日が昇らない世界

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 一日の仕事も終わった頃には、辺りは夜の帳に包まれていた。造船所内の工場や桟橋には、まばらに街頭があるだけで、まともに歩くのも難しいほど暗い。  俺は工場のすぐ前にあるバス停に立っていた。俺の後ろには五人ほどが並んでいる。造船所の社員か、俺みたいな下請けの人間だろう。この工場は、入口のゲートから一番遠い場所にある。造船所内には定期的に無料バスが走っており、いつもこれを利用している。もしバスを使わなければ、暗くて、滑走路みたいに長い距離を歩かなければいけないのだ。  やがて、バスのヘッドライトが見えた。あまりの明るさに目を細める。耳障りなエンジン音と、きつい排気ガスの臭いとともに、バスが目の前に止まる。  車内へ入り、一番後ろの席に座った。全ての人間が乗ったところで、バスはすぐに動き出す。  俺は窓の外の景色を見ながら、今日のことを考える。ボディガードの仕事ができるなんて、前科のある俺にとっては千載一遇のチャンスだ。仕事の内容も、魅力的に思えた。普通ならすぐにでも飛びつくような話だ。  ふと俺の頭に、十年前の記憶が蘇った。  あの頃は、幸せに満ちていた。ボクシングの試合でも勝利を積み重ね、頂点にもうすぐ手の届くところまで来ていた。結婚を約束した恋人もいた。小林恭子、俺が無名の頃から応援してくれたファンの一人で、いつも俺の近くで俺を支えてくれていた。未来には希望しかない、本気でそう思っていた。  あの事件当日、俺は恭子と会う約束をしていた。試合前になると、俺はボクシングに集中するため、恭子とは会わないことにしていた。しかし、どうしても会いたいと言う彼女の頼みを断り切れず、彼女の元へと向かったのだ。  月も出ない暗い夜だった。時間も遅く、人通りも全くない。アパートの下で待っていると恭子は言ったのだが、そこに彼女はいなかった。電話をかけても出ることはなく、心配になってきた。ふと、近くの公園から、女性の叫び声が聞こえてきた。それは、聞き覚えのある声だった。俺は急いで声がした方へと走った。  公園の隅には、一人の男と一人の女性がいた。小柄な男が女性に馬乗りになり、身ぐるみを剥いでいた。その女性は、恭子だった。その光景に、全身が怒りに支配された。完全に我を失った。恭子から男を引き剥がした。男の顔面を何発殴ったかも分からない。無我夢中に腕を振り続けた。  恭子の叫ぶ声で、はっと我に返った。目の前には、血まみれで、ぴくりとも動かなくなった男が横たわっていた。恭子の顔は幽霊のように青ざめ、その体は小刻みに震えていた。  やってしまった。そんなことを思っても、もうどうすることもできなかった。  恭子が金切声を出した。その恐怖におびえた瞳は、男にではなく、殺人鬼の俺に向けられていた。  そこから恭子に会うことはなかった。聞いた話によると、恭子は精神を病んでしまい、とても人と話せる状態ではないとのことだった。何にしても、人を殺した俺が、恭子にかけられる言葉など何もない。  やはり、俺が、まともな仕事をする権利なんてないんだ。俺はすっと目をつむる。工場で、汚れたピストンを磨き続ける、それが俺に相応しい仕事だ。自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。  バスは変わらず、薄気味悪い造船所の道路を進んでいく。でこぼこの道を走るバスの振動が、荒れる心を紛らわしてくれた。
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