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1.噂
巧が浮気している。
その噂を聞いたのは、先週はじめのことだ。
成程。言われてみれば心当たりがある。
朝、いつも一緒に行くはずが「今日は用があるから先に行く」と連絡が来る。
帰りは時間があれば教室まで迎えに来ていたのが、「部活で遅くなるから先に帰ってて」と言う。
気がつけば、あちこちからチラチラと気になる視線を向けられていた。
とどめは、今週の月曜だ。
「保坂先輩」
巧と噂のある後輩に、廊下で呼び止められた。
「すみません、これ。巧先輩に渡していただけませんか」
そう言って、渡されたのは巧のネクタイだ。
うちの高校のネクタイは、学年でカラーが違う。しかも裏にイニシャルが入っているからすぐにわかる。
小ぶりのきれいな顔にさらさらの黒髪。長いまつ毛に縁どられた大きな瞳は、明らかに挑戦的な目をしていた。
「何、これ」
「週末、部屋に巧先輩が忘れていったので」
出来るだけ、さりげなさを装って返事をする。
「ああ、そう。⋯⋯じゃあ、自分で渡したら」
「⋯⋯それだけですか!」
「はあ?」
そう答えると、ぎりッと歯ぎしりが聞こえてきた。
「⋯⋯そんなだから、巧先輩が「疲れる」って言いだすんですよ」
捨て台詞のように言いきって、くるりと踵を返す。
小柄なその姿を呆然と見送った。
巧が、おれのことを、つかれるって?
後輩の言った言葉が耳について離れない。
教室に入って席に座っても、ぼうっとしたままだ。
「唯」
幼馴染で同じクラスの多希が、心配気な視線を向ける。
「噂なんか、あまり気にしない方がいい」
「うん、別に」
気にしてなんかいない、と言いたかった。でも、うまく言葉が出てこない。
下を向いたまま、教科書のページを見ても、全く頭の中に入っては来なかった。
「部活が休みだから久々に一緒に出掛けよう」
1カ月前、そう言ってきたのは巧だった。
「唯の好きなところでいいよ。考えておいて」
巧に言われたから、ネットで色々調べたし、友達にも評判の良いところを聞いた。
普段あまり出かける方じゃない。休日の外出は、家族や幼馴染の多希に誘われて行くぐらいだ。
巧は、部活のバスケが忙しいから、休日が空くことは少ない。
二人で出かけたことは数えるほどしかなかった。
ずっと、その日を楽しみにしていた。それが先週末だ。
それなのに、巧からのLINEには、前日の夜に「ごめん、明日は用ができた」の一言だけ。
あの後輩は何と言った?
「週末、部屋に巧先輩が忘れていったので」
おれとの約束を破って、あいつと一緒にいたってこと?
⋯⋯だめだ。もうムリ。
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