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駒橋のコンサート会場は、最寄り駅から徒歩六分ほどの、雑居ビルが建ち並ぶ一角に在った。入り口から階段を下りると、すぐ左手に受付が見える。その先に観音開きの扉があり、ホールへと続いている。
ホール内にはそこかしこに機材が並び、スタッフが照明や音響のテストをしていた。ステージが赤や青、黄と、さまざまな色で照らされていく。
マイクを手にした駒橋が、カーテンが引かれた舞台袖からステージへと現れた。櫻場と一瞬視線が交差するも、リアクションすることなくステージの中央へ立つ。どこかからスタッフの「最終テスト始めます!」と叫ぶ声が聞こえた。
照明が落ち、ステージ上の駒橋だけが照らし出される。曲が流れ出すと、駒橋はダンスをしながら歌い始めた。
日野が言っていたとおり、駒橋のダンスは知識のない櫻場でも上手だと感じた。てっきり歌は口パクなのかと思っていたが、肉声がマイクを通して流れてくる。踊りながら息切れすることなく歌い上げるのは、相当な練習が必要だろう。
「才能があってそれに見合う努力が出来るって、すごいよな」
不意に口をついて出る。櫻場は慌てて誤魔化そうとしたが、真島の耳には届かなかったらしく、返答はなかった。
曲が終わり、照明が戻る。ホールの奥から、笹口が小走りで近づいてきた。
「櫻場さん、真島さん、お疲れ様です。何かわかりましたか?」
「今のところはまだ何も。メールを送った犯人を割り出し中なので、判明次第ご連絡します」と櫻場が言うと、笹口は「ありがとうございます。よろしくお願いします」と平身低頭しながら何度も礼を述べた。会場内を見たいと告げると、案内役を買って出てくれる。
客の出入り口は櫻場と真島が通ってきた扉のみ。スタッフは裏口からひっきりなしに出入りをしているが、コンサート中は施錠をするとのことだ。ステージ前には柵を設け、客が飛び出さないようにスタッフが監視をする予定らしい。
バックヤードへ向かう方法は二つ。ステージ左奥のドアを抜けるか、ホール左側のドアから行くかだ。ホール側はコンサート開始とともに鍵を閉め、ステージ側のほうは常時スタッフが門番をするそうだ。
櫻場と真島は会場を一周し、警備に必要な人数を話し合った。最低でもあと四人は欲しいと意見が一致し、顔を見合わせて肩を落とす。特課の職員を全員引っ張り出しても足りない。
「なに辛気くさい顔してるの。刑事なんだからキリキリ働きなさいよ」
駒橋がバックヤードからホールへと戻ってきた。疲労の色を微塵も見せず、背筋をピンと伸ばして立っている。
「どうせイタズラだろって、手を抜いてたりしないでしょうね。メールを送ってきた相手はわかったの?」
「腕利きのエンジニアが全力を挙げて調べてます。もう少しだけ時間をください」
櫻場の釈明に納得がいかないのか、駒橋がそっぽを向いた。傍らに立った笹口は大量の汗をかいている。
「あいり。お二人はお前のために……」
「ずっと思ってたんだけど」と、真島が笹口の言葉を遮った。
「もとはと言えば、あんたが軽率な真似をしたからこんなことになったんだろうが。反省してる? 全然そんな風に見えねぇけど」
真島の口調が完全に砕けている。それどころか悪すぎる。櫻場は低い声でたしなめたが、真島は止まらなかった。
「メールの件だって、イタズラの線が濃厚なのに、万が一を考えて櫻場先輩は動いてる。もし先輩以外の刑事だったら、あんたは特課に来た時点で、鼻で笑って追い返されてるだろうよ」
「真島やめろ」
「あんたのために、周囲の人間がどれだけ動いてくれてるか少しは考えろよ。誰のお陰でコンサートを開けるのか。誰のお陰でテレビに出られたのか。あんた一人で生きてる気になるな」
「真島!」
たまらず、櫻場は真島の胸ぐらを掴んだ。「もう黙れ」と声を絞り出す。真島が視線を逸らした。発言を撤回する気はないらしい。
真島を突き放すように解放し、櫻場は駒橋へ頭を下げた。
「私の指導不足です。不快にさせてしまって、本当に申し訳ありません」
いっそ笹口を見習って土下座でもすべきなのだろうか。いや、さすがにそれはやりすぎか。真島を横目で見る。先輩だけに謝罪をさせるわけにはいかないと感じたのか、項垂れるように頭を下げていた。
