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警視庁刑事部特殊犯罪対策課――略して特課。それが櫻場の職場である。現在職員は三名で、本日付で新人が一人入る予定だ。
特課のオフィスは仕切りのない二つのフロアに分かれている。入り口を背にして、向かって左側には職員のデスクワーク場、右側には応接用のソファやロッカーなどがある。
職員の行動を管理するのは、ドアの脇の壁に貼られているスケジュールボードだ。予定が入った場合は即時書き込むのが規則となっている。櫻場はオフィスへ戻るなり「河童 AM5:00」の予定を消したので、現在ボードはまっさらである。
「櫻場さん、河童ってほんとに存在するんですか?」
古崎清花が給湯室から顔を覗かせて言った。背中まである髪はコーラルピンク色で、毎日が戦いだという化粧は今日も華やかだ。背が低いことがコンプレックスだそうだが、ヒールの高いパンプスを履いているせいかスタイルが良く見える。
「どうだろう。俺はツチノコみたいなものだと思ってるけど」
「あ、UMAってやつですね。なんだっけ、未確認飛行物体?」
「そりゃUFOだろ」とすかさずツッコミを入れてきたのは、部屋の隅で懸垂マシーンにぶら下がっている上倉雄二だ。適度に身体を動かさないと落ち着かない性分らしく、職場にマシーンを持ち込むほどの脳筋タイプである。趣味はサーフィンだそうで、四十代半ばを過ぎても肌の浅黒さを維持し続けている。
古崎が「似たようなものですよ」と言い、櫻場へコーヒーを飲むかと尋ねてきた。
「もらおうかな」
「俺には訊かねぇのか古崎」
「カチョーは筋トレ中じゃないですか」
「そこはわかってても訊くのが思いやりってもんだろうが」
「出た、忖度。昭和の慣習を押しつけないでください」
古崎はハッキリと拒絶し、櫻場へコーヒーの入ったマグカップを渡してから、隣の席へ腰を下ろした。
「私がここに入る前も、やっぱりUMA探しのほうが多かったんですか?」
古崎の言うUMAには今日の河童を初めとして、しゃべる猫や人面犬、怪談に出てくる怪異なども含まれている。櫻場が首を縦に振ると、古崎は「いくらなんでもそれはウソでしょってやつは断れないんですかね」と眉を曇らせながら言った。
特殊犯罪対策課は文字どおり、特殊能力を使用した犯罪を取り締まるための組織である。
特殊な能力を持った人間は世界規模で存在すると言われており、日本の場合は0・001%の確率で全国各地に散在している。能力が覚醒、あるいは力を持っていることに気付く年齢は、生まれたばかりの赤ん坊から百歳を超える高齢者までと千差万別だ。
一部の有識者の間で頻繁に論じられるのは、「何を持って特殊能力とするのか」の線引きだ。足が異様に速い、視力が獣並みにある。そういったものに対して、個性を超えた特殊な能力であると判断を下すのは、枯れ木に花を咲かせるがごとく難しい。従って、特殊能力は未だ定義が定まっておらず、世間にも知られていない。
一方、未確認動物というのは、伝承や目撃談などで存在が囁かれていながらも、生物学的には確認されていない未知の動物を指す。未確認動物は未確認なだけあり、その正体はどれも不明なままだ。そのため、特殊能力者が生み出したという可能性を打ち消せない。超常現象も同様である。
「市民から通報を受けた以上、相手がUMAであれ幽霊であれ、調査をするのが俺たちの仕事だからね」
櫻場は一度言葉を切り、コーヒーを口に含んだ。喉を潤してから続ける。
「もしイタズラとか見間違いじゃなくて、誰かが悪意を持って仕組んだことだったりしたら、大事件に発展する可能性がある。それこそ、警察は何やってるんだってクレームが来ちゃうよ」
「でも大変すぎません? 私は電話取るだけだからいいけど、櫻場さんは今日みたいに、めっちゃ朝早くから駆り出されたりするし」
古崎の語尾をかき消すように電話の呼び出し音が鳴った。古崎が「きたー」と半笑いを浮かべて受話器を取る。
「はい、こちら特殊犯罪対策課。あ、橋山さん。こんにちは」
どうやら電話の相手は常連だったらしく、古崎の表情がにこやかになる。世間話をする声を聞きながら、櫻場はパソコンを立ち上げた。報告書を作ろうとして、ぴたりと手を止める。
「課長、河童の件ですけど」
「新情報か?」
上倉の懸垂は続いている。
「違います。俺だけ現地に行かされるのおかしくないですか。基本二人行動が鉄則ですよね」
野田からの第一報があったのは二週間前。その際は上倉が事件を受け持ち、櫻場はサポート役として現地へ赴いた。だが、第二報以降は上倉は腰を上げようとせず、櫻場一人にすべてを押しつけている。
「いや、でもなぁ……あのジイさん、誰かと話したいだけだと思うんだよ」
「それに付き合わされる俺の気持ちにもなってください。昼間ならともかく、朝五時集合ですよ。そのうち居眠り運転で捕まりそうです」
「警察官が警察の厄介になってどうする。シャキッとしろ、シャキッと」
この上なく理不尽である。ここで言い返せれば櫻場のストレスも多少は軽減されるだろうが、生憎と度胸も達者な口も持ち合わせてはいない。
櫻場が渋々パソコンに向き直ったところで、古崎の電話が終わった。
「橋山さん元気だった?」
櫻場の問いに、古崎が「めちゃくちゃ元気でした」と答える。
「来週はお孫さんが遊びに来るから、ケーキを焼くんだって張り切ってましたよ。櫻場さんとカチョーにもよろしくって」
橋山は一ヶ月前に「近所の田んぼで妖怪を見た」と通報してきた女性だ。上倉と櫻場が調査をした結果、妖怪の正体は木の枝に結ばれた風船だった。橋山は「直接お礼を言いたくて」と警視庁に姿を見せ、そのときに古崎のことを気に入ったらしい。
UMAも妖怪も、大概が『幽霊の正体見たり枯れ尾花』だ。だがそれこそが平和の象徴でもある気がする。早朝に召集されるのは気が進まないが、殺人現場へ呼び出されるよりは遙かに良いだろう。
俺たちは河童を追いかけてるくらいがちょうど良いのかもしれない。櫻場はそう思い直し、パソコンのキーボードを叩いた。
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