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「櫻場、ゲームやろうぜ」
櫻場の集中力が高まり始めたところで、上倉が某国民アニメに登場するキャラクターのごとく誘いをかけてきた。すでにボードゲームの箱を抱えており、準備万端の様子だ。
「あの……俺いま報告書作成中なんですけど」
「んなモンいつでも出来るだろ」
ゲームだっていつでも出来るだろ。櫻場は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、「まだ勤務時間中ですが」と抗議した。
「俺と遊ぶのも仕事のウチだ。ほら、やるぞ」
上倉は勝手に決め、一人でずんずんと応接用のソファセットのほうへ向かった。ソファの前にあるテーブルへ箱を置き、中身を取り出す。
「よし来い櫻場。今日という今日はお前を倒してやる」
上倉が腕まくりをした。たくましい前腕筋がむき出しになる。
こうなってしまったら、断り続けるよりも相手をしたほうが早い。櫻場は嘆息をしてから席を立った。上倉の正面へ腰を下ろし、「泣いても知りませんよ」と煽ってやる。上倉は「上等だ」と不敵な笑みを浮かべた。
三十分後。
獣のような呻き声を上げる上倉の前で、櫻場は勝敗を決するコマを回収した。
「俺の勝ちですね」
「待て待て、俺が優勢だっただろうが……なんで逆転してんだよ」
上倉が射殺すような迫力で櫻場を睨んでくる。
「睨まないでください課長。勝負は時の運って言うじゃないですか」
よもや「あなたの戦略が甘かったからです」とは言うまい。上倉は敗因を探っているのか、カードやコマの並んだテーブルを凝視した。下手に声をかければ、二回戦目に突入しかねない。櫻場は黙って天を仰いだ。年季の入ったソファが軋んだ音を立てる。
自席でスマートフォンをいじっていた古崎が「しつこいですよカチョー。櫻場さんに負けるなんていつものことじゃないですか。昨日は私にも負けてましたけど」と助け船を出した。
「未練がましい男はダサいですよ」
「うるせぇ! 古崎はそこでスマホ見てろ! おい櫻場。俺が負けた理由を説明しろ」
上倉が肩を怒らせる。古崎が「ゴリラみたい」と茶々を入れた。
上倉と櫻場が遊んでいたのは、ポーカーと陣取りゲームを足して二で割ったような、二人用のボードゲームである。上倉との対戦は通算二十八戦に及ぶが、櫻場は今のところ負けなしで、「打倒櫻場」を掲げた上倉が隙あらば勝負を挑んでくるのだ。
櫻場がアドバイスをしようと試みても、これまで上倉は無視してきた。しかし、そろそろ彼自身の力だけではどうにもならないと理解したのかもしれない。櫻場が指導を始めると、上倉は真剣な表情で最後まで静かに聞いた。
「なるほどな。次は負けねぇぞ」
「俺の手が空いてるときにしてください」
上倉は返事をせず、「この年になってゲームにハマるたぁ、人生何が起こるかわからねぇな」と感慨深げに言いながら片付けを始めた。
ボードゲームは借り物ではなく、櫻場の私物である。櫻場は一年半前に特課へ配属されたのだが、新任早々上倉に趣味が露見し「俺もやりたいから持って来い」と命じられたのだ。どうせ家に置いていても、櫻場には一緒にゲームを遊ぶ相手などいない。仮想敵を生み出すぐらいなら上司と遊んだほうがまだ健全だと考え、上倉の命令に従ったのだ。
櫻場はゲームの箱を棚へ戻し、そのままの流れで報告書作りに戻った。上倉もソファから腰を上げ、給湯室を経由して席に着く。
上倉の席は、俗に誕生日席と呼ばれる場所に位置し、櫻場の席からは左斜め前に見える。そのデスク上は絶えず雑多な物であふれており、書類を紛失することが常なため、「課長の印鑑が必要なときは、直ちにその場で押印してもらう」というのが暗黙のルールとなっていた。
