日が昇らない世界

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 俺が働いているのは、造船所の下請けのエンジン整備業者だ。造船所からの依頼を受け、船のエンジンの解放整備を行う。  エンジンと言っても船には様々な種類のエンジンがある。プロペラを回して推進力を生むメインエンジン、船内の電力を生むディーゼルジェネレーター、消火用ポンプを駆動する原動機などがある。それらは船によって大きさも型式も違い、台数も変わってくる。  車が車検を受けるのと同じように、船も定期的に検査を受けなければいけない。造船所に入渠し、船内の機器をばらして、問題ないことを確認しないと、運航を続けることができないのだ。その度に俺たちみたいな下請け業者が駆り出される。ただし、俺は工場での作業がほとんどで、船から運ばれてきた部品の掃除をするのが常だった。船ではエンジンの業者だけでなく、配管やタンク、電気系統などの多くの業者がひしめき合っていて、ごちゃごちゃしている。そんなところで作業するよりは、人の少ない工場にいる方がはるかにましだ。 「おおい、そろそろ休憩にしようぜ」  ピストンのカーボンをあらかた取り終わり、軽油拭きを始めたとき、先輩の矢島が声をかけてきた。彼の歳は四十五、俺より十も歳上だが、その屈託のない笑みは実年齢よりも若く見える。  工場の壁にかかった時計を見ると、作業を始めてから一時間が過ぎていた。集中していたため全く時間を意識していなかった。 「分かりました。すぐに行きます」  俺は工場の脇にある水道で手を洗う。固形石鹸を泡立てるが、煤と油で汚れた手はなかなかきれいにならなかった。  ふと目の前の鏡を見ると、自分の作業着のいたるところに、重油が染み込んでできた黒い斑点が付いている。重油で付いた汚れは、洗っても取れることはない。服の袖で鼻をこすると、油のツンとする匂いが鼻の奥を刺激し、思わずむせてしまう。  喫煙所に行くと、すでに矢島が煙草を吸っていた。俺の姿に気づき、左手を上げる。彼の左手には、小指がない。それは何度見ても慣れることはなかった。  この業界は、訳ありの人間がかなりいる。どこの会社にも就職できない、問題ある人間が流れ着いてくるのだ。元ヤクザなんてのも良くある話だった。刑務所を出た俺が普通に働けるのも、この業界だからだろう。 「親方が言ってたんだけどさ、来月に横浜の方の造船所で作業が入ったんだってさ」  矢島が煙を吐き出しながら言う。 「えっ、マジっすか。ここの仕事も始まったばかりっすよ」 「ああ。急に船が修繕で入るんだってさ。まあ、うちらも横浜の方にはお世話になっているからさ、断れないんだろ」  思わずため息をついてしまう。先月から仕事が忙しく、ろくに休みも取れていなかった。来月は久しぶりにまとまった休みを取れる予定だったが、それもなくなりそうだ。  造船所は、天候や船のトラブルなどで、予定が変更されることも多い。そのため、俺たちみたいな下請けの業者は、造船所に振り回されることがしょっちゅうだ。しかし、こちらの都合で断れば、次の仕事が来ない可能性もあるから、それにも従うしかないのだ。 「あれ。あの車って、うちのだよな」  矢島が指さす方向を見る。造船所内の狭い道路、そこを走っているのは、間違いなくうちの社用車だ。 「本当だ。うちのですね」 「親方、今日はずっと船の方にいるって言ってたのに、なんか忘れ物かな」  目の前の駐車スペースに車が止まった。下りてきたのは、親方と、見たことのないスーツ姿の男だった。その男は痩せ型で、四角い眼鏡をかけ、髪型は七三、いかにもインテリという出で立ちだった。  男は親方と話をしていたが、やがてこちらに向かって歩いてきた。俺の目の前でピタリと止まる。 「中山隼斗さんで間違いありませんか」  眼鏡の奥の切れ長の目が、俺をまっすぐに見る。 「え、あ、はい」  急に自分の名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びる。 「私は大迫勇二と申します。少しお時間よろしいでしょうか」 「まあ、はい」  断ろうにも断る理由がなく、勢いに押されるようにうなずいてしまう。 「それではあちらで少しお話をしたいと思います」  俺と大迫は、工場の横にあるプレハブの事務棟に入る。その一番手前の部屋、談話室に入り、ソファに向かい合って座る。  いったい俺に何の用事だろうか。ブルーカラーの俺たちが、こんなスーツの人間と関わることはほとんどない。良い話か、悪い話か。彼の方を見るが、その顔には貼り付けたような笑みが浮かんでいるだけだった。 「改めて自己紹介させてください。私、大迫勇ニと申します。こちらで働いております」  彼が名刺を差し出す。そこには、ある省庁の名前が書かれていた。  役人、か。  俺はもう一度、彼の身なりを確認する。たしかに、役人と言われたら、それが一番あってそうだ。しかし、余計に疑わしく思えた。役人が自分に用事があるなんて、良いことだと思えない。 「早速ですが、本題に入りたいと思います」  大迫が、一つ大きな咳払いをする。 「実は今、政府の要人のボディガードになっていただける人を探しているんです」  彼が早口で言う。政府、要人、ボディガード。どれも聞き慣れない言葉だった。唐突な話に頭がついてきていない。 「そこで、あなたにボディガードをしてほしいと思っているんです」  そう言った彼の表情は、自信に満ちていた。輝く瞳で、こちらをまっすぐ見てくる。  俺が、ボディガードを、する。ようやく俺の頭にその内容が入ってきた。と同時に、多くの疑問が浮かぶ。 「一つ良いですか」  俺が言うと、彼は「なんでしょう」と、目を一段と大きくする。 「なぜ、俺なんですか」  その言葉に、彼が満面の笑みを浮かべる。 「それは中山様の過去の経歴から選ばせていただきました。プロボクサーとしての経歴、ボディガードとしてはうってつけです」 「えっと、その……」 「もちろん待遇は悪くしません。今の仕事よりもお給料は多く払わせていただきたいと思っています。佐々木工業の社長にも私から話をさせていただきたいと思いますし、それに……」 「俺の過去を調べたんですよね」  俺はじっと彼の瞳を見つめる。 「もちろん、俺が人を殺したことがあるってことも、知ってるんですよね」  部屋に沈黙が流れる。外から聞こえる自動車のエンジン音だけが響いていた。 「もちろん知っています。その上で中山様にボディガードをお願いしております」  大迫の強い視線が俺の目を貫く。その迫力に、何も言えなくなってしまった。 「どうでしょうか。悪い話ではないと思います」  俺はすっと視線を下げる。頭は混乱していた。色んな想いが、胸の中を渦巻いていた。 「少し、考えさせてもらって良いですか」  俺の言葉に大迫は「もちろんです」と微笑みかけてくる。
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