マリッジなブルー

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 ジャズが好き。  コルトレーンのサックスがシーツのように私を包み込む22時。  A面とB面のある世界の、たった33回転の恍惚(こうこつ)の中のタメ息の33回。  あの哀愁あるテナーの、枯れた音色に絡みつく空気清浄機の音。  無声映画の震動運動。  無制限な振り子運動。  陽の光を浴びて育つ雑草の歓声。  月の光を聞いて欠けていく華奢な私の感性。  小説のページを(めく)る音の隙間から零れ落ちる福音が、私を物語へと誘う。 「ねぇ!」 「あら? あなた……」  白いワンピースの少女。特徴的な髪留めをしているから、すぐに分かった。 「また来てくれたのね。何か飲む?」 「炭酸じゃないジュース」  そういえば、私はトマトジュースが好きな子供だった。 「幸せ?」 「幸せよ」 「嘘!」 「嘘じゃないわ」  少女は不満気にストローに口をつけた。白い管が赤に染まってゆく。  プラスチック製の血管。  血管の中のビーズのような血色素。 「じゃあ、お花屋さんにはなった?」 「ならなかったけど、花壇でお花を育てているわ」 「ケーキ屋さんには?」 「甘いものは好きじゃなくなったの」 「魔法使いには?」 「それは、なれたかもしれない」  少女の表情が明るく周囲を照らす。 「どんな魔法が使えるの?」 「新しい命を生み出す魔法とか、人に優しくなれる魔法。それと少し料理が美味しくなる魔法も」 「ふーん……」  興味を惹かれなかったのか、少女の視線は再びトマトジュースへと向く。 「貴女にはまだ難しい魔法かもしれないわね」  私の指がピアノの上を出鱈目(でたらめ)に踊る。  調子外れな不協和音。  仲間外れな少女たち。 「本当はね、不安で何処かへ逃げ出してしまいたい」 「ほら、やっぱり嫌なんじゃん!」  今度は見覚えのある前髪をそろえたセミロングの女生徒。  三年間だけ着た、制服の懐かしい匂い。 「久しぶりね」 「私、コーラ」  炭酸の跳ねる音がグラスに溢れる。  嘆息(たんそく)の重い吐息が足元まで零れる。 「一緒にロックフェス行った先輩じゃないもんね。初めて好きになった人じゃないなんて、本当じゃない!」 「初恋なんて、麻疹(はしか)みたいなものだから」 「そうやって大人のフリして、無理しながら成長してきたのよ」 「どうして、そんなこと言うの?」 「だって、何だか(しゃく)(さわ)るんだもの」 「難儀な性格してたもんねぇ」  私は世の中の常識や団体行動が苦手で、いつもピリピリと神経を尖らせているような学生だった。  そのくせ周りを気にして、可愛げは無かった。と、自分でも思う。  無味乾燥な学生生活を早く終えたくて、無闇矢鱈(むやみやたら)と手足をバタつかせていた。 「いろんなもの我慢して、いっぱい泣いて、私って一体何なの? ってなるじゃん」 「そういうのじゃないの。多分、自分の中の世界が新しく変わってゆくのが不安なだけ」  どんなに言葉を()ぎ木のように重ねていっても、この想いを形にするのは到底無理な話だ。 「私は……私は怖いよ」  彼女の瞳に涙が浮かぶ。  炭酸のシュワシュワ。  炭酸の雨のようなシュワシュワな涙。  言葉にならない泡のような痛みが弾け飛ぶ。 「何か得体の知れない別人になってゆくみたいで嫌だよぅ」 「大丈夫よ。貴女はいつだって貴女のままだから。私も、きっと同じだから」  箱庭の中で、世界を知った気になっていた生意気な子供の頭を撫でる。 「本当は自分だって泣きたいくせに」  メトロノームのカチカチ。  目の奥のチカチカ。  カチカチで弾まない心。  ガチガチで定まらない視線。 「本当は嘘なくせに」 「本当は泣きたいくせに」  鉢植えの中の憂鬱。  マリッジなブルー。
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