「今日は電話も少ねぇし平和だな。ま、事件が起きないに超したことはねぇけど」
上倉はそう言い、椅子に座ったままストレッチを始めた。
「カチョー、そんなことばっかり言ってるから、一課のひとたちから『特課は税金の無駄遣いしかしてない』って陰口たたかれるんですよ」
「言わせとけ。騒動になる前に防いだ案件もあるだろうがよ。――そろそろ時間だな」
上倉が腕時計に視線を下ろすと同時に、ノックの音が響いた。櫻場は身体が硬直し、瞬間的に心拍数が高まるのを感じた。手のひらが汗ばみ、無意識に両手を固く握りしめる。新人は一体どんな人物だろう。互いの気が合うといいが、それだけは祈ることしかできない。
「失礼します」の声とともに、私物が入っているのであろう段ボールを抱えた、長身の男が入ってくる。男の容貌が目に飛び込んで来るなり、櫻場は口をぽかんと開けた。酒を飲み過ぎたときのように、不快感が胃の奥底からせり上がってくる。
艶のある黒髪に、バランスの整った顔立ち。忘れもしない、人好きのする笑顔をまき散らす、この男は。
「真島!?」
「本日付で特殊犯罪対策課に配属となりました、真島崚です。よろしくお願いします」
櫻場の悲鳴にも似た声と真島の自己紹介、そして櫻場の椅子が壁にぶつかる音が重なった。櫻場は慌てて口を手で押さえるも既に遅く、微笑みを湛えた真島と目が合う。上倉と古崎の視線も櫻場へ集まるのがわかった。
「お久しぶりです。櫻場先輩」
「おま、憶え……っ」
舌が上手く回らない。声すら震えている櫻場とは対照的に、真島は「憶えてますよ。当たり前じゃないですか」と歯を見せて笑った。
上倉が睨み付けてくる。知り合いだったなら早く言えと言わんばかりだ。真島の情報は一週間前に聞かされていたが、名前だけで気付く間柄ではない。そもそも、真島のフルネームなどとうの昔に忘れていたのだ。
古崎の案内で、真島が櫻場の真向かいの席へ段ボールを置く。古崎が「先輩ってことは、櫻場さんと同じ学校出身ですか?」と興味を露わにして真島へ尋ねた。
「はい。高校時代に同じ部活に入ってたんです」
週三日の活動に対して一日しか出てなかったけどな。しかもテニス部と掛け持ちしてたらしいし。櫻場は声には出さずに補足し、後方に飛んだ椅子を引き寄せて座った。
「部活って、もしかしてボードゲーム部ですか?」
「当たりです。よくわかりましたね」
「ここもそんな感じですから」
古崎が「じゃーん!」と声で効果音を付け、ボードゲームの詰め込まれたラックを手で示す。
「カワイイ系からイカツイ系まで、よりどりみどりですよ」
「すごい。ボドゲカフェみたいですね。見たことあるやつもあるな」
「さっきもカチョーと櫻場さんで遊んでたんですよ。私も時々混ぜてもらってます」
「俺もやりたいな」
「万年メンバー募集中だそうなので大歓迎ですよ。ね、櫻場さん」
古崎が同意を求めてくる。真島以外なら歓迎すると言いたい衝動をこらえ、櫻場はぎこちなく頷いた。
古崎が「場も暖まったところで自己紹介ターイム」と調子外れな高い声を上げた。
「私は古崎清花って言います。特課の事務をしてます。勤怠と交通費の提出は早めにお願いしますね。じゃあ次は櫻場さん」
キャッチを余儀なくされるボールが飛んできた。俺の自己紹介なんているか? と思うも、上倉が目線だけで圧力をかけてくるので、櫻場は仕方なく口を開いた。
「……知ってると思うけど、櫻場宏斗だ。階級は警部補。真島警部は立場的には俺より上だけど、ここに居る間は俺の後輩として扱う。いいな?」
