第三話「疾駆」

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 ガラスの街イレク・ヴァドの塔の頂上……  ぶ厚い暗雲の立ち込める空には、かすかに稲光が明滅している。  目覚めたイングラムは、全身を走る激痛に顔をゆがめた。さっきの戦いで体中いたる場所の骨が折れ、おまけにその身を拘束するのは頑丈な鎖だ。  痛みにあえぐイングラムの顎を持ち上げ、ルリエはひらひらと手を振ってみせた。 「はい、ご機嫌はいかが、イングラム?」  怪訝げな顔つきで、イングラムは吐き捨てた。 「最高のお目覚めだよ。肉料理の下処理みたいに骨ごと叩かれて、おまけに異世界の可愛子ちゃんと縛りプレイときた」 「安心して、ロースハムさん。べつに取って食べたりはしないから」  手負いの獣のように、イングラムはうなった。 「殺すならさっさと殺せよ。呪士は目のかたきなんだろ?」 「そうしたいのは山々だけど、あまり生き急がないで。あなたは、これから行う召喚の大事な要素なの。見て」  頂上の広場を、ルリエは手で案内した。  広大なガラスの床一面に描かれるのは、うす汚れた色の複雑な魔法陣だ。  こぼれんばかりに目を見開いて、イングラムはうめいた。 「これは……血で書いたのか?」 「そ。たっぷり呪力をまぶしたあたしの血。このだだっ広い場所に、じぶんの手首を切って歩き回るのは大変だったのよ。なのでちょっと貧血気味」  額をおさえてふらつく素振りをみせたルリエへ、イングラムは問うた。 「こんな大がかりな魔法陣を組んで、いったいなにを呼び出すつもりだ?」 「あなたもよく知ってるでしょ。〝ジュズ〟の軍隊よ。あっちの世界で、彼らは今か今かと出動のタイミングを待ってる」  黒雲の下で小さく舞い踊ったルリエを、イングラムは鼻で嘲笑った。 「あてが外れたな。残念だが、俺の召喚術はジュズを呼ぶのに向いてない。もしかりに連れて来れたとしても、せいぜい二、三体が限度さ」 「そこは問題ないわ。あっち側にも、専用の召喚装置は準備されてるのよ。あとはカギとなるあなたの一声だけで、大きな門は扉を開ける」  鋭さを増したイングラムの眼差しは、空の雷光を照り返して輝いた。 「おとなしく従うと思うか、俺が?」 「あら、さっき見たでしょ。あたしがホシカを操るのを。催眠術は得意なのよ、あたし?」  あわててイングラムは瞳を閉じ、ルリエの視線を遮断した。 「無駄よ。目だけがあたしの武器じゃない」  イングラムの耳に、ルリエの甘い声は忍び込んだ。 「あなたは、あたしを好きになる」 「……!」  呪力を集中して、イングラムはなんとか催眠術をやり過ごそうとしたが無意味だ。圧倒的な支配の声に、たちまち意識の天秤は桃色の悪のほうへ傾いていく。  とっさに舌を噛み切ろうとしたイングラムだが、それも素早くルリエに巻かれた猿ぐつわによって封じられた。いつかの独房での立場が、逆になってしまっているではないか。  拘束されたまま身じろぎするイングラムの頭に、ルリエの妖しい声音はささやき続けた。 「あなたは大人しくなる。あなたはあたしの言うことを聞く。あなたは召喚する」  急速に霧散していく自我の中、イングラムは心の中でだれかの名を叫んだ。 (たのむ、ホシカ……!)
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