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「あれ? 真島さんは?」
櫻場が特課のドアを開けるなり、古崎がそう尋ねてきた。
櫻場は「あいつはトイレ寄ってるよ」と答え、スケジュールボードに書き込んだ予定をイレーザーで消した。ジャケットの中でスマートフォンが震える。日野からの着信だ。
「日野君、どうだった?」
「……メールの件ですが、都内のネットカフェから送信されているところまではわかりました。いまも調査中ですが、どのパソコンが使用されたのかは不明です」
日野の口調は淡々としているが、相当悔しかったのか「引き続き調べます」と言い、すぐに通話を切った。
櫻場は席に腰掛け、背もたれに寄りかかった。低く軋む音が立つ。犯人を突き止められない以上、警備部の手は借りられない。さすがに古崎を現地へ連れて行くわけにもいかないので、何度数えても人員は三人だ。絶対的に足りない。
櫻場が天井の模様を眺めつつ思考を巡らせていると、甘い香りが漂ってきた。
「疲れたときはハーブティがいいらしいですよ。どうぞ」
古崎が紅茶の入ったカップを、櫻場のデスクへ置いてくれた。礼を言って口を付ける。リンゴのような甘い匂いが、鼻腔を通って脳へ届いていく心地がした。
「これ、なんのお茶?」
「カモミールです。心を落ち着かせてくれる効果があって、寝る前に飲むとよく眠れるらしいですよ」
「そうなんだ。俺も買ってみようかな。あ、でもポットとか要るか」
「そんな櫻場さんにお勧めなのが、ティーパックでーす」
じゃーんと口で言いながら、古崎がデスクの引き出しから箱を取り出して見せた。鮮やかなブルーを背景に白い花が描かれ、丸みを帯びたフォントで「chamomile flowers」と書かれている。
「お湯を注ぐだけなので、普段は料理をしない櫻場さんでも手軽に作れますよ」
「俺だって簡単な料理ぐらいは出来るよ」
「たとえば?」
「野菜炒めとか」
「それって、ちゃんと野菜を切るところからですよね。まさかカット野菜を使ってませんよね」
「……あれって便利だよね」
同意を求めたが、古崎は目を細めて「ウフフフ」と奇妙に笑った。やはり切る作業からやらねば駄目か、と櫻場が思っていると、古崎が「なんちゃって」とふざけた口調で言う。
「カット野菜は私もよく使ってます。あれ考えたひと天才ですよね」
「うん。あれがなかったら、今よりもっと野菜食べれてないと思う」
包丁を使ったり、野菜の皮を剥いたりする作業が面倒なのだと、古崎と意見が一致する。上倉は会議のため席を外しているが、もしこの場に居れば櫻場たちに深く同意していただろう。
古崎との「一人暮らしあるある」に花を咲かせていると、ドアがうっすらと開いた。黒い頭がぬっと出てくる。
「……戻りました」
災厄にでも見舞われたのかというテンションで、真島が部屋に入ってくる。足取りは頼りなげで、今にも転倒してしまいそうだ。着席するなり顔を突っ伏した真島を、古崎が怪訝そうな顔で見る。
「櫻場さん、真島さんと何かあったんですか?」
「新人特有のやらかしだよ。俺がきつく注意したからヘコんでるみたい」
「なるほど……櫻場さんって怒ると怖そうですもんね」
「そう? 怒鳴ったりするのは苦手だけど」
「それですよ。絶対零度って感じで、取り繕いようがないっていうか。怒らせたら一巻の終わりっていうか。もう一生口きいてくれなさそう」
どんなイメージだ。古崎さんにそんな冷血漢だと思われていたなんて、むしろ俺のほうがショックなんだけど。
古崎はポットに残っていたお茶をマグカップへ注ぎ、そっと真島のデスクへ置いた。真島はそろそろと顔を上げて古崎の心遣いを確認するも、櫻場と視線が合うなり再び机に伏してしまう。よもや真島がここまで繊細だったとは想定外だが、駒橋へのあの態度は刑事として許されるものではない。今日のところはきっちりヘコんでもらおう。
真島を放っておき、櫻場は明日の段取りをパソコンで打ち始めた。あらかた完成したところで上倉が戻ってくる。上倉は死んだように動かない真島を見つめ、おおよその事態を察したのか、櫻場へ「守備は?」と尋ねた。
「人手不足です。こうなったら、俺と課長と真島が分裂するしかないかと」
「無理だろ。ま、んなことだろうと思って、手を回しといてやったぜ。明日警備部から五人借りられることになった」
「どんな手を使ったんですか?」
「昔なじみの奴から借りを返してもらっただけだ。足りるか?」
「なんとか」
櫻場は今しがた作成した文書を印刷し、上倉へ渡した。目を通した上倉からの指摘をメモし、改訂版を作る。明日のこちら側の動向を細部まで打ち合わせ、助っ人の人員配置も決めた。
すべての確認を終えると、上倉は声を張り上げて真島を呼んだ。
「何があったか知らねぇが、明日は気持ち切り替えていけよ」
真島はそろそろと顔を上げ、子猫のようにか細い声で返事をした。
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