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♢きっかけ
♢
初めて降りた駅は、とんでもなくうるさかった。
うるさい、といっても大きな音が永遠と耳を劈いている訳ではない。
意味のない不快な音が、右へ左へと飛び交っていた。
雑音の殆どがゲームセンターやカラオケ店のBGMで、
それだけでも利用者の年齢層と治安の悪さを表している。
ガヤガヤと、意味を成さない音が羅列する駅前で
俺は既に40分も佇んでいた。
寄り道する学生に時間を合わせているのか、
焼きたてパンの匂いがうっすらと漂っている。
足はジンジンと痛い。
それでも俺は座る事も、場所を移動することもしなかった。
ワイヤレスイヤホンを付けてキョロキョロと辺りを見回すが、
再生ボタンを押していないスマホは曲のひとつも歌いやしなかった。
あくまでも騒音の中に混ざっている必要な情報を得るために、
通行人の1人に成り済ますファッションであった。
この所作が正解なのかは分からない。
服装も気を付けてきたつもりではあったが、
赤いパーカーは少々目立ち過ぎだったかもしれないと誰に言うでもなく反省していた。
ようやく白髪混じりの男が改札をくぐって出てきたとき、
胸が少しだけ昂った。
学生服を着ている子どもたちの中で
同じ時間の電車を降りた老人は、その1人だけだったからだ。
間違いない。
息を飲んで、老人の動向を見守った。
老人は、杖をついて歩くものの足腰はしっかりしているようにも見えた。
俺が立っている場所からはちょうど正面に位置するベンチに座り、
袖が無いベストのポケットに入っていた缶コーヒーを取り出した。
携帯電話では無かった。
合図はまだだ。
だんだんと鼓動が早くなってくる。
紙袋を持っている右手が小刻みに揺れた。
俺は今日、犯罪者になる。
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