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広島、典子の章 2
父一人娘一人。
典子の父、征一郎が働きに出ている間、典子の面倒を見たのは、典子を助けた「名もなき男」だった。
「名前がないんかぁ。ほいじゃったら、名前はナナシでええじゃろ。」
安穏とした征一郎の提案で、〈其れ〉は初めて名をもらった。
それから6年後、昭和20年。
典子は11歳となり、袋町国民学校に通っていた。
戸籍を持たないナナシは、6年前と変わらず、留守がちな征一郎に代わって家事をしながら典子の成長を見守った。
「典子、今日は芋が取れたけぇ、夜はふかし芋が食えるで。」
猫の額ほどの庭に植えた芋の泥を、水桶で洗い落としながら、帰宅した典子にナナシは声をかける。
「え!ホンマ!」
喜び勇んで典子はナナシの手元を覗いて、「わー、ホンマじゃ!大きいねえ」と感嘆の声を上げた。
戦火が激しくなり、めっきり食料が手に入りにくくなっていた中で、芋は典子たちにとってこの上ないご馳走だった。特にふかした芋は典子の大好物だった。
「ほら。できたで、」
「わー、早く早く!ナナシ、座って座って!」
帰りの遅い征一郎を待たず、二人は小さな食卓を囲んで笑い合いながら手を合わせる。
光が外に漏れないように黒い幕で覆った灯りの元では、隣の相手の顔もはっきりとは見えない。
それでも典子は「美味しいねぇ」と芋を頬張りながら微笑んだ。
人ではないため食事ができないナナシも、典子を見遣っては嬉しそうに笑う。
真っ暗闇の中でも、征一郎の帰りが遅くても、典子はナナシがいるお陰で寂しさを感じずにすんでいた。
「……!」
ウーウーウー…
「…あ、ナナシ!」
しかし、戦火は穏やかな夕食の一コマさえも許してはくれず、
「空襲警報じゃ!典子!防空頭巾を被れ!」
闇夜を引き裂くサイレンはいつも突如轟いた。
典子は急いで防空頭巾を被り、近所の防空壕へと向かう。だが、
「ナナシ!」
典子は辛そうな面持ちで、毎度、玄関先に出てはナナシを振り返った。
「俺は行かれん。俺は、…他の人には見えんけぇ」
そして毎度、ナナシはうっすら笑って寂しそうに言う。
「人前で典子が俺に話しかけたら、変に思われるじゃろ?じゃけ、俺は行かれん。いつも言うじゃろ。……ほら、早よ行け」
「ウチも残ったらダメなん?」
「典子になんかあったら、俺が征一郎に怒られるじゃろ。それもいつも言いよる。ほら、早よ、」
追い出すように典子の背を押すと、典子は二度、三度振り返った。
ナナシは手で早く行けと促す。
「ナナシ、死なんでね!」
それだけ言うと、典子は防空壕へ向けて走り出した。
「俺は死なんよ、典子。死ねんのんじゃ。」
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