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三十分もしないうちに、現場は大勢の人間がひしめく声で満ちた。
櫻場は夏野らの所属する鑑識チームへ連絡を取ったが、現れたのは刑事部の一課と、一課が率いる鑑識班だった。黒い帽子を被った群れの中に櫻場の見知った顔を見つけたが、気付かない振りを決め込む。
「ここから先は一課が取り仕切る。能なしの特課は帰れ」
清水が顎を突き出して言う。鑑識班は迅速に散らばり、たちまち部屋の中がカメラのシャッター音やフラッシュの白い光で満ちた。
真島が「これは私たちが受けた事件です。一課の出る幕じゃないでしょう」と主張する。清水は哀れみに近い表情を浮かべた。
「お言葉ですが真島警部殿。これは普通の殺人事件です。猫が集会を開いたとかカラスがしゃべったとか、そんな次元の話ではないんです」
「犯人が特殊能力者の可能性があります。白黒をはっきりさせてから判断すべきでは?」
「仮に真島警部の仰るとおりだとして、どうやって異常者の犯行かどうかを見極めるおつもりですか? 死体に尋ねますか? それとも、外で見つかった死体以外に犯人が居るとでも?」
真島が言葉に詰まる。潮時だ。櫻場は組んでいた腕を解き、清水の名を呼んだ。
「あとのことはよろしく頼む。それと、異常者じゃなくて特殊能力者だ。警察官たるもの、差別用語は慎むべきじゃないのか」
「我が身可愛さゆえの指摘だな。とっとと出て行け」
これ以上清水と言い合っても時間の無駄だ。櫻場は心の中で駒橋に詫び、1105室を出て行った。真島も大人しく付いてくる。
車へ乗り込むなり、真島はシートベルトをしながら「あいつめちゃくちゃムカつきますね」と鼻の穴を膨らませながら言った。
「未来のお前の部下だけどな」
「だから特課は辞めませんってば。それで、これからどうするんです?」
「特課に戻る。課長に報告して、あとは夏野さんからの連絡待ちだな」
エンジンをかける。真島が不思議そうな表情をした。
「一課の鑑識が特課の鑑識に情報渡しますかね?」
「清水が引き連れてきた鑑識班に夏野さんが潜り込んでた。変装してたから、誰にも気付かれてないみたいだよ」
「マジですか」
夏野はこれまで一課の鑑識班に紛れ込んだことが数回あり、目下のところ見咎められずに済んでいる。研究室の室長からは「程々にしろ」と注意を受けているそうだが、夏野は「スパイみたいで楽しい」と率先して現場へ向かってくれる。頼もしい仲間だ。
櫻場と真島が警視庁へ戻ると、すでに上倉がデスクに座っていた。櫻場から経緯を説明する。話し終えると、上倉は「一課の連中は石頭だからなぁ」とぼやいた。
「あいつらは特殊能力者をこれっぽっちも理解してねぇ。これまで俺たちの管轄内で殺人事件が起きてなかったのは単なる偶然だ。東北や関西のほうじゃポツポツ上がり始めてるっつぅの」
櫻場は「特殊能力者そのものを差別してますからね。おおかた、そんな大それたことは出来ないだろうって高を括ってるんでしょう」と言い、上倉が用意してくれたコーヒーを啜った。芳醇な香りを深く味わうでもなく、思考をクリアにするためだけにカフェインを取り込む。
特課へ戻る道中、笹口から駒橋の蘇生は叶わなかったと連絡を受けた。駒橋の遺体は警視庁へ運ばれ、朝日が昇るのを待たずに検視が行われるそうだ。
守れなかった。
コンサートを成功させることも、駒橋の命を守ることも出来なかった。結果を残せなければどんな行動も無意味だ。櫻場は仕事をしている気になって、見当違いのことをしていただけなのだ。
能なしの特課は帰れ――清水の言葉が脳裏で反芻する。そうだ。俺は能なしだ。全力を尽くしてこの程度なのだから。
「お前のせいじゃねぇぞ櫻場。俺が同行したってこうなってただろうしよ」上倉が給湯室でカップを洗いながら言う。「俺たちは全知全能の神でも、映画に出てくるようなスーパーヒーローでもねぇ。出来ることには限界がある。それを忘れるな」