挑戦的な口調になってしまった。真島は気にしていないのか、笑顔で「了解です」と答える。上倉が「可愛がってやらねぇと、そのうち後悔するぞ櫻場」とふざけた口調で言った。
「俺は上倉雄二。階級は警視で、お前さん達がやらかしたときの尻拭い係だ。よろしくな真島」
「よろしくお願いします。父が生前とてもお世話になったと聞いています。本当にありがとうございました」
「世話になったのは俺のほうだ。積もる話はまた今度な」
「はい」
真島が目を細める。二人の会話から察するに、真島の父親は警察官だったのだろう。
訊くよりも探すほうが早い。櫻場は記憶の中の警察官名簿を引っ張り出した。真島貴嗣――享年三十八歳。第一機動捜査隊に所属していた刑事だ。六年前に発生したショッピングモールでのテロ事件において、最期まで民間人の救出に尽力したという。
櫻場の耳の奥で、すさまじい轟音が反響した。意識的に遠ざけている記憶がまざまざとよみがえる。闇に染まる視界。肺が焼け付くような空気。止まぬ耳鳴りと――覚悟した死。
「櫻場さん?」
古崎の声が櫻場を現実へ引き戻した。カールしたまつげに縁取られた瞳が仰ぎ見てくる。ここは職場だ。誰も傷ついていないし、爆発音もしない。櫻場は忘れていた呼吸を再開した。喉がカラカラになっていたせいか軽くむせてしまう。
「あ……ごめん、なに?」
「櫻場さんが見つめるから、真島さんが困ってますよ」
「は?」
真島がはにかむ素振りを見せた。いや、誰も見てないし。なんなら視界にすら入ってなかったし。
上倉が「櫻場」と一音ずつ伸ばしながら言った。「そのリサーチ癖直したほうがいいぞ。俺も最初はめちゃくちゃビビったからよ」
上倉に見破られ、古崎が「やっぱり」と非難する口調で言った。きょとんとした顔の真島へ、櫻場は「そのうち説明するよ」と言い、スリープモードに入っていたパソコンを起動させた。
真島の指導はおそらく櫻場の仕事なのだろうが、事件が起こるまでは別段教えることはない。放っておいても上倉や古崎が相手をするだろうと思い、櫻場は報告書作りに専念した。
「しっかし真島はキャリア組だろ。なんで特課なんかに来たんだ?」と上倉が真島へ尋ねる。
「特殊能力犯罪に興味があったんです。……興味って言うと不謹慎ですね。父が立ち向かっていたものの正体を知りたいと思ったんです」
ヒュウ、と上倉が口笛を吹いた。
「もうちょい前だったら、特殊能力犯罪は機捜の管轄だったんだけどな」
「たしか各都道府県警で対応がバラバラだったのをまとめるために、特殊犯罪対策課が作られたんですよね。草案だと一課の中に設立される予定だったとか」
「当時の一課の連中が反発しまくって、独立させざるを得なかったらしい。刑事部からも外せなんつう声もあったらしいぜ。事件に貴賤なんてねぇのにな」
上倉がため息まじりに言った。
事件に貴賤なんてない。櫻場も同感だ。だがそうは思わないのであろう職員が圧倒的多数なのも事実である。真島は高い志を持ち特課へやって来たようだが、現実を知れば希望は失望へ変わるかもしれない。
重くなった空気を感じ取ったのか、真島が古崎へ「今までどんな事件があったんですか?」と明るい口調で尋ねた。
「アニメや漫画みたいなことって全然起きないんですよ。特課に回ってくるのは、どこの部署も受けたくない、エキセントリックだけど地味な事件ばっかりです」
古崎はそう前置きをし、言葉を続けた。
「私、特課が出来てすぐに異動してきたので、もう一年半ここに居るんですよ。でも、その間に起こったのって、しゃべる猫がいるとか空に奇妙な映像が映ったとか、そんなのばっかで」
「何というか……都市伝説の調査みたいですね」
