日が昇らない世界

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「第一ドックハウス前、第一ドックハウス前です」  バスの車内にしわがれた声が響くと、バスは速度を落とし、錆びついたバス停看板が置かれた停留所で止まる。乗客達がもぞもぞと動き出す。どの顔もだるそうで、朝の爽やかな空気とは不釣り合いだった。働くのは嫌だ、と顔に書いている。  造船所内の無料バスは、朝早くから出ている。船によっては早朝に出渠することもあるからだ。俺はもっと遅いバスでも問題ないのだが、人ごみを避けるため、朝一番のバスに乗って工場へ向かうのだ。  降車ドアが閉まり、バスは再び動き始める。入口ゲートから、本部棟、ドックハウス、ドライドックと周ってきたバスは、最終目的地の工場へと走っていく。車内に残ったのは、運転手と俺だけだった。この時間帯で整備工場に行く人間は、俺くらいだ。  バスの背もたれに深く腰かけ、今日の仕事の流れを頭の中でイメージする。一昨日から、新しく入渠したタンカーの発電機の整備を任されていた。前回よりも一回り小さなエンジンで、それほど苦労しないはずだ。バスの外に目をやると、桟橋の向こう側には、海が見えた。朝日を浴びて輝く海面をぼんやり見つめる。 「第三工場前、第三工場前です」  バスが大きく揺れ、工場の停留所に止まる。空気が漏れるような音が聞こえ、降車ドアが開く。俺はリュックを背負い、外へと向かう。 「中山さん、おはようございます」  バスを降りてすぐに、声をかけられた。その声の主は、大迫だった。今日もスーツを身にまとい、背筋をピンと伸ばして立っている。 「今日もお話があって、やって来ました」  淡々とした彼の口調に、思わずむっとする。 「今から仕事なんですけど」  俺はあえてトゲのある言い方をする。背後でバスが動き出す音が聞こえた。 「社長に許可は取っています」  彼はひょうひょうと答えた。  俺は腰に手を当て、大きくため息をついた。社長に許可を取っていると言われれば、断るに断れない。 「メール、送りましたよね。俺は仕事を受ける気はないと」 「ええ、分かっています」  俺と大迫は話しながら、事務棟へと入る。廊下は頼りない蛍光灯のせいで薄暗かった。足元から立ち上がる冷気が、身体を震わせる。 「どれだけ言われたって、やらないもんはやらないですよ」  吐き出した白い靄が、暗闇の中に溶ける。息を吸うと、肺まで凍りつきそうだ。 「いや、今日はただ、中山様に会ってほしい人がいるんです」 「会ってほしい人?」  大迫はその問いに答えず、黙って談話室のドアを開けた。  視界の端に、一人の女性の姿が映った。部屋の奥のソファ、そこに厚手の茶色いコートを着た女性が座っていた。色白の顔が、すうっとこちらを向く。俺は、言葉を失う。まるで時が止まったかのように、目の前の光景が停止していた。 「隼斗」  女性がか細い声を出す。あの時と、変わらぬ声が、鼓膜を揺らした。  彼女はゆっくり立ち上がり、一歩二歩とこちらに近づいてくる。 「恭子」  俺はじっと彼女を見る。目の前にいる彼女から、目が離せなかった。十年ぶりに見る彼女は、まるで時を越えてきたかのように、十年前の彼女と同じだった。  俺と恭子は、手が届く距離にまで近づいた。何も言えず、しばらく見つめ合う。彼女の瞳に涙が浮かび、その表情がくしゃりと歪んだ。 「隼斗、ごめん」  恭子は俺の胸に飛び込んできた。そして、声を荒げて泣き始める。 「ごめん、本当にごめん」  胸の中で泣きじゃくる彼女に、俺はどうすることもできなかった。 「ごめんなさい」  部屋の中には、彼女の泣き叫ぶ声だけが響いていた。
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