日が昇らない世界

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 急に黒い雲が広がり出したと思ったら、今しがた雨が降ってきた。屋根を打つ雨は激しく、散弾銃でも撃っているような音が工場内に響いている。築何十年と経っている屋根が落っこちてきても不思議ではない。冬の雨は辛い。身体も心も芯まで冷えそうだ。  工場の作業場には、ピストンが等間隔に並べられていた。どのピストンも、粉雪をまぶしたみたいに表面が白くなっている。俺は一つ一つのピストンに顔を近づけ、トーチで照らしていく。  これはカラーチェックという非破壊検査の一つで、視認できないような小さい傷を見つけるために行う。赤い浸透液を長い時間染み込ませた後、その浸透液をきれいに拭き取り、そこへ白い現像液をスプレーで吹きかけるのだ。もし傷があれば、その部分から赤い浸透液が染み出てくるという仕組みになっている。  ピストンを隈なく見たが、赤い浸透液が染み出した箇所はなかった。俺はふうっと息を吐く。カラーチェックが終われば、あとは船に運んで組み立てるだけだ。作業も終わりが見えてきた。 「おい、中山。ちょっと良いか」  振り向くと、そこには親方が立っていた。いつもと違い、固い表情をしている。 「はい。なんですか」 「ボディガードの話だ」  ボディガード。その言葉に、胸がちくりと痛む。 「お前、断ったんだって」  親方は表情を変えずにこちらを見ている。俺は「はい」とうなずく。親方の目を見ていられず、視線を床に向ける。 「かなり良い条件じゃないのか? 俺が言うことじゃないのかもしれないけど、受けた方が良いと思うぞ」 「はい、まあ、そうなんですけど」 「うちのこと、気にしてるのか? それなら心配はない。お前の代わりなんて、いっぱいいるんだから」 「いや、それは、その」  それも心配事の一つだった。うちは仕事もかつかつで、一人でも抜ければ他の人間の負担が増えるのは明らかだった。親方はこう言ってるが、おそらく俺がやめれば、かなり厳しいに違いない。 「お前には、ボディガードの話を受けてほしいんだけどな」  俺はすっと視線を上げる。親方は顎をさわりながら、遠い目をしていた。 「俺もなあ、昔は悪だったんだよ」  親方の唐突な言葉に、「はあ」としか答えられなかった。 「ろくに働きもせず、毎日酒を飲んで、女のケツばっか追いかけて、どうしようもなかったんだ。親父はそんな俺でも見捨てずに、自分の会社で働かせて、会社まで継がせてくれた。感謝してもしきれないんだ」  親方の過去を聞くのは初めてだった。真面目で懐の広い親方の姿しか知らない俺としては、信じられなかった。 「だから俺も、お前みたいなやつが放っておけなくてさ。どこにも行き場のない人間を救ってやるのが、親父への恩返しなのかなって思ったりして」  しみじみと語る親方に、胸がじんわりとする。 「別に会社に気を使う必要はないからな。いつでも心変わりしてもいいんだぞ」  そう言って俺に背を向けると、工場の外へと歩いていった。俺は親方が消えたあたりをぼんやり眺める。  親方の言葉は有り難かった。前科がある俺を拾ってくれただけでない。俺の未来のことを考えてくれている。こんなに嬉しいことはない。  しかし……。  俺はピストンの脇に座り込む。ウエスを手に持ち、白い現像液を拭き取っていく。拭くたびに、ピストンの黒い地肌が現れてくる。  手を動かしながら、事件を起こす前のことを思い浮かべる。俺は色んな人から称賛を受けていた。ボクシングで結果を出し続け、世間が俺をスターにしてくれた。調子に乗っていた。しかし、事件の後、俺に向けられたのは、侮蔑や批判、怒りや悲しみ、負の感情しかなく、味方なんて一人もいなかった。まさに天国から地獄に突き落とされたのだ。俺は、奈落の底を歩み続けるしかない。日が当たる道を歩くなんて俺には許されない。いや、顔を上げて、太陽を見ることすらしてはいけないのだ。  俺にはここの仕事がお似合いだった。カーボンまみれになり、油の匂いをまとい、人目のつかない造船所の工場で働き続ける、それ以上は何も望まない。ここで無心に機械の部品を磨き続けている時だけ、俺の心の奥から滲み出る穢れも拭い去ってくれるのだ。  いつしか雨は止んでいた。工場は不気味なくらい静かで、俺は黙々とピストンを磨いていった。
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