1人が本棚に入れています
本棚に追加
「おはよう、にいちゃん。よく眠れたかい?」
ぼんやりとした意識の中で真っ白な空を見上げていると不意に現実が訪れる。
「おはようございます。正直ちょっと寝不足で、」
「そうか、起こして悪かったな。ゆっくり寝るといい。
朝食までまだ時間はあるから」
「その前に一つ聞いていいですか?」
「なんだ?」
昨晩聞かされた老人の激動の人生。それから寝ずに考えていた、
「自分の人生に後悔はありますか?」
俺には想像もできないほど重く、俺には経験し得ない重圧の中で、選択と切り捨てを繰り返した偉人に聞いて欲しかった。
永遠にも思える長い沈黙の後、かすかに口を開く。
「後悔はないけど、悲しみは残ってるよ」
「どういうことですか?」
「これまで生きてきて沢山の決断をしてきた。その時その時で最良の選択をしてきたつもりだ。
だけどな、どんなに最高の選択をしていても全てがうまくいきわけじゃない。俺の下についてきてた奴らを泣かせたし、最悪殺したこともある。そういう意味で一生消えない悲しみが残ってるよ」
「それは後悔にはならないんですか?」
「そうだな。後悔といえばそうなんだろうが、俺は頭悪りぃからよくわかんねぇや、」
「そうですか、ありがとうございます」
「さっ、横になんな。寝れてねぇんだろう?」
「はい、」
昨日よりも若干衰弱したような言葉に違和感を覚えていた。
ベットに体を預け、窓から見える枯れ木に目をやる。葉は枯れ落ち、周りにも何もないこの佇まいは孤独を絵に描いたようだ。それは老人にも似たような虚しさを感じさせる。俺なんかより何倍も長く生きている老人は誰よりも明るく、誰よりも悲しげな雰囲気をただよわせている。
寝ようにも寝られない異様な緊張を感じていると、朝食の時間になってしまった。この場所で唯一苦手なのはこの人達の存在だ。理由はわからないが、何故だかこの人達といると心が落ち着かない。普通の感覚とは違うこの感情は他人には理解できないらしい。自分自身の感情を全て理解しているわけではないが、この感覚に関しては把握できていないことがあまりに多すぎる。あまりに明るすぎるこの人達の笑顔の裏を見ようとしすぎているからなのかもしれない。
味気ない病院食も、不健康な普段の生活様式を覆しかねないから嫌いだ。理想を求めすぎる人たちも苦手だ。
最初の一口を躊躇っていると老人が呟いた。
「おはよう、にいちゃん。食べねぇのかい?」
「いえ、少し考え事をしていただけです」
「そうかい、しっかり食べなよ」
「そういえば、今日は何時から起きてたんですか?」
「さぁ何時だったかな、」
「ずいぶん早く起きてる気配がしたんですけど、」
「もうじじいだから、早くに目が覚めちゃうんだよな。ハハハ!」
つまらない会話だ。この前までこんなことばっか喋ってたのに、いつの間にかこんな会話をつまらないと感じてしまうようになったのだろう。変わってしまった自分は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、戸惑いは隠しておくべきだろう。
こんな普通の日常が数日過ぎた頃、老人が退院するという。
「お先だな!にいちゃん!」
「はい。お元気になってなによりです」
違う。日に日に弱っているのが目に見えるほどなのに、完治して退院している訳がない。それとは対照的に日に日により明るくなる老人の姿を見てきた。そんなことに気づいているのかどうなのか、弱りきった老人の顔はいつにも増して哀愁がただよっていた。
思えば、俺が入院してきてからその兆候はあったかも知れない。医者でなくとも気づけたであろう変化を見抜けなかったことに自分への嫌悪感があふれてくる。
「おい!にいちゃん!いろいろ悩んでるようだから老いぼれからアドバイスだ!これから先、どんな時も言葉には気をつけろよ!これまで色々とヤってきたが言葉ほどに残酷で、卑劣で、強力な殺人道具はないぜ」
これまで味わったことのない恐怖だった。殺人という言葉の重さ。経験に裏打ちされた確信。低く、鋭く、心をえぐるような声。衰弱した人物からでも感じる重み。その時やっと老人の強さを感じた。
「はい、肝に銘じておきます」」
身震いしながら絞り出すように出した自分の言葉にも恐怖を感じる。俺が持っているのは確かに凶器なんだと初めて自分が恐ろしくなった。
「そうか!じゃ、元気でな!」
場の緊張がいっきにとけ、老人は明るい笑顔を見せた。それから豪快な笑い声を上げて去っていき、その声も聞こえなくなった。そしてまた背筋が凍る。
唐突に突き刺さった言葉というものの重さ。その言葉の奥にある核心。その全てに怖さ、恐ろしさ、そして冷さがあった。
あいつの言葉にはどんな凶器ひそんでいるのか。
人間の弱さと強さを見た夕暮れだった。
最初のコメントを投稿しよう!