折盛大なため息をついたり、急に席を立っては意味もなくウロウロと歩いたりしている。
「真島、疲れてるとは思うけど、報告書早めに作れよ」と櫻場が向かいの席へ声を飛ばすも、やはり応答がない。声をかけられていることすら気付いていないのか、真島は席に座ってじっと自分の手元を見つめ続けている。
仕方なく、櫻場は後輩の真横へ立ち、肩を軽く叩いた。弾かれるようにして真島が顔を上げる。
「ビックリした……なんですか?」
「目開けたまま寝てたんじゃないだろうな。報告書、早めに作れよ。じゃないと一課に色々言われるからさ」
「わかりました」
真島はそう答えたものの、再びどこかぼんやりとした顔つきで沈黙した。
定時のチャイムが鳴った。上倉が「飲みに行くか」と提案するも、古崎が「推しのイベントが始まるので」と足早に帰って行く。櫻場も今日中に書類の目処を立てたいと告げると、上倉は「若い奴の付き合いがどんどん悪くなってくなぁ」と悲しげに言い、帰り支度を始めた。
「んじゃ、俺は先に帰るわ。戸締まりよろしくな」
「お疲れ様です」
「お疲れ」
上倉を見送り、櫻場は一度休憩を取ることにした。ポットに残っているコーヒーが少なくなっているため、作り直そうと腰を上げる。
真島は依然としてぼんやりとパソコンを見つめていた。定時が過ぎていることにすら気付いていないようだ。今日は早く帰宅させたほうがいいかもしれない。
「真島、報告書は明日でいいからもう帰れ」
背後を通り過ぎざまに声をかけると、真島が「先輩が帰るまで付き合います」と覇気のない声で言った。
「いや、そういうの要らないから。帰れって」
税金の無駄遣いだし。櫻場の喉元まで出かかったが、さすがに声に出すのは遠慮した。
淹れたてのコーヒーをカップへ注ぎ、普段は使わないスティックシュガーを一本だけ開ける。立ったままカップへ口を付けると、糖分が体に染み渡っていく感覚がした。
席へ戻るため再び真島の後ろ側を通ったとき、突然真島が振り返った。伸びてきた手に櫻場の腕が掴まれる。
「危なっ。コーヒーこぼしたら掃除が面倒だろが」
「すみません。先輩に聞いてもいいですか」
「なにを」
真島は「あの……」と言葉を濁しながら視線を落とし、ややあってから顔を上げた。
「殺人事件を扱うのって何回目ですか」
真島の顔が、生気を抜き取られたかのように淀んでいる。笹口を追い詰めた姿とはまるで別人だ。
初めての現場で初めての殺人事件。疲労や寝不足も手伝って、精神が疲弊しているのだろう。駒橋とは喧嘩友達のような間柄になっていたし、ここへ来て喪失感なり悲哀感なりが襲ってきているのかもしれない。
だがそれは、真島に限った話ではない。
「俺も初めてだよ」
櫻場とて目を閉じると――いや、閉じなくても、駒橋の無残な遺体がフラッシュバックする。昨日まで話して、笑って、精一杯生きていたのに。いまはもう、世界のどこにも居なくなってしまった。
「辛く、ないですか」
真島がぽつりと言う。
「辛いよ。俺がもっと早く笹口さんの能力に気付いてれば、駒橋さんも梅下和典も死なずに済んだのにって、めちゃくちゃ後悔してる」
「先輩は悪くないですよ。むしろよく見抜けたなって思います。先輩の能力――『写真記憶』でしたっけ。それがなかったらきっと、梅下が犯人にされてました」
「その呼び方やめろって。古崎さんが勝手に付けただけだから」
写真記憶。文字どおり、記憶を写真のように綴じておける能力だ。
小学校五年生のとき、櫻場は自分の記憶力が周囲とは桁違いであることに気付いた。遠足で訪れた場所の風景、昨夜見たテレビの内容、読んだ漫画。櫻場が少しでも興味を抱いたものは、まるでアルバムを捲るように、細部まで鮮明に思い出せたのだ。
櫻場の脳内の記録は消えることなく、どんどん蓄積していった。両親へ相談すると、頭の中で図書館を作り、ジャンルごとに管理をすれば良いとアドバイスを受けた。以来、櫻場の脳内図書館は蔵書数を増やし続けている。その話を古崎にしたところ、『写真記憶』という格好いいのかそうでないのかわからない技名を付けられたのだ。
「俺のなんかより、真島のほうが圧倒的に優秀だよ。分子レベルで凍らせられるって強すぎだろ」