「……別に、気にしてないから」
駒橋が感情の籠もっていない声で言い、ホール左側の扉から出て行った。一瞬だけ見えた表情には、涙がにじんでいた気がする。
真島へ明日の打ち合わせを笹口としておくよう指示を出し、櫻場は駒橋の後を追った。即席の白い板で作られたバックヤードを進み、手近なスタッフに駒橋の楽屋を尋ねる。ピンクのカーテンが掛けられている部屋の前で足を止め、櫻場は短く息を吸った。
「駒橋さん、櫻場ですが」
「……入っていいよ」
失礼します、と言い、櫻場はカーテンをわずかに開き部屋へ入った。
室内は五畳ほどの広さで、奥側に化粧台と思しきテーブルがある。入り口の近くにはキャスター付きのハンガーラックが置かれ、コンサートで使用するのであろう衣装が掛けられていた。
駒橋は壁沿いに並んだパイプ椅子へ座っていた。表情は髪に隠れているが、意気消沈していることは明白だ。
「あの……駒橋さん」
「わかってる」駒橋が顔を伏せたまま紡ぐ。「みんな怒ってる。私が勝手なことをしたせいで面倒くさいことになったって。今頃、真島さんが代弁してくれたって喜んでるんじゃないかな」
「もしそうだとしても、真島の言動は刑事として不適切です。本当に申し訳ありません」
櫻場は再び頭を下げて詫びた。駒橋がどんな人間であるかなど関係ない。捜査に私情を挟むことは言語道断。警察学校で習っただろうに。
駒橋は手で顔をこする仕草をしてから、静かに顔を上げた。目元がかすかに赤く腫れている。
「櫻場さんって真面目なんだね。笹口みたい」
「土下座もしましょうか」
櫻場が膝を折ろうとすると、駒橋が「やめて」と笑った。隣の椅子を手のひらで叩き「ここ座って。見上げて話すの大変だから」と言う。
距離が近すぎではと思いながら、櫻場は駒橋の隣へ腰を下ろした。ファンに見つかったら袋だたきの刑にされるだろう。火あぶりの刑も追加されるかもしれない。
「敬語も使わないで。しゃべりにくいから」
「ですが……」
櫻場が言い終える前に、駒橋がスマートフォンを取り出して自撮りをした。撮ったばかりの写真を画面に表示し、櫻場の顔面に近づけてくる。
「次に敬語使ったらこのツーショットをSNSに上げるから」
「……了解で……だ」
「ヨシヨシ」
駒橋は楽しそうに微笑し、スマートフォンを脇へ置いた。どうにかして奪って逃走できないものか。いやそれは窃盗だ。適当な用事をでっち上げて退散するか? 櫻場が悩んでいるうちに、駒橋が「ねえ」と呼びかけてきた。
「櫻場さんはなんで刑事になったの?」
「えぇと……昔助けてもらったひとに憧れて、かな。話すと長くなるよ」
「話して」
「楽しい話じゃないから」
言外に拒否を匂わせるも、駒橋がチラつかせてくるスマートフォンに、櫻場は不承不承口を開いた。これでは人質ならぬ写真質である。
「六年前に都内で起きたショッピングモールの事件って知ってる?」
「ニュースで見た。モール内が爆発したんだっけ。テロ組織だかカルト宗教だかなんだかの犯行だったんだよね。……もしかして」
「俺も被害者の一人」
駒橋がうわずった声を上げた。
「楽しくないだろ。もうやめとくよ」
「……大丈夫。聞かせて」
先ほどまでの表情とは打って変わり、駒橋が真剣な眼差しをする。よもや会ったばかりの少女に身の上話をすることになるとは。櫻場は嘆息し、続きを話した。
温かな日差しが降り注いでいたあの日、櫻場は姉の誕生日ケーキを買うために両親と三人でショッピングモールを訪れた。休日のためか、モール内は混雑しており、ベビーカーを押す若い夫婦や、はしゃぎ回る子どもを優しく見守る家族の姿が多かった。
櫻場が両親と話しながら歩いていると、突如何かが破裂したような音が聞こえ、櫻場の身体が吹き飛ばされた。
意識が消失し、次に目を開いたときは闇の中だった。徐々に視界がきくようになり、櫻場は自分が瓦礫に埋まっているのだと理解した。顔周りに幾許かの隙間があったのは、今となっては幸運だったと思うが、当時の櫻場には恐怖でしかなかった。
両親の名を何度も叫んだ。俺はここだよ。父さん母さんどこに居るの。あらん限りの声量で呼びかけたが、応答はなかった。
