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第一話 不本意な再会
櫻場宏斗は何度目かのあくびを噛み殺し、下がりかけていた腕を上げた。双眼鏡を当てている目元に跡が残らないか不安だ。
レンズが映しているのは、浅い川である。生い茂る木々の間を縫って差し込む朝日が、ゆっくりと流れる水面に反射し、あたりには朝露で湿った土の臭いが立ちこめていた。
櫻場が双眼鏡を動かすと、対岸に突き刺さっているプラカードが見えた。『自然を守ろう。谷沢渓谷公園』の文面と、蝶々を追いかけている少年のイラストが描かれている。
「おい、ちゃんと見てるか櫻場」
よそ見をしているのを察知したのか、櫻場の隣で双眼鏡を構えている老人が小さな声で言った。
「見逃したらどうすんだ」
「すみません野田さん」
櫻場は小声で謝り、双眼鏡の位置を戻した。
野田洋介七十三歳。苦楽をともにしてきた妻には五年前に先立たれ、都内の住宅街で一人暮らしをしている。趣味は囲碁。自宅からほど近い場所にある谷沢渓谷公園へ散歩に行くのが、毎朝の日課だそうだ。
櫻場の頭上で鳥が穏やかに鳴いた。紅く色づき始めた葉が風にそよぐ。自然の中へ身を置くのも悪くない。櫻場は空気を胸いっぱいに取り込み、でも、と内心で続けた。
せめて九時以降にして欲しい。
腕時計に視線を落とすと、時刻は六時半を指していた。つまり、櫻場と野田が茂みに身を隠してから、かれこれ一時間以上は経過したことになる。しゃがんでいるのがかなり辛くなってきたが、膝をついてスーツを汚すのはもっと辛い。
「クソ、出てこねぇな」
野田が毒づき、地面に置いていたビニール袋から菓子パンを取り出した。双眼鏡を右の上腕で支えながら、器用に袋を開ける。ばりっと大きな音が響いた。
「結構派手めな音が鳴りましたけど」
「気にしねぇだろ。相手は河童だぞ」
河童。それが野田が血眼で追っているものの正体である。もしかすると河童ではない真の正体があるのかもしれないが、真偽を確かめる段階には至っていない。
野田が初めに河童らしきものの姿を見たのは三週間前。公園の散歩中に、黒い不審な影が川へ飛び込むのを目撃したそうだ。野田は鳥か何かだろうと思ったが、その五日後にも同じ光景を目にし、110番通報をした。櫻場が駆り出させられるのはもう三度目になる。
野田はあっという間にパンを食べ終えると、今度はペットボトルのお茶を取り出した。これまた器用に蓋を開け、豪快に飲み始める。
「七時まで粘るぞ櫻場」
そう言い終わるやいなや、野田が盛大にくしゃみをした。衝撃でペットボトルからお茶がこぼれる。
「野田さん風邪ですか?」
「知らねぇよ。先生はアレルギーだっつってたけどよ。アレルギーってのは、食っちゃいけねぇもんを食ったときに出るやつだろ」
「食べ物だけとは限りませんよ。花粉とかハウスダストとか、色々ありますから」
「お前はあるのかよ」
「花粉症を少々」
少々ってなぁナンだよ。そう言って野田は笑った。
「そういや、死んだ女房も花粉症だっつってたな。春になると家ン中がティッシュの山だった。お前のも鼻水か?」
「はい。永遠に出てくるんですよね。不思議です」
「あいつも同じこと言ってたな」
いつかの光景を想い出しているのか、野田が優しい目つきをした。口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
大切な存在を想って笑えるのは、簡単なようで実は難しい。野田は夫人と幸福な時間を過ごし、悔いなく看取ることが出来たのだろう。一人息子は結婚をして子供もいるそうだが、会いに来るのは年に数回程度だそうだ。
寂しくないですか、とは聞けなかった。聞いたところで櫻場に出来るのは返事だけだし、他人のプライバシーに干渉するのは趣味ではない。
結局、七時になっても河童は現れなかった。
櫻場と野田は遊歩道を戻り、公園から道路へと出た。交通量は少なく、住民の姿も無い。 野田は悔しげに「また連絡する」と言い、自宅のほうへと戻っていった。八時から近所の仲間と囲碁会を開くそうだ。
革靴に付いた草を払い、櫻場はスマートフォンで上司へ電話をかけた。9コール目でようやく繋がる。
「上倉課長、櫻場です。河童の調査終わりました」
「ご苦労さん。見つかったか?」
「見つかってたらもっとテンション高く連絡してますよ」
上倉があくびをしながら「だろうな」と言った。
「このまま出勤します。車ですし、定時までには着けると思います」
「わかった。もし通勤中に河童を見かけたら捕獲しとけよ」
上倉が上手くもない冗談を言い、通話が終わる。
ふう、と息を吐き、櫻場は空を見上げた。水色の絵の具を薄く塗ったように、透きとおった青空が広がっている。
遠くでせせらぎの水音が聞こえた。人間達が居なくなった後に、河童がひょっこりと現れ、川遊びを始める。そんな妄想をしながら、櫻場は路肩に停めていた車へ乗り込んだ。
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