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古崎と真島が給湯室で盛り上がっている。出会ってすぐの人間と雑談に花を咲かせられるのは、櫻場からすればもはや特殊能力だ。
「コーヒーとか紅茶は自由に飲んでいいですよ。ボックスの中のお菓子は持ち寄りなので、真島さんも好きなもの持ってきてください。生ものとかはちゃんと冷蔵庫に入れてくださいね」
「了解です。古崎さんは甘党?」
「めっちゃ甘党です。カチョーも甘党だけど、櫻場さんは辛党だそうですよ」
「じゃあこの茎くきわかめは先輩のか」
「しっぶいですよね」
二人の会話は途切れることなく、今度はチョコレートのカカオ濃度について話題が移る。櫻場が可能な限り二人の会話から意識を逸らしていると、出入り口のドアがノックされた。誰かが応答する前に、勢いよくドアが開く。
「ヒロくーん! 三日ぶりだね! 元気してた?」
髪を白に近い金色に染め、猫柄のネクタイを着けた男が、白衣をひらめかせながら室内へ躍り込んできた。櫻場と目が合うなり、駆け足で近寄ってくる。来る、と思ったときにはもう、櫻場の顔は男の胸の中だった。
「元気です。夏野さんもお元気そうで」
「だから諒って呼んでってば。マコちんとかでもいいよ」
「だから無理ですって、あの、夏野さん、苦しい、です」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられる。痛いやら息苦しいやらで死にそうだ。夏野は「ごめんごめん」と悪びれずに言い、櫻場を解放した。
まずは真島に紹介せねば。櫻場は新人の姿を探したが、給湯室から消えている。
「初めまして。本日付けで特殊犯罪対策課に配属となりました、真島崚です」
突然櫻場の視界が濃い藍色に染まった。やや遅れて、真島の背中だと気付く。自分から挨拶をしようという意気込みは認めるが、そこまで貪欲にならずとも良いだろうに。
「科学捜査研究所特殊能力研究室の夏野諒だよ。ずいぶん若いようだけど、いくつ?」
「二十四歳です」
「じゃあヒロくんより二つ下か。これから顔を合わせる機会が増えると思うから、よろしくね」
二人の和やかなやりとりが続くも、依然として櫻場の視界は藍色一色だ。もう少し広いスペースでやってくれと櫻場が言いかけたとき、出入り口のほうから咳払いが聞こえた。
「あの……特殊な事件を扱っている部署というのは、こちらでよろしいのでしょうか?」
開け放たれたままのドアから、髪を後方へ撫で付けた男が顔を覗かせた。四十代くらいだろうか。夏野の奇行に怯えているのか、スーツで包んだ身体を小刻みに震わせている。
「忘れてた。お客さん連れてきたよ」
「早く言ってください夏野さん!」
古崎がツッコミを入れたのち、表情を一変させた。古崎の秘技「営業スマイル」である。
「心霊写真から都市伝説まで、不思議ミステリーはこの特課が承ります。どうぞお入りください」
古崎がジェスチャーで招き入れると、男は「失礼します」と折り目正しく頭を下げ、小柄な少女を伴って入ってきた。
古崎が紅茶の用意を始める。櫻場は夏野を追い出し、男と少女をソファへ案内した。真島には自席から見ておけと指示を出し、上倉とともに依頼者たちの前へ腰を下ろす。
「申し遅れました、わたくしヒカリプロモーションの笹口幸二と申します」
笹口が名刺を差し出してくる。櫻場と上倉も名刺を出して名乗ると、笹口は丁寧な手つきで受け取った。
「こちらは駒橋あいり。アイドル活動を行っています」
笹口の隣で駒橋が小さく頭を下げた。メイクは控えめだが、元々大きいのか瞳がパッチリとしている。さらさらとした黒髪はまっすぐに肩まで伸び、前髪は眉を隠すようにして切り揃えられていた。
櫻場も上倉もアイドルには疎いため、「そうなんですね」としか返せない。薄すぎる反応がプライドを傷つけたのか、駒橋が「まだテレビにはあんまり出てないから」と口早に言い、紅茶に口を付けた。
「認知度はまだ低いですが」と笹口が言う。「少しずつテレビの仕事も増えてきています。来月にはファーストアルバムが配信予定なので、よろしければ聴いてみてください」
