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「日野君ごめんね。定時過ぎちゃってるのに」
真っ白い手袋を嵌めた日野へ、櫻場はそう言って詫びた。
「……問題ありません。もう始めてしまっていいですか?」
櫻場が頷くと、日野は会議室のテーブルへ並べた機材のチェックを始めた。
丸めたスクリーンに、撮影用のカメラ、映像を管理するためのノートパソコン、プロジェクター。日野が機材の一つ一つをじっくりと観察する。「会場内ではどんな配置になっていたんですか?」と質問されたので、櫻場はスマートフォンで撮った写真を見せ、口頭で補足説明をした。
「……スクリーンに妙な文が表示されて、すぐに電気も消えたんですよね」
「うん。スタッフに確認したけど、誰もブレーカーには触ってない。もちろん俺たちも。近くで見張ってた警備部の助っ人も、異変はなかったって言ってる」
会場のブレーカーは、機材よりも更に後方の壁の隅に備え付けられていた。客には絶対に手の届かない場所だ。
「……了解しました。では解析を始めます」
日野がどことなく嬉しそうにパソコンの電源を入れる。立ち上げを待つ間、真島が駒橋のSNSへの書き込みについて伝えると、日野はそれも調べますと請け負ってくれた。
機材の調査は日野へ一任し、櫻場と真島は会議室を出た。櫻場のスマートフォンに、上倉からの着信が来る。上倉は駒橋を護送する任務に就いており、駒橋をホテルへ送り届けたのでこれから帰って来るという。
櫻場は上倉との通話が終わるなり、「駒橋さん大丈夫かな」と呟いた。耳ざとく櫻場の声を拾った真島が、「大丈夫ですよ」とあくびを噛み殺しながら言う。
「セキュリティもしっかりしてるホテルなんですよね?」
「うん。駒橋さんの部屋は十一階だけど、エレベーターを使うには専用のカードキーが必要だよ。階段は一時的に使えないようにしてもらってる。部屋には緊急用の避難口があるから、何かあればそこから逃げられる」
「じゃあ安心ですね。いま駒橋さんに必要なのはゆっくり休むことでしょうし」
駒橋の居場所はごく一部の限られたスタッフにしか知らせていない。万が一犯人がホテルの部屋を突き止めたとしても、エレベーターは使用不可能だ。よしんば駒橋の部屋の前まで到着したところで、駒橋がドアを開けなければ済む話である。もし相手が無理矢理こじ開けようとすれば、すぐさま駒橋は通報して避難口から逃げるだろう。それどころか、ドアを破壊する道具をホテルに持ち込んだ時点で、ホテルのスタッフに見咎められるはずだ。
たしかに安全だとは理解している。だが、それでも櫻場の内心には微かな警報音が鳴り響いている。見落とせば絶対に後悔するという緊張感が、櫻場の中で不穏な音色を鳴らし続けている。
櫻場は上倉へ電話をかけ、駒橋が泊まっているホテルの近くで待機したいと申し出た。渋る上倉を「もしホテル側なり駒橋なりが通報をした際、すぐに駆けつけられるようにしたい」と説き伏せる。
「わかったわかった。けど、条件がある。真島も一緒に連れてくなら待機を認める」
「真島も、ですか?」
櫻場はチラリと真島を横目で見た。嫌がるかと思いきや、真島は「俺も先輩と一緒に行きますよ」と上倉にも聞こえるように言う。
通話を終え、櫻場は「今日は帰れなくなるぞ。ほんとにいいのか?」と真島へ確認をした。
「いいですよ。特に予定もありませんし。先輩が行くならどこへでもお供します」
「桃太郎の犬とか猿とかみたいだな」
「ご褒美くれます?」
「経理部からな」
「それって残業手当じゃないですか」
櫻場は真島とともに車へ乗り込み、ソワソワと落ち着かない気持ちを抑え、駒橋が宿泊しているホテルへ向かった。
周辺はオフィス街で、夜の十時を回っているせいか通行人は少ない。ホテルからは死角になっている路地へ車を静かに停める。街灯の光も届かない闇の中で、何かが動く音がした。櫻場の心臓がドキリと大きな音を立てる。目を凝らして闇を探ると、ただの野良猫だった。
