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広島、典子の章 1
昭和14年、広島。
元安川沿いを歩いていた五歳くらいの小さな少女が、不意に鼻先を掠めて飛んできた蝶を追いかけて川縁へ向けて駆け出した。そしてそのまま川へと転がり落ちる。
『危ない!』
とっさに伸ばしたその手は黒ずんでいて、人のモノに近いがどこか異質でもあった。
しかし、その手に捕まれて川への転落を免れた少女は、黒目がちの瞳をくるくる光らせて〈其れ〉を見て、向日葵のように無邪気に笑った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「お兄ちゃん」と呼ばれた〈其れ〉の手が、ほんの少し人間のそれに近くなる。
『お前は、俺が見えるのか?』
「?見えるよ?お兄ちゃんはウチが見えんのん?」
小首を傾げる少女の瞳に写る自分は、確かに人間の青年のようでもあった。
「おーい!典子!」
「あ!お父ちゃん!お父ちゃん!ここよー!」
ランニングシャツに薄汚れたズボンをはいた中年男が、にわかに焦燥感を滲ませてこちらへ走ってくる。
〈其れ〉は掴んでいた小さな典子の腕を離すと、典子はちょこちょこ駆けて父親らしき中年男の元へ向かった。
〈其れ〉は、そんな二人を何の感情もなく見つめていた。そう思っていた。少なくとも〈其れ〉は自分の顔がにわかに歪んでいることに気がつけてはいなかった。
「………」
典子と中年男は、不思議そうな面持ちで〈其れ〉を見ている。
そして典子はそっと中年男に耳打ちをした。典子の言葉を聞いた中年男は、改めて〈其れ〉を見や否や、典子を抱えたまま〈其れ〉の傍へと足早に寄ってきた。
驚いた〈其れ〉は二歩三歩と後退するが、中年男は勢いを増して駆けてくると、〈其れ〉の腕をがしっと掴んで、
「あんた、典子を助けてくれたんか!ありがとう!ありがとう!」
中年男は真っ赤に染まった顔で何度も頭を下げて笑った。
「あんた、名前は?どこに住んどるんね!お礼させてくれんか!」
快活な男の言葉にたじろぐばかりで、〈其れ〉は二の句を継げなかった。
「お父ちゃん、お兄ちゃんはね、住むとこないんよ。顔も声も身体も全部、今さっき出来たんじゃけ。ほいじゃけ、お兄ちゃん、どこにも行くとこないんよ。」
黙して俯く〈其れ〉を見かねたように、典子が不思議なことを口にした。
『………』
〈其れ〉は俯いたまま、目を丸くして絶句する。
典子の言葉は真を紡ぎ、〈其れ〉の今を如実に表していた。
だが、そんな拙い少女の奇っ怪な説明など、おそらく誰にも理解されないと、〈其れ〉にはわかっていた。わかっていたはずだが、
「……う、うう、」
〈其れ〉は堪えきれずにその場に踞り、咽び泣いた。
(……自分を知る者がこの世に存在した。)
そのたった一つの事実が、〈其れ〉の心にじんわりと暖かな色を滲ませる。
中年男と典子は、〈其れ〉の傍にしゃがみ込むと、
「泣きんさんなや。辛いことでもあったんか?」
柔らかく穏やかな言葉で〈其れ〉の肩をポンポンと叩いた。
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