再び近くで爆発音がして、櫻場は死がそこまで近付いてきていることを悟った。叫び続けた声は嗄れ、息苦しさから頭が朦朧としてくる。
もう駄目だ。
櫻場が絶望に打ちひしがれたとき、遠くから人の声が聞こえた。誰かそこに居るのか。その問いかけに、櫻場は残った力を振り絞って応え、差し出された手に縋り付いた。
櫻場の記憶はそこで途絶えた。意識を取り戻したのは、それから二日経った病院のベッドの上である。
「あの事件は一般市民だけじゃなくて、救助隊員たちでさえも命を落とした。俺を助けてくれたひともどうなったかわからない。恩人なのに、顔も憶えてないんだ」
「それは……仕方ないでしょ。精神的にも体力的にも限界だったんだろうし」
駒橋の意見は尤もだ。櫻場とて幾度も自分にそう言い聞かせ、納得しようとした。けれど、ずっと心のどこかに引っかかったままなのだ。
「まあそんなわけで、俺も人助けをしたいって思って刑事になったんだ」
「すごいちゃんとした理由があるのね。私とは大違い」
「駒橋さんはなんでアイドルになろうと思ったの?」
「小学生の頃からの夢だったの。でもずっと入りたかったグループのオーディションに落ちまくって、地下アイドルとしてしか活動できなくて。笑っちゃうよね」
駒橋の口元が自嘲的にゆがむ。膝の上で組まれた指は、爪が皮膚に食い込むほどに強く握られていた。
「駒橋さんはちゃんと夢を叶えてるよ。さっきリハーサル見させてもらったけど、歌もダンスも上手だった。努力しなきゃあんなに上手くなるはずがないんだからさ」
どんどん自分の言いたいことがわからなくなってくる。櫻場は一度言葉を切り、「明日は絶対成功させよう」と締めた。駒橋がわずかに口角を上げるも、すぐに暗い影が差す。
「あの変なメールね、イタズラだっていまも思ってるけど、でもどっかで違うのかもって、本当だったらどうしようって。お客さんもスタッフも笹口も、誰かが危ない目に遭ったりしたらって、考えたら怖くて」
溜め込んでいたものを吐き出すように、駒橋が捲し立てる。
「明日のコンサートはさすがにいつもどおりってわけにはいかないから、脅迫メールがきたことと、荷物チェックが入るって案内をSNSに流したの。そしたら炎上しちゃって。私の普段の行いが招いたことだって、色々、書かれて」
日野も駒橋は元々言動が過激だと言っていた。日頃から駒橋を良く思わないもの達が、これみよがしに誹謗中傷を始めたのだろう。画面の向こうにひとりの人間生きていることを考えず、鬱憤晴らしもかねて攻撃をしているのだ。
「週刊誌に撮られた写真だけど、彼氏なんかじゃないの。テレビ局のプロデューサーなの。初めてテレビに出たときに気に入ってもらえて、ご飯とか連れてってくれるようになって。そしたらこの間、ホテル行こうって誘われて。もっとテレビ出してあげるからって。断らなきゃいけなかったのに……っ」
駒橋が両手で顔を押さえた。噛み殺すような嗚咽を漏らす。
これまで誰かに相談することも出来ず、ただ自分を責め続けていたのだろう。細い肩が小刻みに揺れ、透明な滴がとめどなく落ちていく。
もっと気の利いたことを言いたかったのに、櫻場の口から出たのは「俺たちが守るから」という陳腐な言葉だった。駒橋の背をゆっくりと撫でると、消え入りそうな声で「ありがとう」と聞こえてくる。
駒橋が落ち着くのを待ってから、櫻場は楽屋を後にした。バックヤードの通路に見知った影を見つけたとたん、頭へ血が上っていく感覚を覚える。突き飛ばしてしまいたい衝動を堪え、櫻場は真島の前に立った。
「すみませんでした」
真島が深々と頭を下げた。
「謝るなら俺じゃなくて駒橋さんにだろ」
「はい。明日必ず謝罪します」
「謝って済むとは俺は思わないけど」
あえて冷たい声を出す。真島の肩がびくりと震えた。
「駒橋さんは周囲のひとのこともちゃんと考えてるよ。周りが見えてないのはお前のほうじゃないのか?」
真島は蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。
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