「そんな話をしに来たんじゃないでしょ笹口。どうせ気にしすぎだって言われるだけなんだから、早く済ませてよ」
「何かトラブルでも?」
上倉が尋ねると、笹口は神妙な顔つきで頷き、スマートフォンをテーブルの上に置いた。
「昨日駒橋のホームページあてに送られてきたメールなのですが……気味が悪くて」
上倉が「失礼」と断り、スマートフォンを手に取った。画面に表示された文面を読み上げる。
「『私は特殊な力を持つ者である。私は駒橋あいりの裏切りにより、自我を喪失せんばかりの怒りを覚えた。よって、明日のコンサートにて罰を下す』……送り主に心当たりは?」
笹口が眉毛を下げ、「送信者の名前は『駒橋あいりを愛す者』でしたが、それ以上のことはわかりません。ファンの中にはやや過激なひともいるので、そのあたりかなとは思うのですが」と答える。間髪入れず、櫻場は「裏切りというのは?」と尋ねた。
「おそらく、これのことかと思います」
笹口がジャケットから一枚の写真を抜き取った。写っているのは駒橋と、無精ひげを生やした男だ。二人は親しそうに身体を寄せ合い、ホテルらしき建物の中へ入ろうとしている。
「週刊誌の記者に撮られてしまいまして。ただ、この写真は世間にはまだ公表されていないんです。三日後に発売の雑誌に載る予定で……。このメールの送り主が、どうやってこれの存在を知ったのか……」
「偶然の一致か、もしくはメールを送ったのが週刊誌の関係者という可能性もありますね」
櫻場の台詞を遮るように、駒橋が「こんなの、ただのイタズラか承認欲求よ」と言い、言葉を続けた。
「櫻場さん。もしあなたがその特殊な力とやらを持っていたとしたら、こんな曖昧な書き方する?」
「しません。炎で焼き殺すとか雷を落として感電死させるとか、具体的に書くと思います」
「脅す、じゃなくて殺すなんだ。顔に似合わず怖いこと言うのね」
駒橋が楽しそうに笑う。人形のように澄ましているよりも、よほど魅力的に見えた。
「笹口、聞いたでしょ。どう考えてもこのメールはイタズラよ。明日のコンサートは絶対にやるから。デビュー二周年の記念なのに、こんなことで取りやめるなんてありえない」
「そんな……もし何かあったら」
「ないってば。櫻場さんも上倉さんもそう思うでしょ?」
返答に窮し、櫻場は隣を一瞥した。上倉も悩んでいるのか、眉間にしわを刻んでいる。沈黙を肯定と受け取ったのだろう。笹口がソファから立ち上がり、勢いよく土下座をした。
「イタズラだと思われるかもしれません。ですがもし、万が一本当だったら、あいりがコンサート中に襲われたら、私は一生悔やんでも悔やみきれません。ですからどうか、どうかお力添えをお願いします」
ごん、と鈍い音が響く。笹口が額を床へ打ち付けたのだ。
「お願いします。どうか、どうか……!」
ごんごんごん。今度は三連続だ。このままでは流血騒ぎになりかねない。櫻場は慌てて笹口の傍らで膝をついた。
「笹口さん、顔を上げてください。脳細胞がどんどん死んでいっちゃいますよ」
「私の脳細胞なんて死滅したって構いません。何なら脳細胞と引き換えに、あいりの警護をお願いしますー!」
ごん、と一際大きな音を立てたあと、笹口の動きが止まった。真島の「死んだ?」と囁く声が聞こえる。
「課長、どうしましょうか」
「笹口さんが病院送りになる前にお前が決めろ。櫻場」
独り立ちをせよということなのか、それとも責任を押しつけられたのか。どちらにせよ、櫻場が決めねばならないようだ。現時点では、メールで示された内容がイタズラとも犯行声明とも決めがたい。だとしたら、櫻場が選ぶ道は決まっている。
「笹口さん、ご依頼は引き受けさせて頂きます。ですから顔を上げてください」
「本当ですか?」
笹口は飛び上がらんばかりに立ち上がると、櫻場の両手を掴み、上下にぶんぶんと振った。
「ありがとうございます! これで明日のコンサートを開催できます。よろしくお願いいたします!」
「全力を尽くします。ところであの、笹口さん、おでこが赤くなってるので冷やされたほうが……」
「大丈夫です!」
笹口は熱した鉄板のごとく真っ赤になった額をぺしりと叩き、力強く断言した。
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