「やれるだけやったんだから努力を認めろなんて通用しませんよ。俺たちは結果を出して初めて評価されるべきでしょう」
「驕ってんじゃねえぞ櫻場」
上倉がフロアへ水滴をまき散らしながら戻ってきた。鋭い目で櫻場を捉える。
「すべての人間を救えるなんて思うな。誰にだって能力の限界があるんだ。結果だけを見てると、この世界で生きるのが苦しくなるぞ」
上倉は櫻場の肩を叩き、「仮眠取るぜ」と言って応接用のソファへ寝転んだ。真島が照明をデスク側だけ残して消す。上倉の眠りを妨げないための配慮だろう。
静寂で満ちた室内に、時計の針の音だけが響く。櫻場はデスクに肘を突いて手を組み、そこへ額を押し当てた。
上倉は正しい。砂を掬うのと同じで、どんなに全力を尽くしても、指の間から粒がこぼれ落ちていく。そのたびに嘆いていては、刑事という仕事は務まらない。
自分は非力だ。それは理解している。しかしだからこそ、救えなければ意味がないのだとも櫻場は思うのだった。
一時間ほどが無為に経過してから、コンコンとがドアがノックされ、櫻場は席を立った。こちらが応答する前にドアが開く。
「ヒロくーん! 昨日ぶりだね!」
鑑識の作業服から白衣へと着替えた夏野が、両腕を広げて駆け寄ってくる。ハグをされる直前で、真島が間に割って入ってきた。
「ここはお触りキャバクラじゃありませんので」
「なんだいその例えは。もしかして真島君て風俗好き?」
「違います」
「風俗が嫌いな男子ってむしろ不健全じゃない?」
「ものによります。そんなのはどうでもいいから、早く用件を言ってください。夏野さんが一課の鑑識班に紛れ込んでいたのはわかってるんです」
真島が仁王立ちをする。夏野は不平を鳴らしたが、櫻場が催促をすると、渋々といった口調で話し始めた。
ホテルの外で発見した男の名は梅下和典。三十三歳で、中小企業のエンジニアだそうだ。検視はこれからだが、遺体の損傷具合から、死因は転落死だと目されているらしい。
「駒橋あいりの直接的な死因は、胸部を複数回刺されたことによる失血死、もしくは臓器の損傷だろうね。防御創は無し。凶器は部屋に落ちていたナイフで、梅下の指紋が付着していた。一課は梅下が駒橋あいりを殺害したとみて調査してるよ」
「状況証拠からの推測ですか?」
櫻場が尋ねると、夏野はスマートフォンに一枚の画像を表示した。白い封筒で、一般的なサイズをしている。
「部屋のテレビ台の近くに落ちてたんだ。中には紙が一枚入ってて……」
夏野が指をスライドさせる。文書が映った。手書きではなく、コピー用紙に印刷されたもののようだ。櫻場が読み上げる。
「『復讐を果たしたので、綺麗になった彼女の後を追います。梅下和典』……遺書ですか」
「そ。梅下は元々、駒橋あいりのファンの間では有名だったらしいよ。コンサート中に奇声を上げ続けるとか、握手会で長時間手を握ってスタッフに引き剥がされるとか、相当厄介な奴だったんだってさ」
「梅下がホテルの部屋に侵入できた理由はわかりますか?」
「梅下の所持品に部屋のキーはおろか、ドアをこじ開けるような道具はいっさい見つからなかった。ドアの鍵も損傷箇所はない。そこで一課が考えたのは、駒橋あいりが自分で梅下を招き入れた説だよ」
そんな馬鹿な。櫻場が思うのと同時に、真島が声に出して言った。
「コンサートを台無しにしたであろう犯人を、自分から部屋へ入れるなんてあり得ませんよ」
「そこだよ真島君」
夏野が軽快な動きで真島へ人差し指を向けた。
「駒橋あいりを殺害したのは梅下だとして、じゃあコンサートを邪魔したのは誰か? 一課はね、駒橋あいりの自作自演じゃないかと疑ってるのさ。最初に送りつけられたメールも含めてね」
駒橋の自作自演? あんなに全力でリハーサルに挑み、ファンを感動の渦に叩き込んでやると意気込んでいた駒橋が――自ら晴れ舞台を壊した?
