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事件現場となってしまったホテルは、従業員も含めてすべての民間人が退去していた。周辺には規制線が張られ、その外側から目を血走らせたマスコミがスクープを得ようと息巻いている。櫻場と真島はまとわりつくマスコミへ「捜査中です」と繰り返し、警察関係者のみが出入りしているホテルへと入った。
1105室のドアは開け放たれ、いたる場所にアルファベットや数字の書かれた鑑識標識板が置かれていた。遺留品はあらかた一課が回収をしたが、血痕は残っている。この場所で駒橋を殺したのだと、犯人が顕示しているかのようだ。
大きく開いたままのドアを、櫻場と真島は左右から挟むようにして立った。外ではマスコミが馬鹿騒ぎをしているというのに、ホテルの中は雪が降り積もった夜のように静かだ。
「こんな時なんですけど」真島が左手に提げていた紙袋を右手に持ち替えながら言う。「さっきは先輩と遊べて楽しかったです」
「そりゃ良かった。事件が起こるたびに付き合わせてやるから、そのうちうんざりすると思うよ」
「しませんよ。長年の夢だったんですから」
真島が口角をかすかに上げる。
長年って、まさか高校時代からじゃないだろうな。櫻場は寒気を覚えたが、問いただす気にはなれなかった。代わりに、「本当に大丈夫なんだろうな、真島」とこれから起こるであろう事態への確認をする。
「先輩の仮説が正しければ」
「間違ってたら?」
「そうですね……」
真島が視線を天井へ向けた。悩む素振りをしてから、あどけなく笑う。
「一緒に天国へ逝きましょう」
「全力で断る」
櫻場が拒否したタイミングで、廊下の奥からエレベーターの到着音が聞こえた。こちらに気付いた笹口が駆け寄ってくる。
「櫻場さん、真島さん、このたびは色々ご迷惑をおかけしました」
櫻場が「いえ、仕事ですから。駒橋さんのご家族は、夕方にはこちらに到着されるそうですね」と言うと、笹口は辛そうな表情で頷いた。
「ひとまず私のほうで、ホテルに残っているあいりの私物を回収することになりました。てっきり全部警察が押収するのかと思っていたのですが……櫻場さん達は見張り番ですか?」
「笹口さんが持ち帰るものを確認させて頂きます。すみません、規則なので」
「構いませんよ。では行きましょうか」
笹口を先頭に、櫻場と真島は1105室へ入った。
笹口は鑑識標識板を踏まないように慎重に歩を進め、服や化粧品類といった駒橋の遺品を鞄へ詰めていった。クローゼットに残されていたコートも丁寧に畳んで仕舞う。すべての部屋の確認を終えたあと、笹口は櫻場と真島へ深々と頭を下げた。
「大変なことになってしまって、本当にすみませんでした」
「頭を上げてください笹口さん。梅下和典は特殊能力者だったわけですし、犯行を防げなかったのは我々の落ち度です」
櫻場が言うと、笹口はぽかんとした表情を浮かべた。
「特殊能力者……何か妙な力を持っていたと?」
「ええ。梅下は都内のネットカフェから脅迫文を送ったことがわかりました。コンサート会場の監視カメラにも梅下が映っています。普段は人をかき分けてでも最前列へ出て行くそうですが、今回は静かに最後列に居たようです」
どこかの探偵みたいだ。わずかな気恥ずかしさを感じつつも、櫻場は言葉を続けた。
「話は変わりますが、特殊能力はまだ世間では認知されていません。法律でも定められていない。現状、特殊能力を使用した犯罪は、類似した別のケースに当てはめて裁かれています。当然と言えば当然なんですけど」
「何故ですか?」
「特殊能力に幅がありすぎて、すべてのパターンを把握するのが不可能だからです。たとえ能力を持っていても、黙っていればわかりませんしね。どこからどこまでが特殊能力なのかの線引きが難しいんです」
笹口が「なるほど」と同意した。
「たとえば視力が並外れて良かったとしても、それが能力なのか個性なのか、判別が難しいと言うことですね。それで……梅下はどんな力を持っていたのですか?」
