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俺は彼女が泣き止むのを待った。ひとしきり泣いて彼女が落ち着いてから、俺たちは向かい合って座った。
「ごめんなさい」
何度目か分からないその言葉が、彼女の口からこぼれる。
「私は、あなたに寄り添うべきだったのに、私だけ逃げて、あなたがどんな苦しみかも考えもせずに……」
「いや、そんな、良いんだよ」
「本当に、本当に、ごめんなさい」
彼女は座ったまま、頭を深く下げる。その姿に、胸が締め付けられる。
「それより、なんで恭子が、ここにいるんだ」
「大迫さんから連絡を受けたの。隼人にボディガードの仕事を依頼しているって。それを隼人が断っていることも。それで、いてもたってもいられなくなって、会いに来たの」
「そんな、急すぎるよ。こっちにも、心の準備が……」
その時、彼女の左手のある物に気づく。薬指、そこには指輪がつけられていた。
「結婚、したんだな」
俺の言葉に、彼女ははっとした表情になる。その左手を隠すように、自分の右手を重ねる。
「おめでとう」
すっと、俺の口からその言葉が出た。
「うん。ありがとう」
恭子は暗い表情のままで言う。
彼女の結婚は、素直に嬉しかった。彼女がどんな状況なのか、ずっと確かめる術もなく、心配だった。しかし、家庭を持って幸せに暮らしているなら、俺にとってはそれ以上ない喜びだ。
「相手は、どんな人なんだ」
俺の問いにしばらく何も言わなかったが、ためらいがちに口を開く。
「精神科の、先生なの」
精神科。その言葉が俺の胸を刺す。恭子が事件の後、しばらく精神を病んでいたという話を思い出した。
あの事件で人生が大きく変えられたのは、俺だけではないはずだ。この十年間、彼女も苦しみ続けていたに違いない。俺の知らない苦しみをたくさん経験していたはずだ。そして、寄り添ってやれなかったのは、俺も同じだ。
「俺にも言わせてくれ」
俺は一つ息を吐き、深く頭を下げる。
「恭子、本当にすまなかった」
「えっ」
「俺の方こそ、ずっと謝るべきだった。俺のせいで、お前に与えた心の痛みは、計り知れないものだったと思う。お前にかけた苦労が、謝って許されるものじゃないことも分かってる。でも、謝らせてくれ。本当にごめん」
「そんな、やめて」
彼女の懇願するような声にも、俺は頭を上げなかった。
「謝らなきゃいけないのは、私の方だから。お願い、顔を上げて」
すっと顔を上げると、彼女が困ったような顔でこちらを見ている。
「私が、隼人の味方にならなきゃならなかったのに、自分のことだけ考えて、隼人から逃げ続けたの。ずっと隼人のことを忘れようとしていた。この十年間、できるだけ隼斗のことを考えないようにして。隼人が一番辛いってのも分かっていたのに」
また、恭子の目から涙が流れる。
「大迫さんから、隼人のことを聞いて、私って何てひどい人間だろうって思った。隼人は、この十年、あの事件のことを忘れずにいた。ずっと罪滅ぼしのように働いてきた。本当に、すごいことだと思う」
彼女の真っ赤な目が、こちらを向く。
「ボディガードの話、聞いたよ。すごい仕事だって。優秀な人じゃないと選ばれないって」
彼女の両手が、俺の右こぶしを包む。こちらを向く彼女の目には、強い意志がこもっていた。
「私は、隼斗に幸せになってほしい。隼人は、絶対に幸せにならないといけないよ。こんなに良い話、ないと思う。ボディガードの話、絶対に受けよう」
さっきとは打って変わって、力強い彼女の声に、俺はひるむ。
「俺には幸せになる権利なんてないよ」
「そんなことない」
彼女が首を左右に振る。
「隼人は、もう十分だよ。自分のしたことと向き合い続けて、本当にすごいと思う。隼人は幸せになって良いんだよ」
幸せになっていい。その言葉が、心に響く。
「私からのお願い。この仕事を受けて」
恭子のその顔は、十年前に見たのと同じ、朗らかで、心の奥まで照らしてくれる笑顔だった。
「分かった」
俺は大きく深呼吸をする。心を覆っていた黒いものが、剥がれ落ちていくのを感じた。
「この話、受けるよ」
彼女の潤んだその瞳がきゅうっと細くなった。ありがとう。彼女のその言葉は、言葉にならなかった。
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