「そんなのあるわけない!」櫻場は思わず声を荒らげた。「駒橋さんが自分で自分のコンサートを駄目にして、何の得があるんですか」
「話題性だってさ。一昔前に流行った、炎上商法に似た手口だと一課は見てる。現に、ネットではコンサートが中止になってから、駒橋あいりに関する情報が爆発的に増えたそうだよ」
たしかに、コンサート中に事件が起これば、マスコミも世間も注目するだろう。駒橋を知らなかった人々に名前を売り込むチャンスにもなる。週刊誌記者に写真を撮られたことを利用し、駒橋自身が一連の騒動を画策した。そう考えれば辻褄は合う。
だが。
ステージの上の駒橋は、自分の実力だけで駆け上っていこうとしているように見えた。櫻場が嫉妬を覚えそうなほどに、強く強くまばゆかったのだ。
「梅下和典は特殊能力者です」櫻場は声を絞り出した。「駒橋さんの部屋も、能力を使って侵入したのだと思います」
「もしヒロ君の推測が正しかったとしても、一課は必ず証拠の提出を求めてくる。応じられなければ一蹴されるだけだよ」
「櫻場先輩だけの意見じゃない」真島が助け船を出してくる。「俺と、日野っていう元ハッカーの意見も入ってます」
夏野は困ったように笑った。
「残念だけど、人数の問題じゃないんだよね。俺だってヒロ君の言うことは信じたい。でも判断するのは一課だ。一課を納得させられない限りは、百万人の署名を集めたって無意味なんだよ」
夏野の言葉は尤もだ。特殊能力者に定義も法律も存在しない以上、梅下和典の能力だけでなく、能力を犯行に使用したという絶対的な証拠が不可欠なのである。
見つけなければ。きっとまだ、何か見落としがあるはずだ。
櫻場は夏野へ梅下の所持品をすべて教えてくれと頼んだ。予測済みだったのか、夏野がすぐに「財布と家の鍵だけだよ。両方ともジーンズのポケットに入ってた」と教えてくれる。
「梅下の家宅捜索はこれからですか?」
「一時間後に始まるよ。必要とあらばまた潜り込むけど?」
「お願いします。梅下のスマホが見つかったら教えてください」
「スマホか。そういえば持ってなかったね」
夏野が自分のスマートフォンを見遣る。タイミングを計ったように着信音が鳴った。室長からの連絡だったのか、夏野が「はいはい、すぐに戻りますよ」と不満そうに応じる。
通話を終えると、夏野は室長への愚痴をこぼしながら、研究室へと引き返していった。自席へ戻った真島が「駒橋さんの自作自演なんて、よくもそんな馬鹿馬鹿しいことが思いつきますね」と苦々しい口調で言う。
「梅下の遺書もあるし、一課は早いとこ決着をつけたいんだろうな」
「杜撰すぎますよ。ちゃんと調べてから言えっての」
ソファで寝ていたはずの上倉がのっそりと身体を起こし、「立場が違えばものの見え方も違ってくるんだよ、真島」と言った。狸寝入りをして夏野との会話を盗み聞きしていたのだろう。
「お前らは駒橋あいりに肩入れしすぎだ。現場の状況と梅下の遺書を併せて考えりゃ、一課の見解が最有力だろうが」
櫻場は反論をしようと口を開いたが、言い返せるほどの材料がなく、唇を噛みしめた。真島が「ですが課長」と食い下がる。
「俺もずっと駒橋さんの狂言かもなって思ってましたけど、あのコンサートを見て考えを改めました。初めからぶち壊しにする予定だったなら、もっと適当にやってたと思います」
真島は一歩も引かない。上倉がため息をつき、腕を組んで天井を見上げた。
「まぁ、あのコンサート見りゃ誰でもそう思うよな。ああいうのは初めて見たが、すごかったな」
うん、と上倉が何かに納得したように頷く。
「とりあえず、お前らは一旦家戻れ。んで、いつもの出勤時間になったら戻ってこい。捜査を再開するのはそれからだ」
思ってもいない言葉に、櫻場は真島と顔を見合わせた。同時に「ありがとうございます」と頭を下げる。持つべきものは話が分かる上司である。
公共交通機関がまだ動いていないため、櫻場は公用車で真島を送ってからアパートへ帰った。時刻は四時になろうという頃合いで、カーテンの外はまだ暗い。
シャワーを頭から浴びる。目を閉じると、櫻場の脳裏でここ二日間の出来事が駆け巡っていった。血まみれになった駒橋の残像に、何度もごめんと詫びる。
軽く焼いた食パンを紅茶で胃に流し込み、櫻場はベッドへ身体を投げ出した。目を閉じるうちに意識がまどろむ。深い淵に手が届いたところで、スマートフォンのアラームが鳴った。
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