「電子機器を操ることの出来る能力です。といっても本人に聞けないので、推測にしか過ぎないのですが」
「電子機器……だから脅迫文を送りつけてきたり、コンサート中にあんなメッセージをスクリーンに映せたんですね。じゃあ、梅下がこの部屋へ入れたのも」
「電子ロックですからね。梅下からすれば解除は朝飯前でしょう」
しゃべり続けているせいか、緊張のせいか、櫻場は喉の渇きを覚えた。だが止めるわけにはいかない。
「ですが、駒橋さんがこのホテルに泊まっていることや部屋の号数は、我々警察と一部の関係者しか知り得ない。ネットへ拡散でもしない限り、梅下には調べようがなかったはずです」
「つまり、協力者が居たということですか?」
「はい。そして、我々はその協力者こそが真犯人だと考えています」
笹口の顔が強ばった。額に汗が浮かぶ。
「では、梅下の遺書は……」
「真犯人による偽造でしょう。鑑識班に確認したところ、梅下の家にパソコンはおろか、プリンターも見つかりませんでした。もし梅下自身が遺書を書いたのならば、普通は手書きするはずです。スマホで打ってどこかで印刷するよりも、遙かに手間がかかりませんから」
「たしかにそうですね……。真犯人がわざわざそんなものを作ったのは、梅下も殺す予定だったから、でしょうか」
「そうだと思います。梅下が1105室へ押し入ったときにはもう、駒橋さんは殺害されていた。真犯人は駒橋さん殺しの罪を着せるため、梅下を利用したんですよ」
櫻場は言葉を切り、「どう思いますか?」と笹口へ問いかけた。
「どう、とは」
「真犯人の目星です。思い当たる人物はいませんか?」
「私にはさっぱりです。あいりはああいう性格ですから、好ましく思っていないスタッフもいるでしょうが、まさか殺すほど憎むなんて……」
「手口から考えてかなり計画的ですからね。生半可な気持ちでは実行できないでしょう。……悪い真島、代わって」
喉がカラカラに乾燥し、櫻場は軽く咳き込んだ。いつの間に用意していたのか、真島がペットボトルのお茶を差し出してきたので、ありがたく受け取る。
「では櫻場先輩に代わりまして。梅下は電子機器を操る力の所持者と言いましたが、どうやらハンズフリーで能力を使えたようなんです。だからこそ、コンサート会場でもスタッフが張り付いていたパソコンを操ることが出来た」
櫻場が喉を潤す横で、真島が下げていた袋からノートパソコンを取り出した。笹口へ向けて開く。
「これは駒橋さんの遺品で、死亡する直前まで使われていたことがわかりました。で、ここにカメラが付いてますよね」
パソコンの上部に付いているレンズを、真島が指でトントンと叩いた。笹口が頷く。
「これ、ずっと開きっぱなしだったんですよ。角度的にこんな感じで――」真島が自分と笹口の顔が映る位置にパソコンを掲げる。「ベッドに置かれていました。ここで思い出して頂きたいのが、梅下のハンズフリーの能力です」
真島の指がキーボードの上を滑る。無機質な起動音が鳴り、スリープモードが解除された。
画面いっぱいに表示されたのは、一時停止をしている動画だ。血まみれの駒橋と青ざめた梅下、そして口元にゆがんだ笑みを浮かべた笹口が映っている。
真島が再生ボタンを押した。梅下は「あーたんにあんなことしたのはオマエかよ!」と怒鳴り、梅下の真正面に立つ笹口が平然と肯定する。身の危険を察知したのだろう。梅下が後退するも、運悪く窓側だ。笹口が梅下との距離を詰めていく。
「冥土の土産に教えて差し上げましょう。私は特殊能力者なんです。神に選ばれた人間なんですよ」
笹口はそう言うと、芝居がかった優雅な動作でお辞儀をした。梅下が白目をむいて倒れ、映像がブラックアウトする。
真島がパソコンを閉じた。笹口が顔をゆがませて「お二人とも人が悪い。知っていたのなら最初から言ってくだされば良いのに」と言った。
「俺が提案したんです。あんたをギリギリまで追い詰めようって」と真島が低い声を出した。動画の中の梅下と同じように、笹口を真っ向から睨み付けている。
「笹口幸二。あんたを駒橋あいり及び梅下和典殺害の容疑で逮捕する」
「逮捕、ですか。私を」