「完全に都市伝説レベルです。櫻場さん、三週間くらい前に、UMA探し以外の事件起きてましたよね。なんでしたっけ?」
古崎に質問を振られ、櫻場は手を止めた。真島との会話に加わるのは気が進まないが、かといってはねつけるほどの度胸はない。
「東京タワーから謎の歌が大音量で流れたんだ。施設側が調べても原因不明だったから、特課に依頼が来た」
「すごい事件ですね」真島が櫻場を凝視する。「犯人は? 特殊能力者だったんですか?」
「振動を操る能力者だった。どうしても自分が作った歌を世間に聴いて欲しかったんだと。話題性のためだけに東京タワーを選んだんだってさ」
「先輩が捕まえたんですか?」
「ん……まあ、そうなるかな」
「すごい」
真島が表情を綻ばせた。
犯人の検挙といえば聞こえは良いが、櫻場が東京タワー内部を調べている最中に犯人が現れたため、その場で手錠を嵌めただけだ。とはいえ真島の妄想を正してやる義理はない。せいぜい壮大な捕り物活劇を思い描くがいい。
「特課の職務は犯人逮捕までと聞いたんですが、その後の引き継ぎ先は?」
「刑事部の一課が多いな。こっちとしては人手不足が理由だけど、一課から見たら面倒なところを押しつけてる形になってるから、一課の連中と話すときは気をつけろよ」
「怒らせないように?」
「そういうこと。嫌みとか言われるかもしれないけど、適当に聞き流しておけ」
特課が捜査をするのは『特殊能力犯罪と思しき何か』である。ふたを開けてみればただの自然現象や誰かのいたずらだったケースも多く、検挙率は警視庁の中で最下位だそうだ。顔を合わせるたびに聞かされる嫌みには辟易するが、もし逆の立場だったら、櫻場も文句の一つくらいは言っているかもしれない。
真島はいまは希望で胸を膨らませているのかもしれないが、おそらく早々に気持ちが折れるだろう。もしかしたら一ヶ月後にはもう居なくなっているかもしれない。そう考えると、櫻場の中でモヤモヤと鬱屈した思いも、少しは軽くなりそうだった。
「櫻場先輩」
「なんだよ」
真島から改めて名を呼ばれたせいか、櫻場の心臓が嫌な音を立てた。
「一日も早く先輩の右腕になれるように頑張ります。よろしくお願いします」
真島が立ち上がり、身を乗り出すようにして右手を差し出してきた。眩しい笑顔は、高校生のときと同じだ。自信と愛嬌に満ちた、櫻場の苦手な顔。
「……よろしく」
握手はせずに、真島から顔を背ける。印象は最悪だろうが、取り繕う気分にはなれなかった。
上倉が苦笑いを浮かべ「悪いな真島」とフォローを入れる。「こいつ極度の人見知りなんだよ。そのうち慣れると思うから、それまで辛抱してくれや」
上倉の言葉が釈然とせず、櫻場は古崎に小声で「俺人見知りなんかするっけ?」と尋ねた。
「めっちゃするじゃないですか。私もここに入ってしばらくは、櫻場さんに嫌われてるのかなって思ってましたから」
古崎が「自覚ないんですか?」と目を丸くする。
たしかに、初対面の頃は緊張してあまり話せなかったと記憶しているが、それは異性であるがゆえの遠慮というものであって、上倉とは問題なくコミュニケーションを――そういえば取れていなかったような気がする。
上倉が櫻場の名前を呼んだ。
「早く打ち解けられるように努力しろよ櫻場。今日からお前と真島はコンビなんだから」
忘れてた。そうだった。櫻場はこっそりと真島を盗み見た。櫻場の視線に気付いた真島が、柔らかい笑顔を向けてくる。
正直しんどい。櫻場は己の運の悪さを呪いつつ、ひっそりとため息をついた。
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