真島が近くのコンビニへ買い出しへ出かけると言い、リクエストを訊いてきた。適当でいいよと答える。今日はろくに食事を取っていないが、緊張からか空腹感は皆無だ。
櫻場はバックミラーに映るホテルへ目をやり、身体をシートへもたれさせた。気を緩ませると、やってくるのは罪悪感だ。
結局、駒橋のコンサートを台無しにしてしまった。最善の努力はした。だが、結果が伴わなければ無意味だ。駒橋は櫻場たちを一言も責めなかった。恨み言すら言わなかった。理不尽な仕打ちに対する怒りも悲しみも、きっと自分の中にしまい込んでいるのだろう。
笹口には少しは吐き出せていると良いのだが。そんなことをぼんやりと考えていると、両手にカップを持ち、腕にビニール袋を引っかけた真島が戻ってきた。
「コーヒーどうぞ。あと、おにぎりとパン、どっちがいいですか? 二つずつあるので、両方でも大丈夫ですよ」
「お前が先に選んでいいよ」
「全部好きなの買ったんで。先輩が選んでください」
櫻場は袋の中を一通り眺め、高菜のおにぎりとカレーパンを選んだ。真島は鮭のおにぎりとメロンパンだ。
真島は一瞬でおにぎりを食べ、コーヒーを啜ってから「先輩の予想的中しましたね」と物憂げに言った。
「俺も半分くらい……もっとかな。イタズラだろって思ってたんです。すみませんでした」
「いいよ。俺も半信半疑だったし。結局コンサートはぶち壊しちゃったし」
「先輩が壊したんじゃないでしょ。俺たちは出来ることを一生懸命頑張りましたよ」
「そんなの、駒橋さんには言い訳にしか聞こえないだろ」
コーヒーの苦みが胃の中へ消えていく。おにぎりはまだ半分以上残っているのに、食べる気力が湧かない。
「お前、昨日俺と駒橋さんの話を立ち聞きしてただろ」
「あれは聞いたっていうか聞こえたっていうか」
「どっちも同じだよ。……あの写真、明後日には世間に出回るんだよな」
コンサート会場でのハプニングに続くスキャンダル写真。マスコミの格好の餌食だ。駒橋は、今頃一人で泣いているかもしれない。その姿を想像し、櫻場の胸の辺りが疼くように痛んだ。
「今回の犯人もだけど、駒橋さんをホテルに連れ込んだプロデューサーも許せないんだよな。権力を笠に着て女の子に手を出すなんて、卑劣すぎるだろ」
「でも、脅迫されたわけでもないでしょうし、誘いに乗ったのは駒橋さん自身ですよ。芸能人はどうしてもマスコミに追いかけられるから、正々堂々と宣言できること以外はしないほうがいいんでしょうね。世間的に」
「世間、ねぇ……」
有象無象の集団は、いつだって多数派のものを正義とし、多数派が弾いたものを「間違っている」と騒ぎ立てて叩く。駒橋の写真の件とて、あしざまに取り沙汰さたされるのは目に見えている。マスコミも世間も、真島と同じ見解を示すだろう。それどころか、駒橋から誘ったなどと根も葉もない嘘を流布されかねない。二十四時間常に世間から監視されながら、駒橋は生きているのだ。どれほどのストレスなのか、櫻場には到底想像もつかない。
時刻が夜の十二時を過ぎた。交代で仮眠を取ることになり、櫻場はシートの背もたれを倒した。目を閉じても、眠気は一向にやってくる気配がない。
体勢を何度も変えるうち、櫻場のスマートフォンが鳴った。日野からの着信だ。
「櫻場です。真島もいるから、スピーカーにしてるよ」
「……お疲れ様です。いま大丈夫ですか」
「うん。何かわかった?」
「……それが……」
日野は歯切れが悪く「何もわからなかった」と言った。
記録用に撮影されていたビデオカメラの映像と照らし合わせたところ、スクリーンに脅迫文が表示されたのが十八時二十分。一方、演出に使用したソフトのログは、十八時十九分までしか残っていなかったそうだ。
「つまり、犯人は機材のパソコンを使わずに、何らかの方法でスクリーンに脅迫文を映した、のかな?」
櫻場が問いかけると、日野は否定した。
「……犯人の干渉は明らかです。だって、ソフトが閉じられた跡すら残ってませんから」
日野の言わんとしていることを理解できない。櫻場が必死に思考をフル回転させていると、真島が「サイトに送られたメールと同じか」と言った。