笹口が喉の奥でクツクツと嗤った。これまでの穏やかな印象が瓦解していく。
「先ほどの映像に、私が直接手を下す場面は映っていません。何の罪で捕まえるおつもりですか?」
「そこは状況証拠ってやつだよ。あんたの身辺を調べれば、梅下のスマホも出てくるかもしれねぇしな」
「そうですか……では」
笹口が動画で見せたものと同じお辞儀をするなり、甘い香りが充満した。においを認識するのと同時に、櫻場の全身から力が抜け、床に膝を突いてしまう。力を振り絞って真島を見ると、同じように崩れ落ちていた。
真島の足下に放り出されたパソコンを笹口が拾う。
「梅下め……私にはハッカーだと言ったくせに……あのドルオタが!」
笹口がパソコンを壁に打ち付け始めた。梅下を罵倒しながら何度も叩きつける。ディスプレイにひびが入り、キートップが何個か飛んだ。
櫻場は顔をもたげ、笹口を見上げた。舌を噛まないよう、ゆっくりと口を動かす。
「ハーブティはリラックス効果があると、同僚から教えられました。メカニズムとしては、芳香成分が鼻の奥にある嗅細胞を刺激し、その刺激が電気信号へと変化して脳の大脳辺縁系へ伝達されるとか」
櫻場は一度言葉を切り、深く呼吸をした。少しでも気を緩めれば意識が飛んでしまいそうだ。
「生み出した香気で人間の神経を麻痺させる――それが笹口さんの特殊能力ですね」
「ええ、そうです。素晴らしい能力でしょう」
笹口が口角をつり上げた。醜い笑顔だ。
「なぜ駒橋さんを?」
「私を裏切ったからです。これまであいりを支えてきたのは私です。休日も返上して方々を駆け回り、心を殺して頭を下げ続けてきた。それなのにあいりは私を裏切った!」
笹口がパソコンを床へ一際強く叩きつけた。駒橋自身を傷つけるかのように何度も踏みつけ、咆哮する。
「あんな奴のどこがいいんだ! 私のほうがあいりを愛してる! 何倍も、何百倍も!」
パソコンが二つに割れた。笹口はなおも踵で踏みにじり、歪んだ顔で嗤った。
「あいりは永遠に私のものだ!」
笹口は駒橋を殺す直前、今と同じことを伝えたのだろうか。ねじ曲がった想いを。どす黒い殺意を。自分勝手な――殺意を。
櫻場は震える膝に力を込め、立ち上がった。
「駒橋さんのスキャンダル写真に写っていた男はテレビ局のプロデューサーですよ。テレビへの出演を餌にされ、断れなかったのだそうです。……ご存じなかったんですね」
「戯言を。私も知らない秘密を、あいりがあなたに話すとでも?」
「俺だから話せたんですよ。部外者ですから。駒橋さんは笹口さんを信頼していて、だからこそ黙っていた。裏切ったのは、あなたのほうだ」
「平行線ですね。私とあなたは理解し得ない。時間の無駄ですよ」
まるで馬耳東風だ。櫻場が「自首してください。駒橋さんと、駒橋さんを応援しているファンのために」と言っても、笹口の唇には嘲笑が掠めただけだった。
「予言をしましょうか。あなた方はそこで意識を失い、私は悠々とホテルから出て証拠を破棄します。櫻場さん仰いましたよね。特殊能力者を裁く法は存在しないと。そんな世界で、私の能力が立証できるとでも?」
「証拠ならある。ここにな」
櫻場の隣に立った真島が、ジャケットから小型のレコーダーを取り出した。
「俺も予言してやる。あんたはここで俺たちに捕まって刑務所に入る。逃げられると思うな」
「そうですか……。でしたら、あなた方にも不審死を遂げて頂くしかありませんね」
笹口が深々とお辞儀をする。
櫻場は咄嗟にハンカチで顔を押さえたが、やはり四肢から力が抜けた。麻痺した口で、あとは任せた真島、と呟く。
笹口はゆったりとした動作で身を起こし――身体を凍り付かせた。真島が表情一つ変えずに、右腕をまっすぐ前に伸ばして立っていたのだ。
「香りってのは、嗅いだ瞬間に脳の中枢部へ送り込まれるらしいな。ガスマスクでも持ってこない限り防ぐ手段がない。俺以外の人間ならな」
真島が右手を軽く握った。細かい氷の粒がパラパラと落ちる。
「言い忘れてたが俺も特殊能力者なんだ。この世のありとあらゆるものを凍らせることが出来る。それこそ分子レベルでな」
「な……っ」
