〜堕落〜

1/1
前へ
/13ページ
次へ

〜堕落〜

 私は哀れな人間だ。まだこんな世界に希望を抱いている。  妻がいなくなってしばらく。私は何をするにも気力がおきなかった。我が子の世話も中途半端で、こんなにも堕落してしまった惨めな人間だ。まだ妻は生きてるんじゃないかと思ってしまうほど、情けない人間だ。  酒の匂いが充満した部屋に一人。カーテンを閉め切り、一日の移り変わりも分からない。めちゃくちゃな日々を過ごしている。両親に子供を預け、会社も有給を目一杯使っている。ボロボロの心に鞭打って、底をついてしまった食糧を買いに恨めしい太陽のもとに出る。希望に満ち溢れているかのような明るい世界。楽観的な目で、町を歩く若者達。  深く、深く深呼吸する私はコンビニのドアを開く。ある程度の食料を買い揃え、レジへとむかうと、私の会社の同僚たちが見えた。 「元気にしてますかね?」 「明るくはないだろうな、奥さんのこと大好きだっただろうし」  えらく他人事のような口調に腹を立てた私は、同僚たちに向かってこれまでの怒りをぶつけた。 「お前らに何がわかんだよ!!」  ビクッと体を震わせて振り向く。 「おぉ!奇遇だな!これからお前の家に様子見に行くとこだったんだよ」 「係長!すみません、」 空気の読めない同僚とは裏腹に、部下は頭を下げてきた。 「何しにきた!堕落した人間を嘲笑いにでもきたのか!」 「そんなんじゃねぇよ、それ買うのか?奢ってやるよ」 「必要ない!そんな同情なんて!」 「とりあえずここじゃ他の人に迷惑だから、お前の家に行こう」 「ふざけるな!」  私は誰にも吐き出せなかった憎しみを全てぶつけるように吐き出していたが、部下はおどおどするだけ、同僚に至っては何事もなかったかのように会計を済ましている。私はなんて惨めなのか。  強制的に自宅へ連れ戻され、玄関のドアが開いた瞬間に二人は目を丸くする。投げ捨てられた靴にバキバキに折れた傘。そのほかにも家の至るところが強盗に入られたかのように、荒らされていたのだから、仕方がない。リビングのソファーに倒れ込むように座る。二人はテーブルがあったであろう場所に腰掛けた。 「これいつやったの?」 「わからない」  すこし落ち着いていた私は、先程の非礼を詫びて、淡々と話をする。 「部署はどうだ?」  部下にわざとらしく聞いてみる。 「はい、みんな心配してましたよ。係長の愛妻家っぷりは有名ですから」 「そうか、みんなによろしく言っといてくれ」 「ですが、、この状況でよろしくと言われましても、」  辺りをみわたしながら、非常に言いずらそうに言う台詞はため息が混じっているように思えた。そこでコンビニのお菓子を食べながら聞いていた同僚は大きなため息をつく。 「情けないな〜人が死んだくらいで」 「なんだと!」  落ち着きかけていた心がまた、荒れだす。 「お前にわかるのか⁈最愛のものを失ったこの気持ちが!いつも隣にいてくれたかけがえのない存在を失った恐怖が!」 掴みかかろうとする私を部下が止めに入るが、私の言葉を否定はしなかった。 「あぁ、わかるよ。俺の妻と子供は出産時に二人とも死んだからな、」  体の力が抜ける。初耳だった。彼はいつも明るく、人懐っこく、皮肉を言えばなんの苦労もしていないような人に見えた。そこから話始める彼の言葉はとても重かった。 「俺、二十のときに一回結婚してるんだ。相手は高校の同級生で俺が卒業して働き始めてすぐに子供ができてさ、結婚したんだ。両親達からは反対されてたんだけど、駆け落ちみたいな形で入籍した。ちょうど成人式の日にさ、妊娠八ヶ月になって大事をとって出席しなかった奥さんが病院に救急搬送されたって連絡が来てさ、急いで病院に行ったらもう手遅れだったよ」  言葉の奥の奥に深い悲しみがあるのを感じた。あぐらをかいて、すこし俯きながら彼は続けた。 「それからはもう地獄だったよ。義両親からは罵詈雑言。両親からは絶縁宣言。何にもする気が起きなくて、会社も辞めて、引き篭もったよ。自分がダメになってる自覚はあったよ。『俺があいつと結婚しなかったら』『俺があいつに恋しなかったら』『俺がいなければ』って自殺しようとさえするんだけどな、」 涙がこぼれている。 「だけど怖いんだよな、俺の中であいつと息子がなくなるのが。俺にしか見せないあいつの顔が、俺とあいつにしか感じられない息子の存在がこの世界からいなくなるのがどうしようもなく怖かった。その時いつか自分も忘れてしまわないようにってノートに書き留めたんだよ。二人との思い出を全部。そしたらさ元気出てくるんだよ、俺脳天気だから。ネットに投稿してみたら、『素敵な奥さんですね』とか『羨ましいです』とかいっぱい来て舞い上がってさ。」 明るく楽しそうに話す彼を見て、私は改めて自分の堕落した姿を見た。 「そっから近くのコンビニでバイトしてさ、幸せだった自慢をしてたらさ気づいたんだよ。俺があいつらを忘れなければいつまでも思い出は作れるんだよ。俺が生きてる限りあいつらは俺の中で生きてるんだ。俺と一緒に生きてくれるんだよ」  きっと彼には私には分からない苦悩をしてきたんだろう。それと同時に沢山の幸せも実感してきたんだろう。  私の中に生きている妻と、私の手の中で生きている我が子。これまでたくさんの悩みがあった。たくさんの幸せがあった。かけがえのない言葉を交わした時間。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加