〜幻想〜

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〜幻想〜

「あーうーあー」  “夢を見た。どこか、懐かしい夢だ” 「どうしたんだ?」  “優しい声、愛情と慈愛に満ちた、暖かな言葉”  私は絶望の中にいた。子供が生まれてから 一年。スクスクと育つ我が子が愛おしくてたまらない。だが絶望していた 「オムツか、ちょっと待ってろ」  必死に繕った笑顔を見せて、幸せな生活だと勘違いする。きっと自分の心の痛みにも気づかずに、幸せに思える生活を続けていく。妻が入院して、一週間。静まり返った夜に響いた、赤ん坊の泣き声。抱えきれない悩みと、ぬぐいきれない不安の中で、朝日を迎える。  一週間前。体調の変化を感じた妻は、かかりつけの病院に向かった。そこで聞かされたのは、癌という病名。どうやら妻は自覚症状も出にくい膵臓癌という種類らしく、ステージもかなり進行しているそうだ。知らぬ間に蝕まれていた、幸せの歯車。これからの生活に希望はあるのだろうか。  朝日の輝かしさにため息をつきながら、体を起こす。つかの間の休日に赤ん坊を連れて、妻の待つ病院へ。妻は、私の顔を見た瞬間に、表情を明るくさせ、我が子に目をむける。穏やかな表情で眠る我が子に顔を緩ませる。 「かわりないか?」  私が尋ねると妻は、一瞬険しい顔をして答える。 「大丈夫。なんともないよ。それよりあなたこそどうなの?ちゃんとやれてる?」 「なんとかなってるよ、意外とね」 「そうよかった、家事もしたことない人だから心配で心配で」  赤ん坊を抱え、暖かな顔を見せて優しく微笑んだ。そこからなんてことない会話が続く。我が子が起き、二人であやす。なんて幸せな時間だろうか。この穏やかすぎる時間を噛みしめていると、少し嫌な思い出がよみがる。そういえばあの時も、こんななんてことない時間が過ぎていて、これからもそれが続くと思っていたあの日。  まさかそんなことは、と思いつつ恐怖を紛らわすために「ちょっと飲み物買ってくるよ」とその場を離れた。休憩スペースで、缶コーヒーの蓋を開ける手が震え。「もうそんなことは起きないだろう」「それでもなにが起きるかわからないし、」「でも、神様もそんな無慈悲な真似はしないだろう」先ほどまでの幸せな時間はどこへ行ったのか、脳裏に焼き付いてしまったあの記憶が、私の心を支配した。  病室に戻ると妻と子供がパズルをしながら遊んでいる。妻の病院服が浮きたって家族の幻想を壊してしまう。 「なにやってるの?」  なるべく自然に、あたりさわりなく、優しい父親で。幸せな家庭が崩れないように。 朱色に染まり始めた街の景色を見て、ため息をつく。 「そろそろ帰ろうか」 「あら、もうそんな時間?」 喪失感にあふれた言葉だった。 「うん、もうそろそろ寝かせないと」  うつろな目で母親を見ながら、体を預ける我が子を見て言う。 「わかった。また来てね」  にっこりと微笑みかけて、少し潤んだ目を見て私は病室を出る。  病院からの帰り道に、いつも見かける小さな公園。小さな遊具に、小さなベンチ、私たちのような小さな家族にぴったりの場所だといつも思う。ルームミラー越しに眠る我が子が涙の筋を浮かべている。安堵と不安が入り混じった脳みそで、この先の生活について最悪の想定をしてしまった。「もし妻が死んでしまったら」「私に親は務まるのだろうか」「この子は幸せに生きられてるだろうか」  信号待ちの交差点。目の前の赤いテールランプが、私の人生に突き刺さる感覚がした。
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