笹口は目をみはり、瞬時に身を翻した。へたり込んでいる櫻場の後ろへ回り込み、羽交い締めにしてくる。櫻場の右目にボールペンの先が迫った。
「少しでも動いたら刺しますよ」
笹口は櫻場を掴んだまま、じりじりと後退した。このまま部屋から出て行くつもりなのだろう。諦めて投降しろ。櫻場はそう言おうとしたが、面倒くさくなってやめた。少しは痛い目に遭えば良いのだ。
「あんた、俺の話を聞いてなかっただろ」
「減らず口、をぉ!?」
笹口が妙な声を上げ尻餅をつく。その隙に、櫻場は這いずって逃走した。目指すは真島の背後だ。
「先輩、ケガしてないですか?」
「大丈夫」
「良かった。一瞬心臓が止まるかと思いましたよ」
真島が振り返り、ゆっくりと微笑む。その表情は、深い安堵と慈しみに似たものが交錯しているように見えた。
「あなた、いま、どうやって……っ」と床に転がったままの笹口が金魚のように口をパクパクとさせた。彼の周囲には、櫻場のこぶし大ほどの氷筍が群れをなして生えている。笹口はこの氷の塊に躓いて転んだのだ。
真島が不敵に笑う。
「あんたが変なモーションで能力発動させてたから、俺もさっき真似して腕とか伸ばしてみただけだよ」
「は? じ、じゃあ……」
「俺は指一本も動かさずに能力を使える」真島は何の動作もしないまま、笹口の足元に更に氷筍を増やした。「ほらな?」
「そ、んな……っ。クソ、クソォ!」
やけを起こしたのか、座り込んだままの笹口が、何度も頭を振って香りをまき散らす。真島の瞳に青く鋭利な光が走った。周囲の空気が一気に冷え、砕ける。
「次に少しでも動いたら、あんたの全身を凍らせる」
真島が冷え切った声で告げる。
長い間のあと、笹口はぐったりと項垂れた。
笹口の確保を知らせると、ホテル内に潜んでいた刑事達が一斉に部屋になだれ込んできた。
ここから先は一課の仕事だ。櫻場と真島が部屋から引き上げると、ドアの前に居た清水が不躾な視線を投げつけてきた。
「まさか真島警部殿が異常者の仲間だったとは……驚きました。ですが、特課を志望された理由が理解できましたよ。異常者は異常者同士、ままごとをするのがお似合いだ」
真島を持ち上げておいて、特殊能力者だとわかれば手のひらを返す。いけ好かない奴だとは思っていたが、ここまで低俗だったとは。
相手をするだけ時間の無駄だ。櫻場は真島を促そうとして、やめた。真島が笹口へ向けたのと同じ表情を、清水へ向けていたからだ。
「マジで我慢の限界だから殴る。宣言したからな」
「は?」
予想外の返しに驚いたのであろう清水の腹へ、真島が容赦なしに拳を叩き込んだ。悶絶する清水を顧みることなく、真島は「帰りましょ先輩」と言ってさっさと歩いて行く。
櫻場は清水の脇を通り過ぎざま、「清水、特殊能力者を異常者って言うのは、もうやめたほうがいいと思う」と伝えた。清水は櫻場を睨み上げるも、ぐふ、と咳をしてその場へ屈み「放って、おけ……っ」と苦しそうに喘ぐ。グッジョブ真島。これを機に、清水が少しは大人しくなってくれることを願うばかりだ。
櫻場たちがホテルを出ると、バチバチと大量のフラッシュが焚かれた。鈴生りになったマスコミが、カメラやマイクを規制線の外から櫻場たちへ向けてくる。
一人のリポーターが「やはり駒橋あいりと梅下和典は顔見知りだったのでしょうか?」と大声を出した。それを皮切りに、四方八方から「駒橋あいりが自ら梅下を部屋へ招き入れたのか」「脅迫文の件は駒橋の自作自演で間違いないか」と、下世話な憶測ばかりを飛び交わせる。
櫻場は「捜査中なので」と一刀両断し、真島とともに車へ乗り込んだ。なおも食らいついてくるマスコミを無視し、アクセルを踏み込む。
笹口が犯人だと公表されれば、マスコミや世間は今度は笹口を攻撃し、駒橋を擁護するのだろう。しかし、どんなに笹口を責め立てようと、刑罰が下ろうと、駒橋は戻ってこない。
駒橋あいりというアイドルが存在したことを忘れない。それだけが、櫻場に出来る唯一の弔いのような気がした。
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