日が昇らない世界

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 俺は工場の隅で、雑巾を絞る。そして、錆だらけのロッカーを開き、中を掃除していく。普段はこのロッカーには自分の作業着や安全靴を入れているのだが、今は空っぽだった。ここに入っていたものは、今は全て自分のリュックの中に詰め込まれている。  今日は俺にとって、工場での最後の仕事日だった。と言っても今日一日は工場の仕事を与えられず、荷物の整理や掃除を行っていた。  ロッカーの中を拭きながら、この十年間のことを振り返る。重い物を運んでばかりの体力勝負で、油やカーボンなど、汚れの多い仕事だ。口の悪い人も多く、怒鳴られることもあった。ここで働く日々は大変だった。しかし、もう二度とここに戻ってこないんだと思うと、感慨深い気持ちになる。 「中山、おつかれさん」  俺がリュックを背負ったところで、親方が声をかけてきた。いつもの満面の笑みをこちらに向ける。 「親方、本当にお世話になりました」  俺は腰を深く曲げてお礼をする。 「いやいや、こちらこそお前には世話になったよ。もう一緒に働けないとなると寂しいな。次の仕事でも頑張れよ」 「はい、ありがとうございます」  工場の出口に向かおうとしたところで、「中山」と、もう一度親方の声が聞こえる。  振り返ると、親方は目を細めてこちらを見ている。もったいぶったように、ゆっくりと口を開いた。 「お前は、人のために動ける人間だ」  親方の低い声が、薄暗い工場に静かに響いた。 「ここで、お前は、誰よりも真面目に働いてくれた。こっちが心配になるくらいにな。お前の素性を全て知っているわけではないが、とても人を殺したようには思えない、誠実な人間だと思っていたよ。色んな人間と働いてきたが、お前に出会えて良かった。そして、お前が新しい仕事に就くのは、自分のことのように幸せだ。今日までずっと、償いのために働いてきたんだ。これからは、自分のために生きていいんだぞ」  親方はニッと白い歯を見せて笑う。  親方の言葉が、胸を熱くさせる。それは、偽りのない、心の底からの言葉だった。俺は、この人の下で働けて良かった。そう思うと、感情が込み上げてきた。 「ありがとうございます」  俺は震える声で言い、深々とお辞儀をした。 「元気でな。また飲みに行こうぜ」  親方はそう言って、工場の奥へと消えていった。俺はその背中にもう一度お辞儀をした。工場内が薄暗くて良かった。最後にくしゃくしゃになって泣いている顔を見られたら、あまりに恥ずかしい。  搬入用の大きな出口から工場を出ると、正面に見える海に、夕日が沈もうとしていた。空も、海も、俺が立っている大地も、全てを真っ赤に染めている。自然が作り出したその壮大な景色に、俺は見惚れてしまう。心が奪われるとは、まさにこのことだろう。  水平線の近くに、一隻の大型船が航行していた。甲板上にある大きなマストから煙があがる。その白煙は、夕焼けの中に溶けていった。俺は暮れゆく景色を見ながら、バス停までの道を歩き始める。空を切り裂くような汽笛の音が、港内に響いた。
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