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墓園を出た車は、緩やかな斜面を下っていた。フロントガラスの向こうには、住宅街が広がっていた。
「次は、お父さんの神園真一さんの家に向かいます。ここから二十分ほどで着きます」
大迫の言葉に、俺はコクリとうなずく。
「分かりました。お願いします」
また沈黙が続く。大迫の表情は、依然として固かった。
神園真一、俺が殺した雄一の父だ。雄一を男手一つで育てたと聞いた。奥さんは、息子を産んですぐに病気で亡くなったらしい。男が一人で子供を育てる、そこには多くの苦労があっただろう。そして、たった一人の子供に、多くの愛情を注いできたに違いない。しかし、ただ一人の息子は殺されたのだ。ある日突然、激情した男に殺され、最愛の息子を失ったのだ。
「着きました。ここです」
目の前には、クリーム色の背の高いマンションがあった。太陽の光を浴びて輝いており、その眩しさに思わず目をつむる。
「ここの三○六号室です。私はそこの駐車場にいますので」
俺が下りると、大迫は車を駐車場の方へと走らせた。
マンションの一番隅に、螺旋階段があった。ところどころペンキが剥げて、錆が目立っている。俺は階段を上り、三階を目指す。一段上がるごとに鼓動が早まっていった。足が重い。呼吸が上手くできず、酸欠になったみたいに息苦しくなる。
三階に着くと、部屋はすぐに見つかった。三○六号室、神園という表札を見て、心臓が握りつぶされるかのように苦しくなる。
心の中に様々な葛藤が生まれる。俺はここに来るべきじゃないのではないか。あの人に会って何になる。引き返した方が良いのではないか。
しかし、俺は会うと決めた。ここで会わなければ、前に進めない。会わないまま、前に進んではいけないのだ。
両手で頬を二回叩く。ボクシングをやってた時に、試合前に必ずやっていたルーティーンだ。俺は深呼吸をして、震える手で呼び鈴を鳴らした。
家の中にチャイムの音が響く。しばらくして、ドアが開いた。中から出てきたのは、白髪頭の老人だった。眉間にしわを寄せ、こちらを見る。
「どうぞ。入ってください」
彼、神園真一が言った。その鋭い声に、さらに息苦しくなる。
俺は「お邪魔します」と中に入る。
部屋は物が少なく、すっきりしていた。リビングに通されて、座るように促される。俺は一礼してから、テーブルの前の木製の椅子に腰掛ける。
「私に話というのは、いったい何かな」
向かいの席に座った彼が、低い声で言う。俺の心臓が小刻みに動いていた。息を吐き、ゆっくりと口を開く。
「急に家に押しかけてしまい、申し訳ありません。僕になんて会いたくなかったと思いますが、どうしても話さないといけないことがあるんです」
彼は黙ったまま、まっすぐに俺の方を見ていた。
「実は今、僕にボディガードの仕事をしてほしいという話があります。僕には、あまりにもったいなくて、断ったのですが、どうしてもやってほしいと言われました」
俺は荒れる心を抑えて、丁寧に、言うべきことを口にしていく。
「あなたに言わず、この仕事を引き受けてはいけないと思いました。こんなことを言われて、ただ迷惑なだけで、不快に思われたかもしれません。しかし、あなたに報告しないわけにはいかないと思ったんです」
俺はそれだけ言って、息を吐く。しばらく沈黙が続いた。まるで時間が止まったかのようだった。壁の振り子時計だけがカチカチと音を鳴らし、時間を刻んでいることを教えてくれる。
「君が言ったとおり、私にとって不快でしかない」
彼の言葉に、まるで首が締め付けられたかのような苦しさを覚える。
「雄一の人生を奪っておいて、君は自分の幸せをつかみたいのかい。そんな虫のいい話を聞いて、良いですよ、なんて言うとでも思ったのかい」
息を吸うが、空気が上手く入ってこない。めまいがして、世界が回っているかのような感覚に陥る。心臓が圧迫され、今にも潰れそうだった。
しかし、ここで引いてはいけない。言うべきことを言わなければ。手汗で滲む拳をぎゅっと握る。
「僕には、幸せになる権利なんてないと思います」
俺の言葉に、さらに彼は表情を険しくする。
「楽しむ権利もないですし、自分のために生きる権利もない。ましてや職業を選ぶ権利なんてないと思います」
彼は身動き一つ取らずに、俺の話を聞いていた。
「ボディガードの話が来たからって、簡単に引き受けてはいけないのかもしれません。ただ、こんな僕でも必要とされる場所があるなら、そこで働こうと思うんです。それは決して、雄一さんのことを忘れたとか、自分だけ幸せになろうとか、そういうことじゃないんです。僕のことを必要としている人のために、僕の残りの人生を使いたいんです」
再び静寂が部屋を占めた。重苦しい沈黙に、俺の胸は潰されそうになる。
「本当は、認める気なんてなかったんだけどな」
彼がぼそりとつぶやく。はあっと息を吐くその顔は、先ほどまでと違い、どこか穏やかだった。
「先週、君のファンがこの家に来て、土下座してお願いされたよ」
ファン。その言葉に俺は混乱する。俺のファンが来たとは、いったいどういうことだろうか。
「あのお、すみません。僕のファンというのはいったい」
俺の質問に、彼は眉をひそめる。
「君のファンじゃないのかい。確か、大迫という名前だったかな」
大迫。彼がファンだったなんて全く知らなかった。そんなことは一度も言わなかったし、そんなそぶりすら見せなかった。
「私がどんなに怒鳴っても、頭を上げなかったよ。中山さんがボディガードになるのを許してほしい、と。あの人がいるから、今の自分がいる。落ち込んだとき、負けそうなとき、君の戦う姿を見て力が出たんだと」
「そんなことを……」
「だから今度は恩返ししたい。あの人に光を当てたい。だからどうか許してほしい。そう言ってたよ」
また部屋に沈黙が流れる。俺は言うべきことが思いつかず、口を閉ざしたまま、神園の次の言葉を待った。
「罪の意識を背負っていたのが、君だけかと思ったかい」
彼が言う。その言葉の真意が分からず、俺は何も口にできなかった。
「私も、どれだけ罪の意識を感じたか。息子が、とんでもないことをした。君に強烈な殺意を抱かせるほどに、ひどいことをしてしまったんだ。息子を失った悲しみと怒りの感情で、罪の意識を隠していた。しかし、その感情が消えることはなかった」
力強く語る姿に、俺の体が凍りつく。
「君は反省し、この十年間、息子のことを思い続けた。それは並大抵のことではないだろう。そして、これからも、自分のためではなく、誰かのために働こうとしている。君はすごい。私の許可なんて、必要ない。君は、君のしたい仕事をしたら良い」
胸の奥から感情がこみ上げ、まぶたからこぼれる。俺は立ち上がって深く礼をする。
「ありがとうございました」
震える声で言った。拭い切れない涙が、次から次へと流れてきた。
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