「……SNSのほうも調べましたが、すでにアカウントは削除されていました。すべてにおいて痕跡の消え方が不自然です。たとえるなら、落書きの上からペンキを塗ったのではなく、落書きそのものを消し去ったような」
「相手が日野君よりも腕が上のハッカー、とか?」
日野は櫻場の意見を「あり得ません」と一蹴した。
「……僕を超える天才ハッカーなんて、この世界には存在しません。つまり」
日野が一呼吸置く。揺れる前髪が見えた気がした。
「……これはおそらく、特殊能力者による犯行です。僕が思うに、電子機器を操る能力者ではないかと」
鈍器で頭を強く殴られたような衝撃が櫻場に走った。迂闊すぎた。なぜすぐに考えつかなかったのだろう。
櫻場は上倉への連絡を真島へ任せ、ホテルの正面玄関前へ車を走らせた。エンジンを切るなり、ドアから飛び出してフロントへ駆け込む。警察手帳を掲げた真島がエレベーターのカードキーを受け取っている間に、櫻場は笹口へ電話をかけた。間を置かずに応答がある。
「櫻場さんですか、あいり、あいりが……っ」
「落ち着いてください。何かありましたか?」
「あいりが、さ、刺されて……っ」
間に合わなかった。櫻場の台詞から察したのか、真島が119番通報をする。
エレベーターに乗り込み、閉まるボタンを何度も押す。もっと早く動けと念じながら、櫻場は電話口の笹口へ「落ち着いてください」と声をかけた。
「傷口を布かなにかで押さえられますか?」
「はい、シーツで……あいり、しっかりしろあいり!」
エレベーターが十一階に到着するなり、櫻場は開ききっていない扉をすり抜け、駒橋の部屋である1105室へ駆けていった。ドアを開けた際、かすかに甘い香りがした気がしたが、すぐに血なまぐさいそれに変わる。
駒橋は床へ座り込み、ベッドへ身体を預けるようにして顔を俯けていた。寝る直前だったのか、ホテルに備え付けられた寝間着姿だ。胸の辺りがべっとりと赤く染まり、足下には血の付いたナイフが落ちている。襲撃を受ける直前まで使用していたのか、ノートパソコンがベッドの上で開いたままになっていた。
櫻場は身を屈め、駒橋の首元へ指を当てた。脈はない。
「真島、救急車は?」
「あと五分以内には到着するそうです」
「わかった。お前は駒橋さんの止血を頼む」
声が震えないよう、櫻場は腹に力を込めて言った。怒るのも悲しむのも後回しだ。いまは刑事としてやるべきことがある。
顔を真っ青にした笹口は、腕で自分の身体を抱くようにして震えていた。目の焦点が合っておらず、しきりに駒橋の名を呟いている。
「笹口さん。あなたが駒橋さんを見つけるまでの経緯を伺いたいのですが」
「わた、私は……」
笹口の声は掠れていた。瞳が波のように揺れる。
「私は、あいりに頼まれて隣に部屋を取ったんです。スケジュールで確認したいことがあったので電話をかけたら、出なくて。普段なら起きている時間なのでおかしいと思って、でももしかしたら疲れて寝てしまったのかもと……」
悩んだ末、笹口は駒橋の部屋をノックしたそうだ。だが応答はなく、笹口の胸騒ぎに拍車が掛かった。フロントへ事情を話し、ホテルの管理者とともにマスターキーで鍵を開け、無残な姿となった駒橋を発見したらしい。
冷たい風が吹き抜けた。部屋の窓が開いているのだ。
櫻場は現場を損なわないように注意して室内を進み、窓から外を覗いた。暗闇の中で、白く浮かび上がっているものが見える。
「ちょっと外を確認してくる。駒橋さんと笹口さんを頼む」
そう真島へ言い残し、櫻場はエレベーターで一階へ下りた。入れ違いで情報が伝わっていたのか、フロントが騒然となっている。櫻場はスタッフ全員にその場で待機するよう告げ、正面玄関から外へ出た。
建物をぐるりと回り込み、スマートフォンのライトを頼りに、駒橋の部屋の真下に当たる部分を探す。植え込みへ埋没するようにして、白い何かがが落ちていた。
ライトで照らし出す。
それは物ではなく、人間だった。
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