日が昇らない世界

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 マンションの長い廊下を歩いていく。その足取りは、ここに来た時とは違い、軽かった。ここ十年間で感じたことがないほど、心は晴れ渡っていた。恭子にも、すぐに連絡したかった。社長にも言わなければいけない。頭の中に色んな人の顔が浮かぶ。  ふと、大迫の話を思い出す。彼が、俺のファンで、しかも、俺がいるおかげで今の自分がいると言っていた。車に戻ったら、大迫に聞いてみないといけない。 「中山君」  螺旋階段を下り始めた時、後ろから声がした。そこには、神園真一が立っていた。その顔に先ほどの力強さはなく、何か懇願するような表情を浮かべている。 「どうされましたか」  俺は階段の下から声をかける。見上げるような形になってしまった。 「最後に、君に言いたいことがあるんだ」  神園の、さっきとは違う訴えるような瞳に、身が引き締まった。 「息子が、すまなかった」  消えては吹きそうな声で、彼が言う。 「ずっと、言えなかった。でも、言いたかったんだ」  少し視線の下がった彼の瞳が、うっすらと潤み、震えていた。 「今日は、来てくれてありがとう」  そう言って、彼は踵を返す。すぐにその姿は見えなくなった。俺は一人その場に残され、立ち尽くしていた。  今日、ここに来たのは間違いではなかった。俺はそう思う。十年間、胸の奥で澱んでいた感情は、洗い流されていた。ずっと止まったままだった歯車が、音を立てて動き出した。久しくなかった感動が胸に広がる。  俺の中で、あの事件が終わることはない。いや、終わらせることなんてあってはないけない。しかし、自分を押し殺すことが、事件と向き合うこととではない。俺は、迷わず前に進める。そう思った。  階段を下りて駐車場に向かうと、一番奥に大迫の黒い車があった。助手席の窓を軽く叩くと、大迫は固い表情をこちらに向ける。 「どうでしたか」  俺が車に乗り込むと、大迫が身を乗り出して聞いてくる。 「はい。大丈夫です。神園さんは、私の仕事を許可すると言ってくれました」  俺の言葉に、ふっと大迫の表情が和らいだ。  エンジンがかかり、足元から振動が伝わる。車は駐車場をゆっくりと進んでいき、やがて広い道路に出た。 「大迫さんも、神園さんにお願いしてくれたんですね。ありがとうございました」 「そんな、大したことは言ってませんよ」 「いえ、大迫さんのおかげです。ありがとうございます」 「少しでも力になれたなら良かったです。それでは、ボディガードの仕事は受けていただけますか」 「はい。よろしくお願いします」 「いえいえ。こちらこそよろしくお願いします」  大迫の横顔には、嬉しそうな、それでいてホッとしたような表情が浮かんでいた。  交差点に差し掛かろうとした時、信号がちょうど赤に変わった。車はゆっくりと減速し、白線のすぐ手前で停止した。 「大迫さんって、僕のファンだったんですか」  その言葉に、大迫の眉が少し上がった。 「それは、神園さんから聞いたんですか」 「はい。そうです。驚きました」  大迫はしばらく思案する表情を浮かべてから、ゆっくり口を開く。 「私は学生の時、ある病院で入退院を繰り返していたんです」  大迫が遠い目をしながら言う。 「腸の難病で、絶食が続くこともあれば、激痛で寝られないこともありました。苦しくて、苦しくて、自分の運命を呪い続けました。死んだ方が楽だと、ずっと思っていました」  信号が青になった。エンジンがうなり、再び車が動き始める。 「入院している時、一つだけ楽しみがあったんです。それは、病院の向かい側のボクシングジムの様子を見ることです。窓から練習風景を見るのが、私の唯一の楽しみでした。練習している人は何人もいたのですが、その中で一際大きい体の男性がいました。彼のパンチは重く、速く、サンドバッグを叩く姿はカッコよくて、彼を見ている時だけ、苦しみを忘れられたんです。彼の姿から、どれだけ力をもらったかは分かりません」  車はスピードに乗り、快調に進んでいく。周りの景色が通り過ぎる中、大迫の顔はじっと前を向いていた。 「病気を完全に克服したわけではありませんが、今は普通の人と同じように暮らせるようになりました。名のある仕事にもつくことができました。それは、彼からずっと力をもらったからです。そんな中、その彼が苦しんでいることを知りました。私は、あの時の恩返しをしないといけない、そう思ったんです」  交差点が近づき、車は左車線に寄る。大迫が右手でレバーを操作すると、指示器の音がカチカチと車内に響く。 「あ、そうだ。一つだけ訂正があります」  彼が「ふふっ」と笑みを見せる。 「ファンだった、というのは少し違いますね。今でも私は、中山隼人のファンですよ」  彼はハンドルをゆっくりと回す。車は弧を描くように、左に進路を変える。  言葉を返そうとしたが、声が震えそうになり、やめた。俺は大迫と反対方向に顔を向け、窓の外に目をやる。しかし、涙で濡れた瞳には、にじんだ景色しか映らなかった。
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