「俺は武闘派なだけです。戦えたって、犯人を見つけられなきゃ意味ないですから」
「犯人を見つけられたって、逃げられたら意味ないだろ」
「じゃあイーブンってことで」
無意味な賞賛合戦をしてしまった。櫻場が気恥ずかしさを咳払いで誤魔化していると、真島が表情を緩めた。
「先輩、駒橋さんのリハーサル見てるときに、『才能があってそれに見合う努力が出来るのはすごい』って言ったじゃないですか。俺もそう思います。先輩はマジですごいです」
やはり聞こえていたのか。忘れてくれれば良いものを。顔から火が出そうな櫻場をよそに、真島が続ける。
「俺も特課で頑張ります。一日も早く先輩の右腕になれるように」
「お前なら俺なんかすぐに超えられるだろ。能力的にもキャリア的にもさ。要らなくなるのは俺のほうだ」
櫻場の中で眠っていた不安がくすぶり始める。真島の能力は強力だ。今回同様、凶悪犯とまみえても一人で対処可能どころか楽勝だろう。対して、櫻場に出来ることといえばせいぜい囮になることくらいだ。まるで役に立たない。
近い将来、特課は真島を中心に動き始めるだろう。そうなったとき、櫻場の居場所は残っているだろうか。
「先輩って、自己評価がめちゃくちゃ低いんですね」
真島が目を見開いた。
「もし俺が先輩と同じ能力と頭脳を持ってたら、周りに自慢しまくりますよ。俺に解決できない事件はない! って」
「お前のほうが頭いいだろうが」
「俺は勉強が出来るってだけです。先輩のは知識より知恵っていうか、応用力っていうか。一を聞いて十を知るってやつかな」
真島が櫻場をまっすぐに見つめた。櫻場とは違って、瞳に宿っているのは澄んだ色だ。
「特課には先輩が必要です。絶対に」
真島の柔らかい声が櫻場の耳の奥に響く。櫻場は初めて、真島は常に本音を口にしていたのだと感じ取った。駒橋への態度も、笹口への怒りも――櫻場への言葉も。自分に嘘をつかず、すべてのものに真剣に向き合っているのだ。
それに比べて俺は。勝手に空回りして、勝手に落ち込んで、勝手に憎んで。これでは笹口や、駒橋を一方的に叩く奴らと同じじゃないか。
「これからもよろしくお願いします。櫻場先輩」
真島が優しく微笑み、右手を差し出してきた。数秒迷った末、櫻場は真島の手を取った。体温が触れあうなり、強く握り込まれる。
「俺のこと、少しは嫌いじゃなくなってくれたみたいで嬉しいです」
「だから嫌いなわけじゃないって。ちょっと苦手だっただけだよ」
「それもショックなんですけど。ちなみにどこがですか」
「そういうとこだよ。いいから手を離せ。俺は仕事する」
真島は「差別反対」と文句を言いながらも、どこか嬉しそうな表情で握手を解いた。それからしばらくは互いにキーボードを叩くことに集中したが、時間の経過とともに疲労が勝り、キーを打つ時間よりも雑談する時間が増えていく。
一時間ほどが経過したのち、櫻場は書類は明日に回そうと決断した。真島も異論を唱えなかったため、電気を消して戸締まりをする。
警視庁の玄関を出ると、冷たい風が足元から吹き付けてきた。枯れ葉のかさついた音が、闇にくるまれた街へ吸い込まれていく。
櫻場が夕飯を食べて行くかと提案すると、真島の顔が一気に明るくなった。何度も「行きたいです」と繰り返す。激しく振られた尻尾の幻影が見えそうだ。
近場にある大衆居酒屋を目的地に据え、人影がまばらな道を真島と並んで歩く。そろそろ厚手のコートも出さなきゃなと櫻場が考えていると、後方から男の声が聞こえた。
「宏斗!」
はっきりと耳へ届くなり、櫻場の足が反射的に止まった。振り向かずともわかる、聞き慣れた声。だけど――どうして。
衝撃のあまり棒立ちになった櫻場へ、真島が「知り合いですか?」と聞いてきた。
知り合い程度なら良かったのに。聞かなかった振りが出来たのに。
来るな。そう願っても靴音は近づいてくる。
「宏斗」
来ないでくれ。――櫻場の願い虚しく。
駆け寄ってきた男が、櫻場を背後から抱きしめた。
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