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雨雲
ふと雨にぬれたい気分になった。
窓に打ちつける小雨が視界を曇らせて、どこか虚しさを覚えさせる。雨音に耳を澄ませて、スマホに映る妖艶で、淫乱な女性の裸が目に入る。趣味も、やりたいこともない俺は、こんな下品なことしか時間を潰す方法を知らなかった。
傘も持たずに、玄関のドアを開ける。俺の体に打ちつける雨は優しくて、暖かくて、とても惨酷なものだ。道路にたまった水たまりに映った自分の顔が、えらく拍子抜けだった。思わず吹き出しそうになって、空を見上げる。天から降りそそぐ恵の雨が、世界を美しくさせているのかもしれない。こんな世界を初めて、ほんの少しだけ、愛せたのかもしれない。
見知らぬ町の景色が新鮮で、ずいぶん長いこと歩いたかもしれない。平凡すぎるこの町と、
平凡すぎる俺自身に、苛立ちを感じていたが、今日はなんだか楽になった気がした。俺の体に響く雨音が、心地良くて、無心になれるようだ。
別に、何を思ったわけでもないが、自然と彼女の住む施設に足がむいていた。それは田舎臭いこの町には似合わない、現代的な建築だ。施設の周りを取り囲む塀を遠目で見つけ、歩幅が小さくなる。遠慮気味に、堂々と、施設の裏門に向かった。
裏門の屋根に入り、スマホを取り出す。
「よぉ。何してる?」
「めずらしいね、そっちから連絡してくるなんて。
学校が終わって今帰ってるよ」
「体調はもう大丈夫なのか?」
「心配してくれるの⁈ありがとう、もう大丈夫だよ」
あの日、彼女は帰ってから高熱を出したのだと、施設の子が教えてくれた。
「一緒にいたのに気づけなかったからな、」
「それだけ私の演技力が高いってことだよね!」
偉く上機嫌な彼女が目に浮かぶようだった。
「それだけで連絡してきたの?めずらしい、」
「うるせぇ、連絡しちゃだめなのかよ」
「そんなことないよ〜いつでも連絡してきて良いからね?」
「話があるんだ」
「なに?」
「お前は『愛』ってなんだかわかるか?」
「まさかの恋愛相談⁈どうしたの⁈熱でもあるの?」
「ねぇよ!真剣な話だ」
「愛ね〜。分かんないな、好きになった人もいないし」
「そうか」
「そういえば片思いしてたって言ってたよね?それはどうなの?
『愛』じゃないの?」
「わからない、確かに好きだったし、良い思い出ではあるが、『愛』かと言われると自信がない」
「小学生の恋でしょ?そんなもんだよね〜」
頭に浮かべる初恋の人の顔が、ぼやけているような気がした。
「最近さ、悩んでるんだ。これからどう生きたら良いのかな?って。『好きなように生きれば良い』って言われるけど、やりたいこともないし趣味もないからさ」
「それで愛に生きると?」
嘲笑うかのような彼女の言葉に、苛立ちを覚える。
「愛したことはなくても、愛された記憶はあるからな」
「そんな怒らないでよ、ゴメンって」
「また連絡するわ」
「うん、またね」
別に答えが欲しかったわけじゃない。ただその日その日生きる『何か』が欲しかっただけだ。それが愛じゃなくてもなんでもいい。愛を知らない彼女は『何』を持って生きているのか知りたかった。
少し強くなった雨に傷つけられながら、見慣れた町を歩く。いつの間にか傷ついた俺の心に、雨雲は優しく寄り添って、深く傷つけてくる。
風呂上がりの香りに気分が高揚する。遠ざかりそうな雨雲に寂しさを感じて、テレビの電源をつける。再放送のドラマの言葉に耳を傾けながら、帰り道に買ったコンビニの弁当を温める。水滴だけがついた窓ガラスが、何かをささやいているようだ。そこに言葉はないけれど確かに聞こえる声だ。声の元をたどって、自室に入る。
「さっきは本当にごめん」
彼女からの謝罪の連絡だった。
「俺の方こそひどいこと言った。本当にごめん、」
心からの言葉だ。怒りながらも、理性を働かせ、彼女が一番傷つく言葉を選んでしまった。
「いいよ、気にしてないし。それよりさ今日どこか出掛けた?」
「コンビニに行ったよ」
「それだけ?」
「あとは散歩もした」
「やっぱり!私が学校から帰ってきたらさ、それっぽい人影が裏門から離れていったから」
彼女に見られていたと思うと、急に顔が赤面する。
「多分、俺だな。散歩してたまたま通りかかったから」
「私に会いたかったの?」
「そんなんじゃねぇよ、たまたまだ」
「ホントに?黄昏てたら、私に会いたくなったんじゃないの?」
「だから違うって!」
少し安心した。一番傷つく言葉だと知っていながら、あんなことを言ってしまったことを後悔していた。彼女に憎まれているのではないかと思ってた。
「笑笑。そういうことにしておくよ。それよりさぁ 、」
「どうした?」
「私の好きな言葉がね、ネイティブアメリカンの教えのなかにあるんだけどね」
「『あなたが生まれた時、あなたが泣いていて周りが笑っていたでしょう。だから、あなたが死ぬ時は、あなたが笑っていて周りが泣いているような人生を歩みなさい』」
「そんな人生を歩む為に必要なのは、『愛』かもしれないし、『友情』かもしれない、『夢』かもしれない。あなたは『そんなもの持っていない』って言うかも知れないけどね。でも、あなたがこれからどう生きようが、あなたのこれまでを知っている私は、もしあなたが死んだ時は、絶対に涙を流すと思うから。だからさ、これからもあなたらしく、楽に生きていいんじゃないかな?」
「ずっと考えてたんだけどね、そう思ったよ、」
俺の心を覆っていた雨雲が、ほんの少し明るくなった気がした。救われた、とまではいかないが、確実に俺になんらかの変化があった事を感じた。
「そういうもんかな、ありがとう。っていうか、お前、俺が死んだら泣いてくれんの?」
「うるさい!多分だよ!た・ぶ・ん!」
「そうか、ありがとう」
「じゃ、またね」
「おう」
彼女が好きな言葉。俺をほんの少しだけでも変えた言葉。
遠くに聞こえる、地面に打ちつける雨音。ほんの少し明るくなった空気が、雨雲を遠ざける。
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